第13話 怒り
四度の脱皮が終わると、養蚕の忙しさは頂点に達する。
お蚕たちは今までの何倍もの桑を食べるようになり、紗代たちは一日に何度も葉を摘みに行かねばならない。
辰爺はお蚕を覗き込んで微笑んだ。
「いやいや、お蚕様のなんと食欲旺盛なことよ」
「ええ、辰爺が手伝ってくれるおかげで、なんとか飢えさせずにすんでいます。本当に助かっております」
「ほほ、それはようございました。この
この頃になると、小屋の中はお蚕が桑の葉を食む音でざわざわと騒がしくなる。
よくここまで大きく育ってくれたものだ。
作業の手を止めてお蚕たちに
しばらく一緒に桑の葉がなくなっていく様子を見つめては、慌てて追加の葉を投入していく。
あとしばらくでお蚕たちは繭を作る。
卵を産む個体は残しておくけれど、その他の子たちとはそれでさよならだ。だから、少しでもこの姿を目に焼き付けておきたい。
紗代は桑の葉のさざめきに合わせて歌い始めた。
お蚕たちにとってこれが楽しい一生となるよう、願いを込めて。
その頃、千早家では美弥子が泣き喚いていた。自室の花瓶や鏡は割れ、小物類が散乱している。畳は掻きむしられて所々ささくれ立っていた。
それでも当たり足りないとでも言うように、美弥子は肩で息をする。
使用人は巻き添えを恐れて誰も近付かなかった。本当ならば誰かが優しく自分を慰めるべきなのにと思うと、さらに腹が立ってくる。
いや、問題は晴哉だ。
──君のことを好きだからこそ、ちゃんと話がしたい。
そんな連絡を受けて、美弥子は喜んで晴哉を自宅に招待した。
守備よく紗代を連れ戻したのかもしれないし、改まったような言い回しはもしかしたらプロポーズかも。
期待に胸を膨らませて、美弥子はいつも以上にめかし込んだ。それなのに。
「美弥子さん。貴女はどうしてお姉さんを連れ戻したいんだい?」
そんなどうでも良いことを切り出されて美弥子は鼻白んだ。
「……だって、悪人に連れ去られた姉を取り戻したいと思うのは、当たり前のことでしょう?」
「西旺寺伯爵は本当に悪人なのだろうか。あれは合意の上での婚約ではなかったのかい?」
そんな下らない話をするために、この人はわざわざやってきたのだろうか。
いつもは花束をくださるのに、今日は手土産のひとつもないようだ。なんだかつまらない。
髪の毛に痛んだところを見つける。すぐにでも切ってしまいたい。女中の手入れが足りなかったのね、クビにしてやろうかしら。
心ここに在らずといった様子の美弥子に、晴哉は声を荒げたりすることはなかった。
それを良いことに、美弥子は大袈裟にため息をつく。
「お姉様の合意だとか、そんなことは関係ありませんわ。だいたい、お
そう、無責任。大事な家族を捨てて出ていくなんて薄情が過ぎる。
家族は助け合って生きるものだ。仕事を持っている人間は金を稼いで他の家族を養うべきだろう。それがちっぽけな稼ぎだとしても、ないよりはマシなのだから。
「家業のことを言っているなら、君がちゃんとしているから大丈夫なんだろう?」
「今は良くても、わたくしはいずれお嫁に出るもの」
「それならお姉さんを連れ戻すのではなく、お父上かお母上と話をするべきではないかね。お二人も当事者なのだから」
「いやぁよ。お姉様を連れ戻した方が早いわ。なんてったってあの人は長女なのだし、もとより家を支える責任があるの」
晴哉は分からないとでも言うように頭を振った。
「君は……お姉さんにすべてを担わせて……。お姉さんの幸せを考えていないのか……?」
「お姉様の幸せ?それよりも、あの人のせいでわたくしが不幸せになることの方が大問題だわ。晴哉さんにこんなお説教めいたお話をされるのもうんざり。ねぇ、それよりもっと楽しいことをしましょう?」
美弥子がこてんと小首を傾げた。
ほんの少し前までは、こんな恋人が可愛くて堪らなかった。可愛くて、気まぐれで、楽しいことが大好きな恋人。
彼女の我儘を聞くのが楽しかった。ころころと変わる表情をずっと眺めていたいと思った。二人で笑い合って生きていくのだと思っていた。
しかし、今の晴哉には目の前の少女が理解できない。
「……西旺寺伯爵家に、紗代さんにこれ以上手を出すのはやめたまえ。きっとただではすまないよ」
「んふふっ、やきもち?わたくしの気持ちがご自分以外に向くのはお嫌?じゃあすぐにでもわたくしをお嫁さんにしてくださったら、晴哉さんのおっしゃることを聞いてあげる」
晴哉はまるで頭を殴られたような衝撃を受けた。話が通じないことがこんなにも恐ろしいなんて考えたことがなかった。
座布団から降り、すり寄ろうとする美弥子と距離を取る。
「すまない」
「晴哉さん……?」
「君とは結婚を考えて交際していた。だけれども、君の考えをわたしは理解できそうにない。……交際を、解消させてくれ」
「……はぁ?」
「君がよからぬことを考えているなら、それを
「待って、晴哉さん。わたくしのこと、愛してるった言ったじゃない」
「……愛していたよ」
「……もしかして、お姉様のせい?あの人に色仕掛けでもされたっていうの……?」
「違うよ」
「……やっぱりお姉様のせいなんだわ!あの売女!家を捨てておいて妹の恋人に粉をかけるなんて信じられない!」
美弥子は美しく結った頭を掻きむしった。リボンのレースが引き裂かれ、乱れた髪にだらりと垂れる。
血が上っているのか顔が真っ赤になっていて、まるで赤鬼のようだと晴哉は思う。
「……違うと言っても、君には届かないのだね」
「このわたくしと付き合っておいて、あんな鶏ガラ女に引っかかる晴哉さんも最低だわ!もう顔も見たくない。出てって!」
「……最後の忠告だ。もう西旺寺家とお姉さんに手を出すのはやめたまえ」
「うるさい!出てって!!」
晴哉はひどく悲しそうな顔をしたけれど、美弥子を振り返ることはなかった。派手に泣いて暴れたのに引き返してくる様子もない。
なによ、晴哉さんったら、勝手なことを言って!このわたくしを袖にするなんて!
思い通りに周囲の人間を動かしてきた。欲しいものはなんだって手に入れてきた。
まさか、自分のものだと思ってきた人間に裏切られることが、こんなにも悔しいことだったなんて。
「許さない。許さないわ……」
そして美弥子が霧央の前に姿を現したのは、その後間も無くのことであった。
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