第18話 助けて

 じとじととした空気。えた臭い。

 薄暗い部屋の中で紗代は目を覚ました。いつの間にか気を失っていたらしい。

 上体を起こすと身体のあちこちが痛む。うぐいす色の着物はすっかり泥にまみれてしまっている。史子が結ってくれた髪もぐちゃぐちゃだ。

 紗代はゆるりと辺りを見回した。農具が置かれたなんの変哲もない納屋。しかし西旺寺家にはこんな場所はなかった。

 なぜ自分はここにいるのだろう。いや、考えるよりも先にここを出よう。屋敷に帰らなくては。

 痛みを堪えて立ち上がる。

 すると同時に、納屋の扉が開いた。


「あらあ、お姉様。お目覚めになったのね」

「美弥子さん……」


 真っ赤な振袖を着た妹が、艶然えんぜんと微笑んでいる。なぜか足からは力が抜け、紗代は再び座り込んでいた。


「うふふ。お姉様ったら、見下されるのがお似合いだこと」


 鈴を転がすような笑い声。怒鳴りつけられているわけではないのに、なぜだか恐ろしくてたまらない。


「わたくしより下の立場のくせに、最近は毛艶けづやが良くなったご様子ね。それに、これ──」


 ひらり。美弥子は封筒を取り出した。

 そうだわ、書類。自分が大事に抱えていたはずの書類はどうなっただろう。

 まさか、気を失っているうちに手を離してしまっただろうか。

 紗代は着物の襟元や袖口を必死に弄る。しかしどこにも封筒はなく、美弥子に取り上げられたのだと気づいた。


「……美弥子さん、それは大事な書類なのです。……返してくださいな」

「ええ、知っていてよ!わたくしも目を通させていただいたわ。お姉様、二等の絹糸が取れるようになったのね。わたくし、嬉しいわ!売り上げはもちろん、すべてわたくしにくださるわよね?」

「す……すべて……?もちろん、千早家に仕送りをするのはやぶさかではありません。だけれど、すべてというのは……」

「はぁ?お姉様のくせに、わたくしに逆らおうというの?」

「……千早家は、わたくしという穀潰ごくつぶしがいなくなって、生活が楽になったのではないの……?美弥子さん、貴女は一等綺羅を織れるのでしょう……?」

「はっ。西旺寺様みたいにずけずけとした物言いも嫌いだけど、お姉様みたいな鈍感もしゃくさわるわね。わたくしが、織物なんてするはずないじゃない。一等綺羅が織れるだなんて、ただの嘘よ!まして、お蚕の世話だなんて」

「え……?」

「あんな気持ちの悪い虫、触るだなんて真っ平だと言っているの!!」

「み……、美弥子さん……!!」


 紗代は頭を殴られたような衝撃を受けた。美弥子は一級綺羅の織り手だとずっと信じていた。

 自分が美弥子よりも優れた絹を取れない以上は、何の意見も言えないとすべてを飲み込んできたのに。

 そもそも、千早家に生まれついた以上は、お蚕仕事で頂を目指し、切磋琢磨するものではないのか。

 そう信じていたのに、自分はずっと裏切られてきたのだ。紗代はようやくそれを悟った。

 それよりも悲しいことは、美弥子がお蚕様を「気持ちの悪い虫」と言ってのけたこと。

 綺羅を売った金で生活しているのに、お蚕様に少しの感謝もできないなんて。

 美弥子が急に薄っぺらくてつまらない女性に見えた。紗代は美弥子に深く失望していた。


「いい?お姉様は千早家唯一の稼ぎ手なのよ。お父様は花街通いに忙しいし、お母様はお買い物が生き甲斐だわ。わたくしだって最高の結婚のためにもっとお金がいるの。お姉様はちゃんと自覚を持ってちょうだい。売った絹のお金は全額、こちらに回して」

「……わたくしが多少、お金を工面したところで、他に誰も働こうとしないのでは千早家はいずれ没落するわ」

「じゃあ西旺寺家からも融通させなさいよ」

「な……なにを……」

「ええ、そうだわ。嫁の実家にお金が必要なら、婚家が用立てるのが筋というもの。西旺寺様は鼻持ちならないけれど、わたくしの役に立ってくださるのなら許して差し上げてもいいわ」

「貴女は……なんの努力もせずに他家に集ろうだなんて、それがおかしいことだとは思わないのですか……?」

「……お姉様は、少し見ない間に随分と生意気な口をきくようになったのね?」

「生意気なのではありません、これは人の道理です。

……わたくしは、貴女に対して申し訳ないと思います。姉として、年長者として貴女を導くことができなかった。

お母様がわたくしを嫌うのはどうにもできなくても、貴女が間違っていくことは防がねばならなかったのに。

わたくしは、ただ頭を下げていれば波風が立たないからと、貴女を正すことをしなかった……!」

「莫迦ね、お姉様!わたくしを導くだなんて洒落臭しゃらくさいこと!貴女はわたくしにかしずいていればいいのよ!!」

「美弥子さん──」

「わたくしの名を軽々しく呼ばないで!」


 美弥子が叫んだ途端、金縛りに遭ったかのように紗代の身体が動かなくなる。

 耳鳴りがして、こめかみがズキズキと痛んだ。

 頭に響く悲鳴は誰のものだろう。自分の喉から搾り出されているものか、それとも。


──こわい。たすけて。たべられちゃう。


 そんな恐怖が心を黒く塗りつぶしていく。

 なぜこんなにも恐ろしいのだろう。紗代は必死に目を凝らしてやっと気付いた。

 美弥子の隣で小型犬ほどの大きさの動物がこちらをにらんでいる。

 丸い耳、細く長い尻尾……あれは鼠だ。しかしその大きさからして、ただの鼠ではないのがわかる。

 精霊……?いや。

 小屋全体がどす黒い空気で汚染されていて気づかなかったけれど、瘴気は明らかにあの鼠から発せられている。

 堕ち神だ。よりにもよって鼠の堕ち神が、美弥子に付いていた。


 そして、そこに気付いたのは間違いだったと後悔する。鼠の存在をはっきりと認識したことで、恐怖がより鋭く心を刺した。


──たべないで。かじらないで。


 ああ、これは真白の感情だ。真白の恐怖が自分に流れ込んでいるのだと紗代は気づいた。

 鼠はお蚕の天敵である。ゆっくりとしか動けないお蚕たちを素早く齧っていってしまうからだ。

 そういえば祖母が存命の折は家に猫の護符を貼っていたのを思い出す。

 紗代は真白を守るように身体を折り曲げた。手で顔を覆い、「鼠なんていない」と何度も心の中で繰り返す。

 そんな紗代を美弥子は楽しそうに嘲った。


「あっははは!お姉様ったら芋虫のよう!蚕女にはお似合いの姿ね!」


 背中に鋭い痛みが走る。どうやら美弥子が蹴ったらしい。さらに頭にも衝撃を受け、紗代はさらに身体を縮こまらせた。


「わたくしと約束したら帰してあげる!今後織り上げた綺羅の代金すべてを寄越しなさい!そして西旺寺家からも金を引っ張るの!」


 紗代を覗き込む瞳は、優越感に浸っていた。真っ赤な紅で彩られた唇は、強者としての余裕でいびつにに歪んでいる。

 見てはならない。妹の姿を、堕ち神の姿を見てはならない。

 必死に目を瞑りながら、紗代は声を絞り出した。


「いや……です……。あなたの言うことは、聞け、ません…………」

「あはっ!家族を思い遣れないさもしい女!そんな強情がいつまで続くかしら!」

「貴女が……、人から……搾取することしか考えないうちは……、絶対に、お金など……」

「そんなことを言っていると、頭から齧るわよ?ほら、チュウ、チュウ、チュウ!」


 紗代は必死に耳を塞いだ。自分の中で真白が暴れ回っている。助けを求めて悲鳴をあげている。

 助けて。誰か助けて。

 誰かこのこを助けてあげて。

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