第14話 美弥子の来訪

 「あれ、今日もいらっしゃるだなんて」


 霧央が「喫茶室すずらん」の扉を開けると、富子が素っ頓狂な声を上げた。

 「ちょっとね」と言うと、富子は「大変ですねぇ」と奥へ引っ込んで行く。

 こんなときの霧央の注文は必ず珈琲と決まっていた。無言で豆を引くマスターと目が合い、どちらともなく軽く会釈する。

 雨模様のせいか、店内の客はまばら。

 霧央はラジオから流れるクラシックに耳を澄ましながら珈琲を待つ。

 雨の日はなんだか眠い。さっさと家に帰りたいと思いながらまぶたこする。


 そんな霧央の視界に、白いものが横切った。それはレースのハンカチで、今し方店にやってきた客が落としたようだった。


「……お嬢さん、落としましたよ」


 声をかけると、令嬢は余裕たっぷりにこちらを振り返る。


「まあ、ありがとうございます」


 大きな瞳に豊かな唇。目を美貌びぼうの少女。彼女の相貌そうぼうはすでに知っていた。

 流行りの青いアイシャドウに真っ赤な口紅、白粉の甘い香り。鮮やかな銘仙が、彼女の可憐な雰囲気に華を添えている。

 やっとお出ましかと霧央は思った。

 美弥子はおっとりと微笑む。


「一人で喫茶室というのも、味気ない気がしておりましたの。ご一緒させていただいても?」

「生憎、小生は女性を楽しませるような会話は持ち合わせてはいないのだけれども」

「まあ、ご謙遜けんそん


 美弥子は霧央の返事も待たずに向かいの席に座る。相席を断られることなど、微塵みじんも考えていないようだった。

 クリームソーダを注文すると、霧央を楽しげに見つめる。


「このお店にはよくいらしてるの?」

「常連と呼ばれるほどにはね」

「いつもお仕事帰りに?」

「まあ、ね」

「あら……もしかして、帰りたくない理由がおありになるんじゃありません?」


 美弥子が意地悪に微笑む。

 ちょうど注文の品が運ばれてきて、霧央は珈琲を少し口に含んだ。目の前の少女はスプーンでちまちまとアイスクリームを突いている。


「クリームソーダって好きよ。刺激的で、それでいて甘くって。わたくし、そういうものが好き。退屈なものは嫌い」

「……ああ、わたしも楽しいことは好きだね」

「そうよね。人間って誰しも、楽しくって美しいものが好きだと思うわ」


 美弥子が上目遣うわめづかいに霧央を見た。


「……聞いてくださる?最近ね、わたくしったら失恋してしまったの」

「ほう」

「いいえ、違うわね。退屈なお説教をされたものだから、こっちから振って差し上げたのだわ」

「と、すると君は池辻子爵の諫言かんげんに耳を貸さなかったわけだ」


 ぴくり。美弥子が片眉を上げた。だがそれも一瞬のことで、すぐさま美しい微笑みを取り繕う。


「……うふふ、いやだわ。わたくしのことを知っていらしたの?」

「どうだろうね」


 ここしばらく、霧央は尾行を受けていた。それは出勤と退勤のときだけだったので、何者かが自分と接触を図りたがっているのだろうと思った。そうでなければ軍人を相手にあからさまな尾行などしないだろう。

 そして、自分と面を突き合わせようという人間は、今のところは千早家にしか思い当たりがなかった。

 大方、母親の佳乃が出張ってくると思っていたが、まさか妹の美弥子が登場するとは。


「もしかして、池辻様とお話をなさったのかしら」

「いいや、直接会ってはいないね」


 晴哉との接点は、菊亮を通して殺気を飛ばしたことと、もらった手紙だけだ。

 その手紙には謝罪のほかに、紗代にはもう手出しをさせないよう美弥子に説得する旨が書かれていた。しかし、この少女は恋人に振られても心根を改めるような人間ではないらしい。

 美弥子は霧央を探るようにじっとりと瞳を見つめた。


「では、どうしてわたくしのこと、ご存知なのかしら」 

「……君の情報、少し集めさせてもらったのだよ」


 驚いた、とでも言うように美弥子は大きく目を見開いた。

 霧央にとっては四人と下男と池辻子爵を屋敷に向かわせた張本人なのだし、探りを入れるのは当然のことだ。

 しかし当の美弥子は足がついていないと思っていたらしい。上品に口元に手を添えて重ねて聞き返す。


「では西旺寺様はわたくしのこと、ずっとご存知でしたの?」

「そういうことになるね」


 その途端、少女の頬が薔薇のように紅潮し、瞳が夢見るように潤み輝く。

 霧央はおやと思った。少なからず自分を警戒していたはずなのに、今の彼女は恋する乙女ではないか。

 そして即座に霧央は応答を誤ったのだと悟った。

 彼女は「ずっと自分を知っていた」という応えにときめいている様子だ。

 それは美弥子のなかで暴走し、「彼女のことをずっと想っていた」という意味に変わり果てたらしい。

 それはあまりに自分に自信を持ちすぎではないかと霧央は呆れる。

 美弥子は悩ましげに眉を八の字に曲げた。


「……もしかして、西旺寺様は姉とわたくしを勘違いして求婚されたのではございません?」

「おや、どうしてそう思うのかね」

「だってあんな退屈な人、妻として迎える理由がありませんもの。鶏ガラのように痩せて見苦しいし」


 霧央は特に返事をせず、ただ微笑んだ。

 美弥子はそれに気を良くしたしようで、ずいと身を乗り出す。


「お可哀想な西旺寺様!とりかえばやの婚約でお屋敷に帰るのも苦痛だなんて。でも、わたくしはそんな貴方様をお助けに参りましたのよ」

「君がわたしを助けてくれるのかい?」

「ええ!お姉様は千早家で引き取ります。そしたら貴方様はわたくしと婚約できるでしょう?これでみんなが幸せの大団円だわ!」


 なるほど、なるほど。そう言って霧央はくっくっと笑う。ざざ、と雨音が強くなった。


「わたくしったら、ずっと西旺寺様のお気持ちに気付かなかっただなんて……申し訳ない気持ちでいっぱいだわ」


 でもわたくしのことを愛しておられるなら許してくださるわよね。美弥子はそう言ってしなを作った。

 霧央は感心したように頷く。


「うんうん、これでは池辻子爵も歯が立つまいよ」

「いやだ、過去の男性の名前を出すのはおやめくださいまし」


 美弥子はぷくりと頬を膨らませる。霧央は女性のこの仕草を見ると苛々した。こちらは駆け引きに乗る気など毛頭ないのに、不機嫌をアピールして言うことを聞かせようとする振る舞いは失礼だ。

 それは相手を見てやりたまえ、と言ってやりたかったが、代わりに素朴な疑問を口にした。


「失礼ついでに聞かせてくれたまえ。君はなぜ、執拗に姉を連れ戻そうとするのだね」


 美弥子は少しムッとした顔をしたけれど、質問を受け流すようなことはしなかった。

 まだまだ子どもだと霧央は思う。


「……千早家で働くことが姉の使命だからですわ」

「千早男爵は、千早家は君の働きで支えられていると聞いたよ。役立たずの姉は家から出た方が良いのではないかね」

「……役立たずは、家から出たら野垂れ死んでしまいます。連れ戻そうというのは、千早家の優しさですのよ」

「なるほど。ところで……当家の者が千早家の使用人と仲良くなったみたいでね。いろいろと話を聞けたようなのだが……」


 それは史子が制圧した四人の下男だった。彼らは辰爺が引き取り、じっくりと情報を引き出していた。

 紗代のことはもちろん、寛治のこと、佳乃のこと、美弥子のこと。生活ぶりや金の使い方、交友関係までもが明白になった。


「興味深いのがね、絹の流れだよ。ここ数年、千早家から売りに出されているのは三等綺羅だけだ。綺羅というのは込められた霊力の性質で作り手が分かる。千早家の綺羅は、すべて紗代さんの手によるものだと断言できる」

「……」

「そもそも、千早家には離れにしかお蚕はいなかったというじゃないか。……君、一級綺羅が織れるという触れ込みだったけれど、お蚕仕事などしていないね?」


 お婆様に習っていないわたくしにだって、一級綺羅が織れるのに──。

 板間に頭を擦り付ける紗代に、散々言ってきたこと。それが真っ赤な嘘だということは、使用人たちの間では公然の秘密だった。

 美弥子は一級綺羅を織るどころか、蚕に触ったことすらない。

 千早家のお蚕は、紗代が育てているものですべてだった。

 紗代は美弥子の嘘を信じ、少なからず美弥子のことを尊敬していたというのに。しかし彼女に悪びれた様子はない。


「……ふんっ。それがどうだというの?わたくしはお嫁に出る立場なのだから、そもそも家業を覚える必要なんてありませんの。お金持ちの華族のお嫁さんは、自ら身体を動かすことなんてしないでしょう?」


 わたくしのことを想っていらっしゃるなら、そんな意地悪なことを言わないで。

 美弥子はそう言ったけれど、霧央はそれを無視して鋭く言葉を放った。


「霊力を操ることもできず、精霊を理解しない人間に華族の嫁は務まらんと思うがね」

「……何が言いたいの」

「君、精霊を見ることすらできんのだろう」


 美弥子の澄まし顔がみるみるうちに真っ赤になった。彼女を見据えながら、霧央は追撃をやめない。


「たまにいるのだ、精霊に嫌われる人間が。そして嫌いな人間の目には精霊は映りたがらない。

 帝国華族のほとんどは一族に精霊を頂いている。精霊を目にすることもできないようでは、華族に嫁入りなど不可能だろうね」

「霊力なら……!霊力なら誰だって持っているわ。わたくしにだって……」


 霧央はひとつ溜息をつき、「見たまえよ」と周囲を指差した。

 さっきまで店内にまばらにいたはずの客が誰もいなくなっている。

 マスターと富子は店の隅で身を寄せ合い、何かを恐れるように耳を塞いでいた。


「霊力は生まれつき多い方でね、うっかり放出するとその場にいる者を威圧してしまう。他のお客は怯えて帰ってしまったようだね。君は──それほどまでに不感症なら、逆に誇るべきかもしれないな。それで霊力をうまく操れるというならば見てみたいね」

「あっ、貴方っ、わたくしを、莫迦ばかにして……!」


 美弥子が勢いよく立ち上がり、クリームソーダのグラスが倒れた。緑色の炭酸水がテーブルクロスにシミを作っていく。


「莫迦になどしていないさ。ただ、適材適所の話をしただけだ。

 一等綺羅が織れるだなんて嘘も、精霊が見えないことを盛大に誤魔化ごまかした結果だろう?むしろ真白様が自分についているように見せかけたかったのかな?

 しかしそうして華族に嫁入りしても、誰も幸せになりはしないさ」

「うるさい!」

「華族でなくとも、金持ちはこの世にいくらでもいる。君は身の程に合った玉の輿を狙いたまえ。……とは言っても、実の姉を虐待する人間に、まともな縁談が来るかははなはだ疑問だがね」

「うるさい!うるさい!貴方なんて大嫌いだわ!!」


 そう叫ぶと、美弥子は店を飛び出した。

 店内にはクラシックの調べと雨音だけが響いている。霧央はすっかりぬるくなった珈琲を飲み干す。

 そして深く息を吐くと、マスター夫妻に頭を下げた。


「すまない。そこまで強く霊力を放出したつもりはなかったけれど、嫌な思いをさせてしまった」


 すると怯えていたはずの富子がケロリと笑った。


「あら、終わりましたか。今回はなかなかの修羅場でしたねぇ〜」


 霧央は士官学校生の頃から女性に好かれる質だった。しかし当の本人は、自分を追いかける人間に興味がない。

 この喫茶室すずらんでも霧央の興味を惹こうとする女性はたくさんいたが、恋を成就させた者は一人としていなかった。

 彼女らの手練手管は様々で、無理矢理相席を迫りながら、最後には悔し涙を流して霧央を罵倒した令嬢もいた。

 富子にとっては、美弥子だってそんな娘の一人に過ぎない。


「ちょっと霊力の気配がしたんでそれらしく振る舞いましたけど、お役にたちました?」


 まさか二人が芝居を打ってくれたとは思わず、霧央は目を剥いた。


「お客がすべて帰ったのは……」

「ちょうど雨足が弱くなったときがありましたからね、今のうちに店を出たら濡れないかもって耳打ちして回ってたんですよ。ああ、今また雨音が激しくなったから、お客さんはあのときに帰って正解でした」


 からりと笑う富子に、霧央はしなしなと机に突っ伏した。

「軍人のくせに善良な一般市民の営業妨害をしてしまったと、胸を痛めたというのに」

「あっはは!そんなことより、ご自分の心配をなさってくださいまし。あのお嬢さん、このまま引っ込むようなタマには見えませんでしたよ」

「そうかなあ。わたしは構わないがまた婚約者に害をなそうとするのは困る」

「あらっ、じゃあ婚約者のところに行って差し上げてくださいよう」

「ふっ。家に帰れば会えるのだけどね」

「まーあ、もう同棲されてるだなんてっ」

 霧央は富子にはやされながら店を出た。

「イヨッ!果報者かほうもの!」

「ふっふっ。それは十分に自覚しているさ」


 雨足は激しいけれど、不思議と足取りは軽い。

 ああ、そういえば腹が減った。今日の献立はなんだろう。

 霧央は鼻歌を歌いつつ、愛車に乗り込んだのだった。

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