第17話 事件

 すべての絹糸を紡ぎ終えた翌日、紗代は大島屋へと来ていた。

 それは霧央には内緒の外出だったが不安はない。街に慣れている史子が共を申し出てくれたからだ。

 それにしても手に汗が止まらない。

 緊張で胃がキリリと痛む。

 ここは前にも使った応接室だったが前とは状況が違う。今の紗代は客ではなかった。

 目の前では千鳥が紗代の絹糸を査定しているのだ。

 それは千早家で紡いだものより格段に質が良いのは明らかだったが、どれくらいの価値があるかは紗代本人にもわからない。

 紗代は売買や売値交渉の場に出たことがないのだ。

 情けないけれど、それならその道の専門家に聞いた方が早い。

 そこで史子と相談して大島屋を訪ねることになった。

 鋭い目つきで糸を検分していた千鳥が顔を上げる。紗代の背筋がぴっと伸びた。


「二級絹糸でございますね」

「二級……」

「ええ、綺羅に織りあがったらまた査定が必要になりますけども、これは二級の精霊絹糸で間違いございません。穏やかな霊力が込められた良い糸でございます」


 千鳥がにっこりと微笑んで、紗代は狼狽えた。


「あの、わたくしは今まで三級絹糸しか取れなかったのです。二級というのは間違いございませんでしょうか。織ってみたら等級が下がるようなことはございませんでしょうか」

「契約者の置かれた環境が精霊様に影響して等級が上下することはございます。紗代様が西旺寺家に入られたのは正解でございましたね。二級の絹糸を織ってみたら三級の綺羅になった……だなんてことも聞いたことがございませんから、ご安心くださいまし」


 精霊綺羅というのは、糸と糸の間に霊力を織り交ぜて作るものだ。

 だから霊力の操作ができる織り手がきちんと向き合えば、精霊絹糸はより強い力を含んだ精霊綺羅となる。

 それは当然のことだったが、それでも紗代には確かめずにはいられなかったのだ。


「左様で……ございますか…………」

「ええ。まことに美しい絹糸ですわ。お婆様の作品を彷彿ほうふつとさせる素晴らしい出来できでございますよ」


 紗代は全身から力が抜けた。

 二級。その言葉を噛み締める。


 ずっと質の悪い糸しか取れないと蔑まれてきた。

 だけど、愛情をこめて育てたお蚕たちは美しい絹糸となって、こんなにも褒めてもらえている。

 でも三級と二級では雲泥の差なのに、こんなにもあっさりと昇格するなんて。ありがたいような、信じられないような。

 そんな気持ちが紗代のなかでせめぎあう。


 千鳥はそんな紗代の気持ちに構わず、ずいとにじり寄った。


「……ときに。こちら、もう販売先は決まっているのですか?」

「いえ、そういったことはまったく分からなくて……今まで、本当にお蚕の世話しかしていなかったものですから。糸のままではなく、ちゃんと綺羅に仕立てようとは思っておりますが」

「まあ、でしたらその精霊綺羅、当店に買い取らせてはくださいません?」

「それは……わたくしとしても嬉しいことではございますが」

「精霊綺羅を織れる職人は限られておりますし、だいたいの職人さんはおろす店が決まっているものです。かねてより当店は精霊綺羅の扱いを増やしたいと思っておりました。もし紗代様にお売りいただけたならこれ以上のことはございません」

「そういうことでしたら……」

「もちろん、お代金ははずみますわ」

「まことですか……?」

「ちなみに、絹糸の状態でもこれぐらいはお出しできます」


 そう言って千鳥はぱちぱちとそろばんを弾く。そこに表れた金額に、紗代は腰を抜かした。


「こ、こんなに……!」

「絹糸でしたらこれぐらいですけれど、綺羅に織り上げてくださったなら、もっと価格は上がりましてよ。糸の状態より、布にしてしまったほうがより高い霊力が宿りますからね。うふふ、やる気でました?」

「は、はい……!」


 話がまとまり、紗代は様々な契約者にサインした。価格の取り決めに関するものや、報酬の受け渡しに関すること。そして書類の中には注文書もあった。

 紗代はなんだかわくわくした。

 紗代が大島屋に売った綺羅を、さらに誰かが着物に仕立てて着てくれる。

 今までは毎日の生活に精一杯で、そんな想像はしたこともなかった。だけれども、自分の綺羅が誰かの身を飾るだなんて、とっても素敵なことだ。

 どんな人が、どんなふうに着てくれるのだろう。二等綺羅ともなると高級品だから、特別な日のための装いになるのかも。

 大島屋を出ても、紗代は浮き立つ気持ちを抑えられなかった。

 見本の糸は大島屋に置いてきたから、千鳥がさまざまなお客に見せるはずだ。もしかしたらそれをきっかけに注文が入ったりするのかもしれない。

 書類の写しが入った茶封筒を大事そうに抱える紗代を見て、史子は思わず微笑む。

 そういえば自分も幼い頃に屋敷でお掃除番のお役目をいただいたとき、箒を離そうとはしなかったっけ。そんな思い出が史子に蘇る。


「よろしゅうございましたね、奥様」

「ええ、これも支えて下さった皆様のおかげです。ありがとう、史ちゃん」

「そんな、わたくしは……」

「史ちゃんが毎日、美味しいご飯をこしらえてくれるから、わたくしは毎日が幸せです。そんな気持ちがお蚕たちにも伝わって、良い絹糸ができたのだと思います」

「奥様……」


 史子がはにかむように笑った、そのとき。


「きゃあああっ!」 


 大通りの先から、耳をつんざくような悲鳴が上がる。 


「いやっ!!」

「うわああああ!」


 立て続けに悲鳴が上がり、しかもそれはどんどんこちらに近づいてくる。二人は身をこわばらせた。

 人通りが邪魔して何が起こっているのかは分からない。混乱に陥った人々が右往左往する。尻餅しりもちをついた子どもが泣いている。その隣では大八車だいはちぐるまが横転していた。

 どこが安全なのかは分からない。とりあえず史子は紗代を大島屋の建物に避難させようとした。

 しかし。

 ふと足元を見ると、黒々としたヘドロの大群がうごめいている。鼻をつく腐臭ふしゅう

 それは四畳分ほどに広がったかと思うと、小さな山のように盛り上がるのを繰り返した。まるで決まった形がないかのようだ。

 正体が何かは分からないが、騒ぎの元凶がこれであることは誰の目にも明らかだった。

 異形のものに対する恐怖心が身体を凍り付かせる。

 それでも史子は素早く動いた。壁に立てかけてあった箒を手に取り、ヘドロを払うように穂先を叩きつける。

 それは衝撃を受けるとバラバラと散らばったが、まるで意志があるかのように再び一つのかたまりへと戻る。

 史子は顔に飛び散った汚泥おでいぬぐい、再びヘドロを叩いた。さらに散らばった個体一つ一つに、鋭い突きを食らわせる。

 するとそれは塊に戻ることはなく、事切れたように動かなくなった。

 これはヘドロではない。動物の大群だと史子は勘付かんづいた。

 しかしそれが分かったところで、脅威がなくなったわけではない。

 一気に叩こう。そう思って史子が低く構えをとったとき、ヘドロは大きく跳び上がり史子の頭上を超えていった。


「なっ……」


 背後には紗代。彼女はこの光景を見て地面にへたり込んでいる。

「奥様──!」

 その黒い塊はあっという間に紗代を包み込むと、そのまま大通りをとてつもない速さで走っていった。

 史子が後を追うけれども、人間の足では到底敵いようもない。

 それはあっという間に視界の彼方へと消えていった。


 連れ去られた。自分がついていながら、なんということ。


 史子はぐっと拳を固めると、ヘドロが去っていった方角とは反対方向に走る。

 帝国陸軍の精霊部隊が所属する詰所まで。汚泥に塗れた史子を、すれ違った人々がギョッとして振り返る。

 だけれどもそんなことを気にする余裕など、どこにもなかった。



 陸軍の建物につくと、史子は守衛に詰め寄り、霧央に面会を申し出た。しかし守衛は「臭い臭い」というだけで話にならない。


「ですから!事は一刻を争うのです!」

「市民が側溝どぶに落ちただけでは軍人は動けないよ」

「そんなことではございません!わたくしは西旺寺家の女中で──」

「西旺寺家にそんな臭い女中がいるものか」


 面倒くさそうに守衛は史子を追い払おうとする。もう無理矢理押し入ってしまおうか。

 史子がそんな気持ちを必死に押し留めていると、その場にそぐわぬ涼やかな声が響いた。


「うーん、確かにひどい臭いだ。しかし彼女は間違いなくうちの者だがね」

「西旺寺隊長……っ!!」

「彼女の身許みもとはわたしが保証しよう。それでも君は彼女を追い払おうというかね」

「失礼いたしましたッ!!」


 直立敬礼する守衛を見て一つ頷くと、霧央は史子を見て首を傾げた。


「……この悪臭、ただの下水の匂いなんかではない。悪しき気配の痕跡がある。いったい何があったというのだね」

「それが……!」 


 史子は話した。紗代と街に出ていたこと、ヘドロの塊がいきなり襲ってきたこと、紗代がそれに連れ去られてしまったこと。


「あれは小さな動物の群れかと思われます。しかし、それが一つの意志を持ったように奥様を連れ去りました。これは普通では有り得ぬことと思います。そこで旦那様に助けを求めるのが最善と考えたのです」

「……なるほど。史子君は賢いね。それは間違いなく堕ち神だろう」


 かつては精霊であったもの。天地を呪い、人に仇なすもの。

 精霊部隊の霧央にとってはそう珍しいものではない。しかし普通に生活していれば関わる機会などないはずだ。

 なぜ狙ったように紗代を連れ去った?


──あのお嬢さん、このまま引っ込むようなタマには見えませんでしたよ。


 あの雨の日の、富子の言葉を思い出す。まさかと思って頭を振った。

 いや、彼女を襲う可能性があるのは、美弥子を置いて他にないのも確かだ。しかし、こんなところで思案に暮れても何にもならない。

 霧央は守衛の青年に向き直った。


「君、他の精霊部隊員を呼びたまえ。そして彼女を清めさせるように。ああ、この娘は瘴気しょうきに侵されているから触れてはならないよ」

「はっ!」 


 青年が駆けていく。史子がこちらをじっと見つめているのに気付いて、霧央は笑顔を作った。


「そう不安がる必要はないよ。うちの部隊には浄化に手慣れた者が大勢いるからね」

「いえ、奥様は……、奥様は……!」


 瞳の縁には涙がいっぱいに溜まっていた。霧央はそれをそっと拭う。

「いけません、旦那様まで汚れてしまいます……」

「史子君、君は何も心配しなくていい。現場にはわたしが出る。わたしの婚約者に手を出したツケは万倍にして払ってもらおう」

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