第16話 妹、千早美弥子
美弥子は父親が嫌いだ。
嫌い、というよりも見下しているといった方が正しいかもしれない。
父親の寛治は男爵だけれど、その責務を果たしているとは到底思えなかったからだ。
彼はあまりに家の内情を理解していなかった。
お蚕仕事は古来から女性が担ってきたものだから、そこに手を出さないのはまだ良しとしよう。
しかし綺羅の営業をするわけでもなければ、他に事業を
金は井戸から湧いてくるとでも思っているのか、
そして父は家族にさして興味がなさそうだった。
それは大恋愛をしたはずの母に対しても同じ。母がどれだけ散財しても外に恋人を作っても文句を言うことはない。
だけれどもパーティーなんかがあると美しく着飾らせては仲良く家族ごっこをする。
金を運んで来るでもなく、一途に妻を愛するでもない。そんな父親をどうやって尊敬することができるだろう。こんな人に任せていては、きっと縁談もままならない。
だから美弥子は嘘をつくことにした。自分は一等綺羅を織ることができて、千早家を支えているのだ、と。
それを聞けば誰もが美弥子を精霊付きの嫁に欲しがると思ったからだ。
自分の父親がそれを素直に信じたのには笑ってしまった。
彼は本当に知らないのだ。母屋にお蚕なんて一頭もいないことも、美弥子は霊力の扱いが下手だということも。
こんな家、さっさと出て行きたいと思った。
姉は三級綺羅しか織れないし、このままでは千早家は貧しくなるばかり。
屋敷は十分に手入れしきれていないし、使用人の数はどんどん減っている。
千早家が落ち目であることは、美弥子の目にも明らかだった。
この家で精一杯お金を使って自分を磨き、とっととお金持ちに嫁ぐのだ。
姉が今まで通り家でお蚕仕事を続けていれば、母は十分に生活できるだろうし、いざとなったら父も動くだろう。
だから、今までは己の幸せな結婚のことだけを考えていたのに。
喫茶室すずらんを飛び出したあと、美弥子は街をあてどもなく歩いた。雨の夜の人通りは少なく、誰もが家路を急ぐ者ばかり。
美しく結った髪はすっかり乱れ、自慢の銘仙は濡れて重い。足袋は泥に塗れてぐずぐずと気持ちが悪いし、道は泥濘んでいて何度も転びそうになる。身体はすっかり冷えていた。
それでも家に帰る気にはならない。
池辻子爵と別れたのなら、西旺寺伯爵に見初めていただけば良いじゃないの。
そう言って美弥子を焚き付けたのは母の佳乃だった。
美弥子の霊力操作が下手なところも、コツコツとした手仕事や勉強が嫌いなところも、すべて母親に似た。
しかし母はその美貌で普通の商家から男爵家に嫁入りを果たした人。
結婚生活が幸せかは分からないけれど、美弥子は自分も彼女と同じ道を歩むのだと思っていた。
母が格上に家に入ったのなら、自分はさらに家格が上のお金持ちに嫁ぐのだと、そう思っていた。
それなのに、どうしてうまくいかないの。腹が立って仕方がない。
どんどん落ちぶれていく千早家。何もしない父。自分を袖にした西旺寺伯爵。
自分は幸せな未来のために精一杯やっているだけなのに、ひどい言葉で傷つけた。莫迦にした。許せない。
そもそも姉が勝手に家を出たのが悪いのだ。
あれは長女なのだから、一生家を背負う覚悟でいなければならないはずだ。それなのに自分だけさっさと幸せになるなんておかしい。
そうだ、こんなの絶対におかしい。自分はこんなに魅力的なのだから、もっと多くのものを手にできるはずだ。
美しい振袖にドレス。色とりどりの宝石、大きな洋館、従順で優秀な使用人たち。使っても使っても尽きぬ巨万の富。珍しい蘭を温室で育てさせ、毎日薔薇を浮かべた風呂に入る。そして女中たちにこの珠のような肌を磨かせるのだ。
「あっ……!」
濡れた着物が脚に絡み付き、美弥子は派手に転んだ。
悪態を吐こうとして、今日は使用人をつけていないことに気づく。
結局、西旺寺家に向かわせた男たちはどうなったのだろう。
手足の代わりに使っていたのに、彼らが戻らないので自分はこの様だ。
普通は男爵令嬢が共も付けずに外出するなど考えられないのに。
「腹が立つわ……!」
奥歯を噛み締めた、そのときだった。
──やろうか。
地の底から響くような声が頭のなかにこだました。美弥子は地面に転がった姿勢のまま、頭をきょろきょろと動かす。
──やろうか。
幻聴ではない。しかし、人間の声にも聞こえない。
悲しみや恨みを秘めたような、おどろおどろしい声。
雨で体温の下がった身体が、さらに冷えるような心地がした。
「……何をくれるっていうのかしら」
なかば自棄になって問い返す。
これは関わってはならぬものだと本能が警鐘を鳴らしている。だけど今の美弥子に恐ろしいものなどなかった。
ただただ、思い通りにいかない現実に苛々する。できることならすべてを滅茶苦茶にしてやりたいぐらいだ。
──やろう、やろう、なんでもやろう。
「なんでもって、なんなのよ。つまらないものはお断り」
そう言いながら、まじめに相手をしている自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
そもそも、たとえ一文無しになったとしても、つまらない施しならば受けたくない。自分に似合うのは最高なものだけなのだ。
声はそれを見透かしたように言う。
──綺麗なべべに、翡翠や珊瑚の髪飾り。大きな御殿に米の詰まった蔵。やろう、やろう。ぜんぶやろう。
美弥子は勢いよく半身を起こした。
「……くれるっていうの?!このわたくしに!」
──やろう、やろう。この身と契約してくれたならぜんぶやろう。
「…………ふっ。あはっ!あはははははっ!」
精霊だ。まさか精霊の方から契約を持ち出してくるなんて。
精霊を見る力すらないと嘲った西旺寺伯爵を笑ってやりたい。
自分は殿方だけじゃなく、精霊にも愛される人間だったのだ。精霊の力さえあれば、あらゆるものが手に入る。あらゆることが可能になる。
「もちろん、全部もらって差し上げるわ!でも……」
紅の剥げた唇をぺろりと舐める。
「そうだわ……まずは、わたくしを
美弥子は
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