第19話 糸

 どうやら自分は思ったより冷静を欠いているらしい。霧央は長い溜め息をついた。

 千早家の屋敷まで車を飛ばしたのは良いが、そこには堕ち神の気配はない。

 部隊の権限で敷地内を改めてみたが、そこにはわずかに瘴気が残るだけ。

 堕ち神が関わっているのは間違いないが、その契約者本人を押さえなければ意味がない。

 そもそも、人攫ひとさらいが自宅に戻るなどという危険な真似はしないだろうに。

 感覚を研ぎ澄ませながら、敷地の周りを歩いてみる。一帯には桑の木畑が広がっていて、千早家がもともとは真面目にお蚕を育てていたことが伺える。

 しかし納屋が崩れ、畑が荒れているところをみると、寛治が男爵となってからはここの手入れを怠っているだろうことも容易に検討がついた。

 美弥子という娘を思い出す。会話をしてみて思慮深い質には見えなかった。

 単純に腹いせのために紗代を誘拐したならば、危害を加えられる可能性がある。うかうかとしてはいられない。

 霧央はいつの間にか走り出していた。

 誰にでも立ち入りができて、人通りの少ない場所。それでいて堕ち神が好みそうな、暗くじめじめした環境。そこを虱潰しらみつぶしに探していかねばならない。

 とは言え、主な住宅地は精霊部隊の者が定期的にパトロールしているはずだ。

 現場は少なくともこの付近にはない。

 もっと、もっと遠くのーー。


 考えているうちに、視界が闇に覆われていることに気付く。

 まだ午後になって間もない時間だったはずなのに、燦々と輝いていた太陽が姿を消している。

 それどころか、桑の木畑も立ち並ぶ民家も、足元には地面すらない。ただただ闇だけが広がっている。

 これは、現実ではないな。

 霧央は即座に気付いた。

 精霊に関わる仕事をしていると、不思議な体験をすることは山ほどある。幻惑に閉じ込められたことなど数えられないほどだ。

 足を止めてふと目を閉じた。

 少し、平静を取り戻せた気がする。

 それでも急いでいることには変わりない。 

 まず何をすべきか。

 そう考えたとき、ちらりと輝くものが視界に入った。霧央は思わず手を伸ばす。


 ひらり。


 それは霧央の手をすり抜けると、風に吹かれて行ってしまう。自然と足が追いかける。

 一本の長い糸だった。どこから続いているのかは分からない。ただ七色の光を放ちながら、漆黒の空間にゆったりと揺れている。

 呼ばれているのだと霧央はすぐさま悟った。

 美しいもので人間を誘うのは、悪い精霊や妖のよくある手口だ。

 しかし、この糸からは嫌な気配はしない。霧央はすぐに覚悟を決め、きらめく糸を追って走ったのだった。



 紗代はいよいよ命の危機を感じていた。

 美弥子の顔からは余裕の笑みが消え、紗代を蹴る爪先に力が入っている。


「ほんっと!強情な女!」


 朦朧もうろうとしながらも考えるのは、尊い精霊の行く末。

 自分が死んでしまったら、真白はどうなるのだろう。こんなふうに契約者が命を落としてしまっては、この子まで堕ち神になってしまうのではないか。

 しかし、それだけは避けなければならない。

 だけれど、紗代には自力でここから逃げられるとは思えなかった。

 もし自分が死ぬのは避けられないとするならば、真白だけでも逃がすべきではないだろうか。

 真白がここから離れられないのは、自分と契約を交わしているからだ。それならば、契約さえ解除してしまえば真白は逃げられる。

 そう考えて紗代は契約を解消しようと試みた。しかし、何度も語りかけても真白は承諾しょうだくしようとしない。

 それどころか、契約解消を申し出た途端に真白はバタバタと暴れるのをぴたりとやめた。

 恐怖に押しつぶされそうになりながらも、紗代の精神の奥底でじっとしている。それは何かを待っているようでもあった。

 正直、真白がおとなしくなってくれたのはありがたかった。頭痛は少しマシになるし、顔を少し持ち上げて周囲を窺う余裕もできた。

 納屋はそう広くない。堕ち神は美弥子の動きを眺めるだけで、自分から動くことはなさそうだ。

 紗代は待つだけでは事態は変わらないことを知っている。パーティーのあの日に家を抜け出さなければ、ずっと千早家で辛い日々を送っていただろう。

 だから今も、自分から動き出さなければ。

 美弥子が疲労困憊の今が好機だ。

 紗代は美弥子が両膝に手をついた隙に、開け放たれている扉に向かって飛び出した。全力の疾走。

 扉から見える外は妙に暗かった。もしかしたらもうすぐ夜になるのかもしれない。

 堕ち神は陽が落ちると力を増すのだと言う。その前にここを離れなければ。

 そんなことを考えながら表に足を踏み出し──見えない壁に弾かれた。


「あっはは!逃げられると思ったの!」


 尻餅をついて納屋に転がる紗代を、美弥子が嗤う。


「誰も逃げられないようにしてって精霊に頼んだら、こんな素敵な結界を作ってくれたの。お姉様の精霊はいったいどんなことができるのかしら?少なくとも、ここから出してくれることはなさそうね?」


 美弥子の高笑いが響く中、紗代はただ呆然とすることしかできなかった。精霊の結界なんて、破れるわけがない。自分はなぶり殺されるのだろう。


 西旺寺家にやってきて、自分の日常はガラリと変わった。美味しい食事に温かい布団。ほつれたところのない綺麗な着物。罵倒や暴力に怯える必要のない、安全な住まい。  

 髪を優しく梳かしてくれる史子の手つき。辰爺がお蚕小屋の窓辺に生けた夕焼け色の薔薇。まだこれから、千鳥さんとも綺羅のやり取りをするはずだった。喫茶すずらんにもまた行きたいと思っていたのに。

 こんな自分にも微笑んでくれた霧央。優しい人。苺のドロップスをくれた。唄を聞いて笑ってくれた。何を選んでも自由なのだと言ってくれた。

 真白が回復したのも彼のおかげで、彼のために何かをしてあげたかった。

 なのに、こんなところで終わってしまうの。

 紗代が己の人生を諦めかけた、その時。


「まさか結界まで張れるとは。正直、わたしは君を侮っていたよ」


 薄暗い納屋には似つかわしくない、涼やかな声。同時に硝子が割れるような音がして、眩しいぐらいの太陽光が紗代を照らす。

 空間が割れていた。

 その割れ目から、サーベルを空にかざした霧央が姿を表す。

 美弥子は後退る。まさか、軍刀で結界を壊すだなんて。結界破りなど一流の術師でなければできないはず。


「だん、な……さま……!」

「紗代さん、すまない。遅くなったね」

「いいえ……、いいえ……!」


 霧央は紗代の姿を見て眉根を寄せた。左頬は赤くれ、乱れた髪が血で額に張りついている。泥まみれの着物はところどころ破れ、帯はすっかり崩れていた。


「帰ってすぐに手当てをしよう」


 すかさず抱き上げようとした霧央に、紗代が尋ねる。


「旦那、さま……、どうやって、ここへ……」

「どうやってって、君がわたしを呼んでくれただろう」


 心の中で何度も助けを呼んだ。それは間違いない。しかしそんなものが実際に霧央に届くとは思っていなかった。

 これはもしかしたら死に際の都合の良い幻覚なのではないかと思えてくる。

 しかし、それも横抱きにされた途端にどうでも良くなってしまった。

 霧央の胸板から伝わる体温。紗代の身体を支える力強い腕。労わしげな眼差し。これだけ彼を感じながら死ねるのなら、それも良い。

 譫言うわごとのように、紗代は霧央に語りかける。


「聞い、て、くださいまし……。わたくしの絹糸が……二等と認められたのです……。査定をして、いただい、て……。大島屋さん、が、高値で……買い取って、くださる、と……」

「そうか、後でゆっくり聞こう。だからもうしゃべるのはよしたまえ」

「認めて、いただけたのです……。わたくしの、お蚕たちには……、わたくしの、仕事には、価値がある、と……」

「……ああ。君の仕事は素晴らしい。わたしもよく知っているよ」

「……ふふ。これ、で、生活費も、お渡し、できます……。わたくしは、これからも、お屋敷にいても、かまいませんか……?」

「何故そのようなことを言うのかね。君は、わたしの妻だろう。側にいてくれなくてどうするのだ」

「……うれしい。まだ、婚約者の役を……、やらせて、いただけるのですね……」


 紗代はそのまま気を失った。霧央は婚約者を抱いてきびすを返す。

 それを美弥子の鋭い声が制した。


「このまま帰すと思っているの」


 いつの間にか、霧央の周囲を溝鼠どぶねずみが囲い込んでいた。目を獰猛どうもうに光らせ、今にも襲い掛からんと二人を見ている。


「……君は、自分が何をしたのか分かっているのかい」

「ありがたくも精霊と契約して、そのご加護をいただいているところよ」

「それは精霊ではない。堕ち神だ」

「わたくしに利益があるのなら、どちらだって同じよ」

「そうかい。そう言えば君はそういう人間だったね」

「……なんとでも言うがいいわ。散々わたくしを莫迦にしたこと、許さないんだから」


 そういえばこの娘は、精霊が見えないことを言い当てられて激昂げきこうしていたなと霧央は思い出す。


「……わたしの精霊も、今なら君の目に映るのかな。ならば見せてあげようじゃないか。本物の精霊というものを」


 霧央が薄く笑う。それは獲物を前にして口角を上げる肉食獣のようで、美弥子の身体は総毛立った。


「おいで、菊亮」


 部隊でも最強と謳われる金虎の顕現。しかし美弥子に見えたのは、鮮烈な光だけだった。命の喜びをそのまま輝きに変えたような、無邪気で強大な光。

 中型犬のような輪郭を朧げながら感じ取ることはできたが、どんな動物なのかまでは分からない。

 それは美弥子に襲いかかるわけでもなく、ただ一声「がお」と鳴いた。


「ひっ」


 より強い閃光せんこうが身体を突き刺す。そのせいだろうか。何か、自分を覆う膜のようなものが剥がれていく気がする。

 精霊を得て強くなったはずの自分が脆くなっていくのを感じて、美弥子は辺りを見回した。

 集まっていたはずの溝鼠どぶねずみが一匹残らず姿を消している。それどころか、自分の精霊が光に貫かれてもだえ苦しんでいるではないか。


「な……っ、ちょっとアンタ!しっかりしなさいよ!もう一度、手下の鼠を呼びなさい!早く!」


 そう言っている内に、鼠の身体はぐずぐずと崩れ落ちる。

 それは「やろう、やろう。ぜんぶやろう」と繰り返しながら、やがてはちりとなって消えていった。


「あ、ああ……!!わたくしのお着物……、宝石、素敵な洋館……まだ何も、何ももらってないじゃないのおおお!」


 美弥子は悲鳴にも似た叫び声をあげた。そして堕ち神がすっかり消滅してしまったのを悟ると、霧央を下からめ付ける。


「お前……、お前のせいで……!!」


 怒りに任せて殴りかかる。

 しかし拳が霧央に届くことはなかった。

 美弥子は関節が思うように動かせずにへたり込んでいた。なんだか身体全体が重いような、だるいような。目が霞む。握った拳が妙に骨ばって見えた。

 まるで老婆のように痩せて皺々だ。 


「なに……これ……」 


 カラスのようにしゃがれた声。まさかと顔や首を弄る。

 どこを触っても皺だらけ。これでは本当に老人ではないか。

 戸惑う美弥子を、霧央は冷ややかに見下ろした。


「精霊と人との関係が、なぜ契約と呼ばれるか分かるかね?」

「……何が言いたいの」

「信仰心、敬意、愛情……そういったものを精霊は栄養とする。それらを捧げる代わりに精霊は加護を与えるのだ。君はそのいずれも渡さなかったのだろう」

「……まさか」

「その代替として、堕ち神は君の生気を吸ったのだろうね。溝鼠を操り、結界を張り……我々にとっては大したことではないけれど、霊力の操作もまともにできない人間がやるには大きな代償が必要だろう」


 代償──それは自慢の美貌、若さ、健康な身体。

 そのすべてを駆使して最高の結婚をするはずだった。お姫様のように大事にしてくれる殿方を見つけて、幸せな一生を送るはずだった。

 しかしそれらはすべて失われたのだ。これから花開くはずだった人生を想い、美弥子は絶叫した。


「あああっ、うそっ!いやっ!いやああああああ!そんな、どうして、どうしてぇ」


 金虎の気配を察知して、精霊部隊の隊員が次々と現場に駆けつける。

 美弥子は彼らに連行されていったが、彼女の慟哭どうこくはいつまでも止むことはなかった。

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