第20話 わたくしの家族

「奥様、おはぎをこしらええましたよ。お召し上がりになれますか」

「……ありがとうございます、史ちゃん」


 あれからしばらく、紗代は寝床から起き上がることもままならなかった。

 身体中には切り傷と打撲が残り、寝返りをうつだけでもひどく痛んだ。

 なにより堕ち神が撒き散らした瘴気が、深く紗代をむしばんでいた。

 霧央自らが清めを行なってもすべてのけがれを流れ落とすまでに二日を要した。

 もちろん、真白も無事ではすまなかった。今は顕現するほどの力もないらしく、紗代の精神の奥底で羽を休めている。

 精霊様には元気でいてもらわねば!と、辰爺が瑞々みずみずしい榊や桑の葉を供え、史子が毎日豪華な神饌を用意した。

 お蚕は甘いものが好きだと聞いて、今もおはぎを持ってきたところだ。


 黒文字でおはぎを切り、少しずつ口に運ぶ。小豆の甘さが口の中に広がると同時に、心がなんだか温かくなる。

 姿こそ現さないけれど、真白も喜んでいるのだと紗代には分かった。


──ご家族に未練はあるかい。


 この屋敷で意識を取り戻したとき、霧央が紗代に尋ねたことだ。

 美弥子に真相を聞くまで家族とは支え合うものだと思っていた。

 しかし、自ら破滅に向かおうという人間を助けることなどできない。

 紗代には他者の心を変えることなどできないし、行動を制限することもできないのだ。

 だから、家族のことは忘れることにした。

 父は自分に興味がないようだし、母は自分のことが嫌いだからそれで良いと思う。妹は……憎しみに囚われた心が、いつか解放されるときがあればと思う。

 ふと、妹の殺意に溢れた視線を思い出し、紗代は頭を振った。忘れようと決めたけれども、きっとそれは簡単なことではないのだろう。

 そして紗代の心に残っているのは恐怖だけではない。

 あれほど酷い目にあったのに、紗代の中ではまだ母に愛されたい気持ちや妹に認められたい気持ちが燻っている。

 自分が上手く立ち回っていれば、家族が円満に過ごせた未来もあったのではないのかとすら思える。

 そんなこと、あるはずがないのに。紗代は無意味な想像をする自分が可笑しくて、少し笑った。


「おはぎ、もう一つお持ちしますか?お茶もいかがですか?」

「いえ、もう…………」 


 そう言いかけたところで、史子がなんだか悲しげな表現をしていることに気付く。もしかして暗い考えに囚われていたことを悟られたのかしら、と紗代は慌てた。


「……いいえ、もう一ついただきます。史ちゃんのおはぎならいくらでも食べられそうです」

「本当でございますか?嬉しゅうございます!これは祖母に拵え方を教わったものなのです。おはぎと一緒に熱いお茶もお持ちしますね!」


 史子がエプロンをひるがえして廓へと走っていく。

 しばらくして、彼女がいる方向から話し声が漏れ聞こえてきた。

 どうやら辰爺がよもぎを摘んできてくれたらしい。明日の甘味はどうやら蓬餅よもぎもちになるようだ。

 蓬は魔除まよけにも使われるから、きっと回復を助けてくれるだろうと話し合っている。

 こんな優しい人たちがいるのに、自分は何に囚われているのだろう。

 もう六月だというのに空は晴れ渡り、雲一つない。こんな日に下を向いているのは勿体無いな、と紗代は思った。

 また悲しみを思い出す日はあるだろうけど、自分は顔を上げていなければ。



 その夜、紗代は仕事から帰った霧央を出迎えた。着替えて階段を降りるのは一苦労だったが、ずっと横になっているのも身体に悪いと思ったからだ。

 なにより、これ以上寝込んでみんなの心配を長引かせたくはなかった。

 霧央はぎこちなく笑う紗代を見てしばらく固まっていたけれど、「良かった」と小さく呟くと紗代の頬を優しく撫でた。

 久々に同じ食卓を囲み、同じメニューを口にする。ここは西旺寺家で、ここにあるのは幸せな日常なのだと噛み締める。

 一日の報告をして微笑み合う。紗代はほとんど寝ていたので大したことは言えなかったけれど、おはぎが美味しかったことや、寝返りが打てるようになったことを伝えると、霧央は「それはよかった」と繰り返した。

 彼の方はというと、職場で大変な目に遭ったらしい。なんでも重要な書類を菊亮が汚したのだとか。インクでべったりと肉球印を押してしまい、書類は再発行せざるを得なくなった。

 菊亮はその話題の間、ころんと転がってぽっこりと膨らんだ腹を見せていた。失態を誤魔化ごまかすポーズらしく、大体の人はこれを見て許してしまうらしい。


「うっふふ……可愛い」


 紗代も例に漏れずに笑ってしまった。力ある精霊のはずなのに、やっていることは子猫と同じだ。そんな彼女を見て霧央も微笑む。

 食後のお茶を一口啜ったところで、霧央は改まった様子で「事の顛末てんまつを話そう」と切り出した。

 今までは紗代をおもんぱかって、家族や事件のことには誰も触れなかった。


「妹の美弥子さんは、精霊部隊によって逮捕された。堕ち神を使役した現行犯であり、言い逃れは不可能だった」

「そう……ですか……」


「動機がどんなものであれ、堕ち神に関わった人間は無期懲役以上の判決が下る。……彼女とはもう会えないものと思ってくれたまえ」


 それは紗代がすでに覚悟していたことだった。

 ここは精霊の加護を受けて繁栄している国。堕ち神に関われば国家反逆罪に問われることだってある。

 美弥子にその意思はなくとも、刑が重いものになることは明らかだった。

 結局、分かり合えることもなく縁は切れてしまうのだな、と紗代は少し寂しくなる。


「そして、千早家は男爵位を剥奪されることとなった。華族から堕ち神に関わった者を出せばお家はお取り潰しだ。これも逃れられん」

「そうでございますね……」


 胸が痛まないと言えば嘘になる。祖母が、先祖代々が連綿れんめんと繋いできた千早という家。

 自分の代でそれがなくなってしまうと思うとひどく申し訳ない気持ちになる。


「財産のすべては国が接収せっしゅう。おかげでわたしが書いた小切手も国のものだ。まあ、千早男爵の遊興費になるよりずっと良いがね」

「それは……」

「ああ、この出費について君はこれ以上謝らないこと。わたしが好きでやったことなのだから」

 またそんなことをおっしゃって──。

 紗代は彼が自分のために出したお金を思うといまだに胃がキリキリする。いくら伯爵位をいただいていると言っても、無から財産を生み出せることはないのだ。

 紗代はお金を稼ぐことがいかに大変かを知っているつもりだ。だから尚更、お金については気にするな、なんて言葉には甘えられない。自分はただの居候にすぎないのだから。

 千鳥とは契約書を交わしたけれど、絹布を織るには時間がかかる。紗代が自分の稼ぎを手にするのはまだまだ先のこと。

 霧央が小切手で支払った支度金と買い物の代金、そして生活費を出せるようになるまでどれくらいかかるだろう。

 考え込む紗代に構わず、霧央は説明を続ける。


「そしてご両親だが、更生施設に入ることになったよ。美弥子さんが堕ち神に手を出したのは、彼らの影響が大きいことが明らかになってね」

「更生施設、でございますか……」

「ああ。矯正教育を受けながら、監視の下で生活することになる」


 精霊への感謝と理解を深めるための施設。規則正しく質素な生活を送りながら、精霊から受ける恩恵について考える場所だ。

 それがどんなものか一般には詳らかにされてはいないが、刑務所のようなところだという噂も聞く。

 どちらにせよ、あの二人には窮屈な所だろう。しかし、考え方を改めない限りは出所もできないはずだ。

 ふと、自分はどうだろうと紗代は考える。


「……両親にも責任があるのでしたら、わたくしにも罪がございます。姉だというのに妹を増長させるばかりで、あの娘を正しい生き方に導くことができませんでした。……わたくしも……きっと更生施設に……」

「何をお言いだね。君は被害者だからお咎めなどないよ。そもそも、これだけ精霊に敬意を持っている人間が、更生施設で一体何を学ぶというのかね」

「そうでしょうか」

「そうだとも」


 自分は家族が間違えていくことを止められなかった。これは罪にはならないのだろうか。

 両親にちゃんと意見することができていたなら、こんな事件は起きなかったかもしれない。どのタイミングなら現在を変えることが可能だっただろう。

 そんなことを考えて、離れで生活するようになってから両親とはまともに顔を合わせていなかったことを思い出す。

 父とは迎賓館で向かい合っても、ほとんど存在を無視されたではないか。

 あれは、家族だったのかしら。

 家族って、なんだったかしら。

 自分には、家族なんていなかったのではないかしら。

 紗代の心がぐちゃぐちゃにもつれていく。それを知ってか知らずか、霧央は明るく言った。


「今の紗代さんは、わたしの家族だから」

「わたくしが、旦那様の家族……?」

「君はあの千早家の人間ではないよ。そりゃあ、君を育ててくださったお婆様には感謝しているし、君を形作っているのは千早家に受け継がれていた伝統だ。しかし、今の君の家族はわたしだ。だから、君を虐げた人間のことはもう考えなくて良い」

「……そんな、わたくしなんかを家族などと」

「家族に違いないさ。だって、我々は運命の糸が導いたほどの仲だもの」


 霧央があまりに大袈裟にいうので、紗代は思わず笑ってしまった。しかし、霧央は冗談を言ったつもりでなかったので、心外とばかりに目を見開く。


「なんだね、君はわたしを呼んだじゃないか」

「呼んだ……。旦那様は、あの納屋でもわたくしが呼んだのだとおっしゃいましたね。結界の外にも、私が助けを呼ぶ声が聞こえたということでしょうか」

「……驚いたな、無自覚か」


 霧央は不思議な体験をしたことを話して聞かせた。

 紗代を探して走り回っている最中、いきなり暗闇に囚われて、虹のように輝く糸に導かれたことを。


「……そうして糸を追いかけて走るうちに、君が囚われた納屋に辿り着いたのだ。あそこは遥か昔に一家離散した屋敷の納屋だった。鼠の堕ち神は、かつてその一族を守護した精霊だったが……精霊にも防ぎけれぬ不幸があったのだろうな。一族は体裁を保てなくなり、精霊はひっそりと堕ちていった」


 鼠の精霊を祀れば、子孫繁栄や家内安全のご利益がある。堕ち神となった姿は禍々しかったけれど、かつては美しく慈愛に満ちた精霊だったのだ。

 とは言え、鼠がお蚕の天敵であることには変わりないので、紗代には受け入れることができないのだけれど。


「堕ち神と言ってもまだ力は弱かったからね、わたしには察知できなかった。現場は市街地からも遠く離れていたし……だからあの導きには大いに助けられたのだ。煌めく絹糸のようなものは、真白様のお力によるものだと思ったのだが」


 闇にたなびく七色の糸。

 紗代は霧央と出会った日のことを思い出した。自分も糸を掴もうとして、霧央の車の前に飛び出したのだ。


「……紗代さんも同じ体験を?」


 霧央は少し考えてぽんと手を打った。


「やはりそれは運命の糸だ」

「だ、旦那様……」

「運命の赤い糸の伝承は知っているね?運命の恋人の小指は赤い糸で結ばれているという……。ああ、大陸では小指ではなくて足首で結ばれているらしいけれど」

「は、はあ」

 早口でまくし立てる霧央の勢いに、紗代は圧倒された。いつもは泰然たいぜんとしている霧央にこんな一面もあるのかと少し驚く。

「西洋の神話には、運命の三女神というのがいてね。彼女たちは過去、現在、未来を司っているけれど、それぞれ手には糸車を持っている」

「糸車……」

「結ばれ、ときにはもつれ合う運命を、人間は東西問わず糸のようだと考えたのだ。そして糸を司る精霊が、運命に干渉する力を持っていたとしてそこになんの不思議はない」

「そ、そんな、まさか……」


 運命に干渉という言葉を聞いて、紗代は卒倒しそうになる。

 自分の精霊はお蚕たちをより美しくしてくれる力しか持たないはずだ。


「お、お待ちください。祖母はそのようなこと、一言も申しておりませんでした。わたくしたちが共通する体験をしたのは確かですけれど、それが真白様のやったことかどうかは……」

「可能性は高いと思わないかね?」

「分かり……ません……。まさかそんな大それた力が存在するだなんて……」

「まぁ、詳しい検証をしてみなければ判断はできないけどね。……どちらにせよ、わたしは運命に選ばれたということだ」

「運命に……」

「そう、紗代さんとわたしは家族になる運命だったのだよ。そして、その運命は正しかった」

「なぜ……正しいなどと……」

「だってわたしは、紗代さんがいてくれてこの上なく楽しいからね」


 その言葉に、紗代の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。


「だ、旦那様は……、わたくしのようなつまらない女を楽しいと……?」

「とても楽しい。君の日常は尊いものだし、それを間近で感じられるのは素敵なことだ」


 これまで霧央が紗代に見せてきた笑顔。それらがこの言葉は嘘ではないと言ってくれている気がした。

 紗代だって、仮初の婚約がこんなに温かいものだとは思わなかった。霧央の言葉が、行動が、いつも心を満たしてやまない。

 愛おしい人。

 本物の妻にはなれなくとも良い。こんなにも優しい人から家族と言ってもらえるのなら。


「だから、この家に居て良いかなどと聞かないでほしい。君が出て行ってしまったら、わたしは寂しくなってしまうよ」


 いよいよ感情の奔流が止まらなくなって、紗代はしゃくりあげて泣いた。

 霧央はただ、紗代の髪を優しく撫でた。

 紗代が泣き疲れて眠るまで、ずっとずっとそうしていた。



 翌朝、東の空が朝焼けに染まる頃。紗代の部屋に史子の悲鳴が響き渡った。すわ一大事かと霧央と辰爺が駆け付ける。

 取り乱す彼女に話を聞くと、紗代の様子を窺おうとしたら、布団は畳まれ部屋はもぬけの空になっていたというのだ。


「旦那様がお泣かせするから奥様が、奥様が……!」

「わ、わたしのせい?!でもなぜ、あんな身体でいなくなるなど……」

「女性の心というのは難しいものにございますからのう」


 三人が大騒ぎしていると、背後からひょっこりと紗代が姿を現す。


「まあ……、おはようございます。皆さん、こんなところでどうなさったのです……?」

「お……奥様?昨日まで立つのもお辛い様子でしたのに、どうして……」

「どうしてって……。産卵用に分けておいたお蚕が、そろそろ繭から出る頃かと思ったのです」

「お、お蚕が……」


 史子がその場にへたり込み、辰爺は「奥様らしい」と鷹揚に笑った。霧央はさすがに呆れたのか盛大なため息をついた。


「……君、お蚕を大事にするのは構わないが、もっと自分のことも大切にしたまえ」

「ですが……もう何日もせってしまいましたし、無事に羽化するか心配だったのです。でも、真白様が言うにはみんな元気だそうで」

「それは……なにより……」

「はい……、ありがとう存じます」


 紗代が微笑むのを見て、霧央はもう何も言えなくなった。そうだ、お蚕のこととなると彼女は強情なのだ。

 しかし、お蚕ばかりが彼女の気を引くのはなんなんだ。そんな嫉妬のような感情が霧央の頭を擡げる。

 だがそれをみっともなく顔に出すこともできなくて、惚れた弱みというのはこのことかと実感する。

 おかしい。彼女は自分の婚約者なのに、これでは自分ばかりが好意を抱いているようではないか。

 霧央は後悔した。昨晩、紗代のことを家族と呼ぶのではなかったと。

 あの場で彼女のことを、自分の妻だと言い切ってしまえば良かったのだ。

 大事な場面であと一歩踏み出せなかった自分を恨む。

「……とにかく、無理をすると史子が泣くよ」

「え……、そんな。史ちゃんは泣きません、よね……?」

「いいえ、泣きます……。史子は奥様を守りきれなかったのに、ご無理をさせて回復が遅れることがあっては……」

「そ、そんな……」

「ううむ。たしかに、奥様には少し自制してもらわねばなりませんのう。奥様がまた寝込むことになれば、この老体も心配で病気になるやもしれませぬ」

「わ、わかりました。控えますから」


 少女も老人も、か弱いフリが得意だ。それは敵をあざむくためには便利な力ではあるけれど、なんだかずるいなぁと霧央は思った。


「それよりも見てくだされ。今朝は一際美しい榊が手に入りましてな」

「まあ、なんて艶やかな……」

「早速、お供えいたしましょう!お供物も朝食もすでに整っておりますので」

「はい、そうしましょう」


 まあ、彼女が笑っていることの他は、望むべくもないか。霧央は頭をいた。


「旦那様、参りましょう」


 紗代が霧央を振り返り、霧央も微笑み返す。

 春蚕はるごの季節は終わり、まもなく梅雨がやってくる。だけれど西旺寺家はまだまだ新芽が芽吹くような春の陽気に包まれていた。

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精霊の国の花嫁御寮 楠千晃 @rosestone0127

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