第11話 はじめてのライスカレー

 紅色に染め上げられ、艶々つやつやとした光沢を放つ一反の絹。

 隅々すみずみまで目をらして見ても繊維にムラはなく、どこまでも滑らか。

 その輝きは金色の光を帯びていて、まるで朝日を拝んでいるかのようだ。

 そして金色の光沢は、それが普通の絹ではないことを示している。


「一級綺羅……!」


 そこに宿る光は濃密に込められた霊力のきらめきである。

 紗代はおそるおそる手を伸ばす。すると綺羅の霊力は炎のように巻き上がり、紗代の指先でゆらゆらと揺らめいてみせた。


「なんて激しい霊力なのでしょう……」


 紗代が思わず呟くと、千鳥は「おわかりになりますか」と微笑んだ。


「当店は精霊綺羅の目利きもいたしますから、呉服屋のくせに霊力の鍛錬たんれんもいたしますのよ。でも千早家のお嬢様はさすがご本業ですわね。すぐにお分かりになる」

「ええ、でもわたくしは綺羅といったら祖母の作品しか目にしたことがなく……」

「お婆様は……千早家の先代である久慧ひさえ様でしょうか」

「は、はい。ご存知ですか」

「ええ、それはもう。かつては当店でも仲買を務めさせていただいておりました。久慧様の綺羅は……もっと静かでございましたね」


 千鳥はほうとため息をついた。その表情はまるで初恋の人を思い出しているかのようで、きっと彼女も祖母の綺羅を愛してくれていた一人なのだと紗代は思う。


「祖母は……まるでいだ海のような……、濃密な霊力が静かに揺蕩たゆたうような……そんな綺羅を織る人でございました」

「そんな霊力が心地よいと、久慧様の綺羅には熱心なファンが何人もいらっしゃいましたのよ。

 綺羅というのは、自分に合った霊力のものを選ぶことが重要でございますから。

 その点、久慧様の綺羅は着る者の霊力を邪魔しませんから、広く愛されておりましたの」

「そうなのですか……」


 紗代は祖母の綺羅がどんなに素晴らしいか知っていたつもりだった。

 しかし、どんな需要があってどんな人に買われていったのかはまったく知らない。

 なんだか祖母の、彼女の作品の新たな側面を見たような気がして、紗代は少しどきどきした。


「もちろん、このように激しい霊力の綺羅がお好みという方も大勢おられます。自分の霊力の性質がどのようなものか、そしてどのように力を行使するのかによって、相性の合う綺羅というのは決まりますから」

「……わたくしには、炎のようなこの綺羅は着こなせそうにございませんね」


 紗代はこれほど激しい綺羅を着たら、自分の方が負けてしまいそうだと思った。


「わたくしにもそう思えますわ。……紗代様はお蚕仕事は順調でいらっしゃいますか?」

「はい。……最近はお蚕と触れ合うのが、以前よりも楽しく感じられて」

「それはよろしゅうございました。紗代様の織られる綺羅、どのような霊力をまとうのか楽しみでございますわね」

「…………はい」


 紗代はその後しばらく、紅の一等綺羅を眺め続けた。

 光に透かしたり、陰の下で眺めてみたり。さらには霊力の揺らめきを観察したり、その密度を感じ取ったり。

 そして壁掛け時計が正午を告げる鐘を鳴らした頃、紗代はようやく正気に戻った。

 自分は婚約者を放ったらかし、とっぷり自分の世界に入り込んでしまっていた。

 いつの間にか千鳥は部屋から消えており、霧央が楽しそうに紗代の顔を見つめている。


「あっ……、わっ、わたくしっ……!」

「もう良いのかい?」

「旦那様がいらっしゃるのに、わたくしったら……!申し訳ございません……!」

「なんだね、そんなこと。わたしは君が楽しいのならそれで良いさ。それより、検分は済んだのかね?眺め足りないなら、やはり買って帰ろうか?」

「とんでもございません……!」


 絹は高級品だが、そこに霊力が込められた精霊綺羅というのは絹の何倍もの値段がする。

 一級綺羅ともなれば、紗代には一生かかっても代金は支払えないだろう。

 相性の合わない綺羅にそこまでの支出はできない。


「わたくし……、もう十分に拝見いたしましたので……!だ、旦那様のお買い物はよろしいですか?」

「ああ、わたしは特には……」

「で、でしたらおいとまいたしましょう……!」

 接客に出ていた千鳥に長居をび、大島屋を出る。

 紗代は顔から火が吹き出そうな思いだった。いくらこれが本当の婚約でも、こんな粗相が許されるはずもない。

 紗代は改めて頭を深々と下げた。


「申し訳もございません……。穴があったら入りたいぐらいでございます……!」


 紗代は必死だったが、霧央は「君、そんな顔もするのだねぇ」と飄々ひょうひょうと笑うだけ。


「だ、旦那様……」

「それより、昼食はいかがかな?良い店を知っているんだ」


 最近の紗代は少しずつ昼食の量を増やしていることもあり、昼時になれば空腹を感じるようになっていた。

 紗代がうなずくのを見るや、霧央は迷わず一軒の喫茶店へと向かっていく。

 「喫茶室すずらん」は中年の夫婦二人で切り盛りしている店らしく、ランチタイムは客で溢れていた。

 店員の案内も待たず、霧央はボックス席に陣取る。初めての喫茶店に気後れしていたが、紗代も霧央に促されて正面に座った。


「辛いものは平気かね」

「ある程度でしたら」

「じゃあライスカレーを試してご覧よ」

「ライスカレー……舶来の食べ物でございますか?」

「そうそう。これがなかなか癖になるんだ」

「では、挑戦してみます」

「それがいい、何事も挑戦だ」


 霧央が注文を済ませると、間も無く二つの皿が運ばれてきた。白米の横にはどろりとした黒い液体が添えられている。

 いだことのない香りに、紗代はライスカレーの皿をしげしげと眺めた。

 「いただきます」と手を合わせると、霧央はすかさず食べ始める。紗代も彼の食べ方を真似て、おずおずとスプーンを口に運んだ。


「……?!」

「どうだね」


 初めて味わうスパイスの香り。この辛味は唐辛子だろうか、それとも生姜?何が入っているのか見当もつかない。

 お出汁もお醤油も使わない料理に出会うのは初めてのことだ。しかし不思議と口に合う。


「しっ……、刺激的なお味でございます……!」

「食べるのは難しい?」

「いっ、いえ……!とても美味しゅうございますわ……!」

「はは、それはよかった」


 紗代は身体が芯から温まっていくのを感じた。汗がじわりと吹き出す。慌ててレースのハンカチで額を押さえた。


「わたしも初めて食したときは驚いたものだ。でもこのピリリとくるのがなんとも食欲をそそるのだ」

「ええ、本当に。スプーンが止まりません」


 胃の大きさを考えて、紗代は通常の半分の量を注文していた。

 それでも食べ切れるかは不安だったが、霧央よりも時間をかけて完食する。


「その量で足りたかね」

「はい、もう満腹でございます」


 実のところ、紗代は少し苦しいくらいだった。目新しい料理を前にして、少し調子に乗ってしまったかも。そう反省する。

 二人が席を立つと、お勘定をしてくれたのはふくよかな女性の店員だった。彼女は霧央と紗代の姿を見てふふと微笑む。


「なんだい、富子さん。わたしの婚約者に何か?」

「まあ、お連れ様は婚約者?恋人ではなく?んまっ!んまあ〜!!」

「なんだいなんだい」

「いえね、ほんの少し前まで学生さんでいらしたのに、もう素敵な婚約者様をお連れになるようになられたのだと思うと感慨深くって……」

「ほんの少し前って……何年前のことだと思っているんだい」

「ふふ、歳をとると月日が流れるのが早いこと。いえ、あたしゃデェトの邪魔をするほどの野暮天やぼてんじゃあございませんよ。良い一日をお過ごしくださいまし」


 手を振る富子に、紗代は深々と頭を下げる。霧央はバツが悪そうに頭をかいた。


「……士官学校生の頃からこの店には厄介になっていてね」

「まあ、それでは長いお付き合いなのでございますのね」

「ああ。しかしこの年齢にもなって子ども扱いされるとは」

「……それでも、お知り合いが多いのは素敵なことでございます。旦那様は、新しいこともたくさん知っておられて……」


 そう言いながら、紗代は自分がなんだか恥ずかしくなった。

 千早家の離れに閉じ込められ、心も身体も貧しく過ごした日々。流行なんてものに触れる機会はなかったし、良好な人間関係が形作れるようなこともなかった。

 自分はなんてつまらない人間なのだろう。

 俯きかけた紗代に、霧央は涼しい声で言った。


「そんなものは君、これから知っていけば良いだろう」


 二人の間に、さあっと爽やかな風が吹く。


「言っちゃ悪いが、君はせっかくあの窮屈な家を出たのだ。何をしようと自由なのだよ」


 自由。なんて新鮮な響きなのだろう。五月の青々とした若葉ような言葉だ。

 自由だなんて、自分には関係のない言葉だと思っていた。

 華族令嬢というのはしがらみに囚われた窮屈きゅうくつな生き物だし、離れに押し込められてからは自分の行動を選ぶことなんてできなかった。

 だけど、思えば今の自分は自由なのだ。


「新しいことを知りたいのなら雑誌や本を読み漁っても良いし、ラヂオを聞いてみても良い。なんなら女学校に通うのもありだ。知り合いがほしいのなら、社交会に顔を出すのも一手だろうね」


 わたくしが、女学校や社交会に?

 まるで視界がぱっと広がったようだった。

 しかし、霧央が「今は費用や住まいの心配などないのだから」と付け足したので、紗代の気持ちはちょっぴりしぼむ。

 そうだ、自由といってもお金の問題がある。彼は当然のように費用を出してくれる気でいるが、それはさすがに甘えすぎではないかとも思う。

 女学校は魅力的ではあるけれど、散々お世話になっておいてさらに学費をたかろうなどと、虫が良すぎる。

 紗代は史子が「西旺寺財閥育ちの金銭感覚」と言っていたのを思い出した。

 確かに彼にとっては女学校の学費など取るに足らない金額かもしれない。しかし紗代にはそれを返せる保証などないのだ。

 紗代が黙ってしまったのを見て、霧央は彼女が何を考えているのかをすぐに察知した。


「……買い物のことといい、君は金銭のことに頭を悩ませがちだね。婚約者に金を出させるのはお嫌かね」

「…………婚約者と言いましても、実際のわたくしはただの居候でございますし……、それに、わたくしは自分が役立たずであることを知っているのです」

「役立たず?」

「……はい。千早家でもそう言われてきましたし、史ちゃんのお手伝いだってできません。それなのに、旦那様に過分な出費をさせるなんて……」


 瞳を潤ませた紗代を見て、霧央は少なからず衝撃を受けていた。

 きずは思っていたよりも深い。痩せてふらついていた身体は回復したかもしれないけれど、心はまだ健康とは言い切れない。

 霧央がこれまで接してきた女性の多くは、実に勝手なものだった。

 向こうから言い寄ってきては、「帯留めを買って、扇子を買って」などと集るような真似をする。

 友人たちはそれも恋愛の醍醐味だというけれども理解ができない。

 「女性は恋人に買ってもらったものを友人たちに自慢するのだから、できるだけ良いものを買うのだ」と主張する者もいたが、くだらないと思う。

 男は女の承認欲求を満たすための道具ではないのだ。


 だけど、目の前の女性はどうだろう。承認欲求どころか、自分を肯定することすら知らないではないか。

 人の役に立つとか立たないとか、そんなことに関係なく、人間は幸せになるべきだというのに。


 険しい顔をした霧央を見て、紗代は「もちろん、少しずつではございますが、お金はお返しいたしますので」と頭を下げた。

 そんなことを言わせたかったわけではない。しかし、そう言ったところで今の紗代には理解できないだろう。だから霧央は話題を逸らした。


「……やりたいことが他に見つからないのなら、当分はお蚕仕事に没頭するのも良いだろうね。しかし、もし君がお蚕仕事に嫌気がさしたなら、それをやめてしまうことだってできる」

「そ、そのようなことには、決してなりませんけれど」

「ああ、やりたい気持ちがある限りは続けたまえ。とにかく、君はなんでもできるということだ。流行についてであれば、わたしにも多少のことは教えてあげられるからね」


 霧央の琥珀色の瞳が力強く紗代を見つめた。

 圧倒的な自信。何にも左右されず、まるでまっすぐに天を衝く若竹のような人。

 この人のようになれたら。いや、少しでも長くこの人の側にいられたなら。

 それはきっと自由よりも素敵なことではないだろうか。

 紗代はおずおずと霧央を見つめ返した。


「……では、ご教授いただけますか」


 紗代が自分から要望を口にするのは珍しいことだった。霧央はにっと笑う。


「ああ、もちろん。まずは何を知りたいのかな」

「その……早速ですが、分からない言葉がございます」

「ほう」

「先程、富子さんがおっしゃっていた……『デェト』とは如何なるものでございましょう」

「……ふっ」


 霧央が吹き出して、紗代の顔はわずかに赤くなる。


「その、物知らずでお恥ずかしい限りで……」

「や、いや、違うんだ。申し訳ない。そういう意味ではなく」


 そうだよな。これはデェトだよな。いや、婚約者なのだからデェトぐらいは当然だよな。

 霧央はもごもごと独りごちると、くるりと紗代に向き直った。


「デェトとは、連れ立って街歩きをしたり、買い物をしたり、観光を楽しんだりすることだ」

「まあ、それではまさしく本日のような」

「その通り。街歩きは久々のことなのだろう? 街並みも昔とは変わっているだろうし、新しいものを見つけるならばこれが一番手っ取り早い。少し歩こうじゃないか」

「はい、旦那様」


 二人はゆるりゆるりと歩き始めた。お腹が苦しかったはずなのに、そんなことはもう気にならない。

 踏み出した足が、なんだか妙に軽く感じられた。

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