第12話 二度目の来客
聞いていた話と違う。それが
姉が悪い男に
可愛い恋人がそう言って泣くので、
だけど、何かおかしい。
紗代という娘は一眼で分かった。
この屋敷には美弥子の姉と思しき年頃の女性は一人しかいないからだ。
しかし、彼女はどんな劣悪な環境に閉じ込められ、悲壮な表情を浮かべているかと思いきや──
しかも伯爵が紗代を見つめる眼差しといったら、まるで愛おしいものを慈しむような。
あれは恋人に向けるものだ。
紗代は俯いていたかと思うと、ぱっと顔を上げ──また恥ずかしげに顔をそらしてしまう。
伯爵と視線を交わすのが嫌なのかと思われたが、すぐにそうではないと分かった。わずかに紅潮した頬と潤んだ瞳が、伯爵への気持ちを物語っている気がする。
お父様ったら、多額の支度金に釣られて婚約証明書にサインをしてしまわれましたのよ。そう、お姉様は売られたのです──。
そんな美弥子の声が頭にこだまする。
しかし、目の前では紗代がいずこかの姫君のように丁重にエスコートされている。美弥子の情報とは一切、合致しない光景だ。
紗代の傍にぱっと金虎が姿を現したのを見て、晴哉は一層身を低くした。身体から漏れる霊力を抑えているので気付かれる可能性は低いが、念のためだ。
しかし次の瞬間、晴哉は全身が痺れるのを感じる。
「ぐ、あ……」
足に力が入らなくなり、そのまま地面に崩れ落ちた。
そんな晴哉を尻目に、霧央と紗代は車に乗り込みどこかへ出掛けていってしまった。せっかくここまで来たのに、紗代が出掛けてしまうのは計算外のことだ。
だが、今の晴哉にはそれもどうでも良いことだ。
「ううっ……はっ、はっ、はっ、はっ」
苦しい。これは自分の呼吸だろうか。まるで心臓を掴まれたような、苦痛とも恐怖とも知れぬ感覚。
冷たい汗が額を流れる。手足が動かない。まるで意識だけが身体と切り離されたかのような。
まさか、まさか自分はこのまま──。
「まあ、どうなさいましたか?」
見上げると、おさげの少女がこちらを覗き込んでいた。西旺寺家の女中だ。
気付かれるなど下手を打った。そう言いたいところだが、今は地獄に仏だ。
「体調がお悪いので?どうぞこちらでお休みになっていってくださいまし」
史子と名乗る少女は庭師の老人に声をかけ、二人がかりで縁側まで晴哉を運んだ。
そして晴哉がなんとか呼吸を整えているうちに、テキパキとシャツの首元を緩めたり飲み物を用意してくれた。
「あ、ありがとう……」
茶を飲み干すと、気分は幾分かましになった。しかしすぐには足に力が入らない。少しでも無理をすればまた心臓が凍りついてしまいそうな、そんな予感がある。
だが敵の陣中とは落ち着かないもので、晴哉はきょろきょろと辺りを見回す。そんな彼に史子はにこやかに問いかけた。
「もしや、当家へのお客様でいらっしゃいますか?生憎、主人は先程出かけたばかりで」
もちろん知っています、などとは言えなかった。晴哉はなんとか誤魔化そうと脳を回転させる。
「ええと……わたしは道に迷ったようでして。松田さんのお宅に伺いたかったのですが」
「まあ、松田さんのお宅でしたら四丁目でございますよ」
「でしたらここは……」
「一丁目の西旺寺でございます」
ううむ、
「……西旺寺家といいますと、最近ご当主が婚約者を迎えたと聞きましたが……」
「んまあ!もう噂が出回っているのですね。主人は千早家のご令嬢と婚約を結び、早々に屋敷に迎え入れたのでございます」
史子の笑顔は、これが祝福された婚約であることを示しているようでもあった。
と、すれば美弥子が持つ情報に
困惑しながらも晴哉は当たり障りのない返事をした。
「すぐにお屋敷に迎え入れられたのですか……。それはお熱いことですね」
「それはもう!」
少女が身を乗り出し、晴哉はちょっと身を引いた。
「お労しいことに、紗代様は千早家で晴れ着の一つも用意していただけなかったようなのです。だけれども主人はすぐに呉服屋を呼んで絹の着物をたくさん作らせたのですよ。まるで愛情を見せつけるかのように」
「千早家が、晴れ着の一つも用意しなかった……?」
晴哉の疑念に満ちた声に、女中の少女ははっと口を押さえた。
「ああ、いけないわ。このことはどうぞ内密に。決して紗代様のご実家に恥をかかせるつもりはなかったのです」
ぐらり、と足元が揺れたような心地がした。
晴哉は若くして父親を亡くし、精霊と家を継いだ。
まだ右も左も分からぬ若輩者ではあるが、親戚たちが何かと心配して自分を訪ねてくれる。彼らはお土産と共にありがたい助言や耳に痛い諫言、華族社会を生きていくための情報を置いていってくれるのだが、その中に聞き捨てならないものがあった。
千早家には関わるな、という警告である。
先代までの千早男爵家といえば知らぬ者はいない名家だった。使い心地の良い一等綺羅にはたくさんのファンがいた。
しかし、当代になってから千早の名は地に堕ちた。売り出されるのは三等綺羅ばかりとなり、もしや千早家は精霊に見放されたのではと噂する者まで現れた。
千早寛治男爵は養蚕をするでもなく営業に回るでもなく、先祖代々の富を食い潰すように放蕩している。
そんな家の娘と縁付けば、池辻家もどうなるか分からないぞ。
そう言われて晴哉は腹が立った。父親のことなんて関係ないじゃないか。それにこれだけ愛し合っているのだから、美弥子が嫁入りしてくれたならばこれ以上なく池辻家を盛り立ててくれるはずだ。
少し家に問題があろうが関係ない。そう思っていた。
しかし今、無視していたはずの親戚の言葉が、警鐘のように頭に響いている。
少女がふっと顔を伏せた。
「でも……恐ろしいことですわ」
「ど、どうしたのです」
「……これからお話しすること、内密にしていただけますか?」
「もちろん」
「……千早家は、この屋敷に暴漢を送り込んだのでございます。すぐに取り押さえることが出来たのは幸いでございましたが、彼らは紗代様を無理やりにも千早家に連れ戻すつもりだったと……」
「そんな……」
美弥子の口ぶりでは、父の寛治は紗代を連れ戻すことなど考えていないようだった。
すると、誘拐未遂を考案したのは美弥子か母親の佳乃のどちらかだ。
幸せに暮らしている姉。ちゃんと当主の許可もとって嫁いだ女性を、ゴロツキの力を借りて取り戻そうとした?
多額の支度金をせしめながら、晴れ着の一枚も用意しない家に?
しかも姉に着物を作らない割には、いつも美弥子は上等な衣を着ているではないか。これは一体、どういうことなんだ。
冷静になってみれば、美弥子と千早家に対する疑念がむくむくと湧いてくる。
晴哉は表情を険しくしたが、史子は怯えた顔をぱっと笑顔に切り替えた。
「しかし、わたくし共の主人はそのような企みを決して許すおつもりはないのですよ」
「それは──どういう──」
「虎に、睨まれましたでしょう」
晴哉は、心臓を掴まれたようなあの感覚を思い出した。再びどくんどくんと鼓動が跳ねる。
「あれは、まさか伯爵が──」
「ええ、我が主人の精霊様が、すわ不審者かと貴方様をひと
晴哉は身体中からどっと冷たい汗が噴き出すのを感じた。気配を完全に消していたと思っていたのに、どうやら伯爵にもこの少女にもすでに気取られていたらしい。
しかも精霊はあれでただ睨んだだけだという。
自分にだって精霊はついている。
たしかに西旺寺は伯爵だが、こちらだって子爵なのだ。そんなに実力に差があってたまるものか。
そう思ったけれど、先程から自分の身に宿る精霊が妙に静かなことに気づく。
それは晴哉の精神の奥底で身体を丸めて身を縮こませ──明らかに怯えていた。
これは、敵いようがない。
晴哉は「参った」というように両手をあげた。
「……すまない。わたしに紗代さんを害する意図はない。彼女のご家族から、紗代さんがこの家で酷い目に遭っていると聞いて……むしろお助けしようと思っていたのだが」
「まあ、いったいどなたがそのような」
「紗代さんの妹の……美弥子さんだ。彼女は紗代さんが金を積まれて辛い結婚をさせられたのだと言っていたのだが」
「んまあ」
「しかし、紗代さんはお幸せな様子だ」
「お分かりいただけて何よりでございます」
「……その、西旺寺伯爵には」
「はい、善意の迷い人でしたと報告いたします」
「助かるよ」
晴哉は何度も頭を下げて帰っていった。
甘える恋人の我儘をすべて聞いてきたけれど、今一度真剣に話し合いをしなければなるまい。そんなことを考えながら。
その夜、霧央は書斎に史子と辰爺を集めた。
史子は話が始まる前に、菓子折りと手紙を霧央に差し出した。
それは池辻子爵が屋敷を辞した後すぐに届けられたものだった。そこには子爵が屋敷を訪れた経緯と、間違った情報を信じて無礼を働こうとしたことへの謝罪が綴られていた。
「……ふむ。つまり池辻子爵は美弥子氏に
涼しげな笑顔を取り繕っていながら、そこには怒りがちらちらと顔を覗かせている。いつも機嫌の良い霧央には珍しいことだ。辰爺は遠慮がちに口を挟む。
「先日やってきた男たちの目的とも
「問題はなぜ、そこまでして邪険に扱っていた娘を取り戻そうとしているのか、だ。辰爺、男どもからもう少し情報を絞り出せそうかね」
「お任せください。知っていることすべてを吐かせましょうぞ」
「頼むよ」
霧央は長い溜め息を吐くと、菓子折りの
「……楽しいお出かけの後だというのに
「なぜ史子君が謝るのだね。君は良い働きをしてくれたよ。私がこう……むしゃくしゃしているのは、不可解な千早家の動きのこともあるけれど……、紗代さんについてだよ」
「奥様に、なにか……?」
「……彼女は、自分のことを役立たずと言うのだ。役立たずだから、わたしの世話になるのが心苦しいと言う」
「奥様……」
霧央はぐっと紅茶を飲んだ。落雁で甘ったるくなった口内が、茶葉のフルーティーな香りで洗い流されていく。
それでも霧央の
「わたしは紗代さんと真白様の絆に救われたのだ。そんな彼女が自分を
きっと長い間、千早家で役立たずと言われてきたのだろう。
それは精神の深くまで根を下ろし、紗代の心を
これで「彼女を解放した」などどの口が言えるだろうか。
霧央は弱々しく「これで救ったつもりでいたなど、情けないことだ」と呟いたが、辰爺は
「ほほ、しかしですのう。お蚕仕事をされている奥様はほんに生き生きとされて。真白様もたまに顕現されては楽しそうに庭を飛んでおられる」
「……それは、素晴らしいことだ」
「そうでございましょう。今はそれ以上のことは望むべくもありますまい。少し前まであれほど痩せ細っておられた奥様が回復して、お蚕仕事にも精を出されておられる。自信など
「そ、そうでございますよ。それに奥様はきっと、これまで以上に美しい絹糸を取られます。真白様だって元気になられたのですから。さすれば、奥様だってご自分を役立たずだなんておっしゃれませんわ」
「……別に誰かの役に立つことなど考えなくともよいのだが」
「いいえ!それが奥様にとって大事なことならば、尊重すべきでございますわ!」
「そうかね」
「ええ!」
史子がここまで鼻息荒く何かを主張するのは珍しいことだ。
いつも「優秀な女中は目立たぬもの」とばかりに隅ですまし顔をしているのに。
霧央は少し可笑しくなった。
「……ふっ。史子君も辰爺も、我が婚約者殿のことをよく見てくれているようだ。二人がそう言うのなら、紗代さんのことはこのまま温かく見守ろう。……彼女のこと、よろしく頼むよ」
霧央がまっすぐな眼差しで二人を見つめると、彼らは当然のこととばかりに「御意に」と
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