第8話 来客

 脱皮を終えた蚕たちが、もりもりと桑の葉をかじっている。

 黒かった体はすっかり白くなり、大きさも孵化した頃の三倍ほどになっていた。

 どうやら脱皮不良を起こした個体もいないようで、紗代は安堵あんどのため息をつく。

 蚕たちにとっては千早家も西旺寺家も変わらないはずなのに、なぜかここで桑を食んでいる方が生き生きとして見える。

 蚕の一生は短いけれど、それでも輝く瞬間があることは紗代にとっても嬉しい。

 

 いや、変わったのはお蚕ではなく自分なのかもと紗代は思う。

 空腹を我慢することがなくなり、思う存分に愛情を蚕たちに向けることができる。

 美しい紬の着物を着ているせいか、人目を憚って猫背でいることもなくなった。

 着物だけではない。

 最近は史子が毎朝、髪をってくれている。

 彼女は婦人雑誌に載っている髪型ならなんでも再現することができて、今日はマガレイトというスタイルにしてくれた。

 どうやら史子はこのときに椿油を髪に塗りこんでいるらしく、紗代のぱさぱさしていた黒髪はどんどんつややかになっていく。

 お礼にと紗代も史子の髪を結うけれど、まだ三つ編みくらいしかできなくて申し訳ないばかりだ。

 それでも史子は「まるでお姉様ができたよう」と無邪気に喜んでくれる。

 お蚕小屋に来たなら、そこには必ず花が一輪、生けられていた。

 辰爺が朝に咲いたものを飾ってくれているようで、桑の葉摘みの道すがらに感想を述べると照れたように笑う。

 なんて穏やかで、幸せな時間。

 ここには紗代をさげすむ者がいない。

 惜しげもなく優しさを与えてくれる人に囲まれて、自分はみんなに何も返してあげられないのにと少し申し訳なくなる。

 そんなことを考えていると、霧央は「また物事を難しく考えているね」と苦笑する。


「い、いえ、そのようなことは」

「眉間に皺が寄っているけれど」

「し、失礼いたしました……」


 眉根まゆねを揉む紗代を他所よそに、霧央は白米をおかわりした。彼は細身だというのに朝からよく食べる。

 目の前では真白ましろ菊亮きくすけたわむれていた。

 ふよふよと漂う真白に、菊亮の太い前脚がそっと触れる。

 子どもの虎だけあって、菊亮はやんちゃものなのだと霧央はこぼしていたがそんなことはない。

 少なくとも、真白に無理がかかるような戯れ方は決してしなかった。

 真白はというと、以前はほんの少し姿を現すのが精一杯だったのに、この屋敷に来てから顕現けんげんできる時間が増している。

 ちゃんとまつられるようになり、少しずつ力を取り戻しているのだ。

 高く舞い上がった真白を追いかけようとして、後ろ脚で立ち上がった菊亮がコロンと転がる。それを見て霧央は呆れたように笑った。


「君は精霊様たちを見習いたまえ。今日も飯がうまいぞ嬉しいなとか、遊び相手がいるのは楽しいなぐらいしか考えていないぞ」


 それはさすがに失礼ではないかしら。紗代はそう思ったけれど、実際に真白から流れ込んでくる感情は温かなものだ。


「ときに、お蚕仕事は順調かね」

「はい、それはもう。三度目の脱皮も終わりましたし、お蚕たちの食欲といったら凄まじくて」

「それは重畳ちょうじょう。よく食べるのは良いことだ」


 霧央は紗代の膳をちらりと見る。白米と味噌汁、そして明日葉のおひたしはきれいに平らげられていた。

 霧央からするとそんな少ない食事で満足できるのか不思議なくらいだったが、これでも食事の量は増えてきた方だ。

 よくよく見てみれば、かつては痩せて骨ばっていた顔の輪郭りんかくが、最近では女性的な柔らかな線を描いている。


「励みたまえよ、心配することなど何もないのだからね」


 そう言うと霧央は仕事へと出掛けていった。

 深緑色の車を見送り、紗代は「そういえば」とつぶやく。


「霧央様はどんなお仕事をされているのでしょう……。史子ちゃんは知っていますか?」

「はい。なんでも、陸軍には精霊つきの方々だけで組織された部隊があるのだとか。そちらの隊長さんをお勤めなのだと聞いております」

「まあ……」


 まだ二十代半ばだというのに隊長を務めているのは、霧央がよほどの実力者だからだろうか。

 それにしても自分は婚約者のことを何も知らない。

 これが仮初かりそめの関係だとしても、夫となる人の仕事をまったく知らないのは不自然だ。

 ちょっと俯きかけた紗代に、史子が笑いかける。


「せっかくですから、旦那様に直接お仕事のお話を伺ってみてはいかがでしょう」

「それは……ご迷惑ではないかしら」

「まさか!きっと快くお話しくださいますよ」


 霧央は優しい。だから仕事の話をねだればきっと応じてはくれるだろう。

 しかしただの居候が、本物の恋人のように私的な事情を探っても良いものだろうかとも思う。

 せめて何かお返しできれば、少しは霧央に近づくことも許されるかも。

 そんなことを考えながらお蚕の世話をする。

 桑の葉の食べ残しを取り除き、蚕たちの糞を掃除して……いつもと変わらない作業の繰り返し。

 しかし紗代は次第に没頭し、いつのまにか雑念は頭の中から消えていった。



 一方、屋敷には来客があった。

 客とは言っても、生垣から敷地内を窺う男が四人ばかり。

 誰も門を潜ろうともしなければ、声をあげることもしない。

 敷地の周辺を掃き清めていた史子はそっと後ろから声を掛けた。


「当家に如何様なご用向きでございますか」


 男たちはこちらをまったく意識していなかったのか、小さく飛び上がる。


「お、おう……。お嬢さん、ここの女中さんかね」

「左様でございますが」

「ふ、ふん。じゃあ丁度いい」


 男たちは咳払いをすると居丈高に言った。


「こちらに紗代お嬢様がお邪魔しているだろう。家に引き取るからお嬢様をお出ししてくれ」

「家に……お引き取りに?皆様は千早家の方でいらっしゃるのですか?」

「ああ、千早男爵家の使いだ」


 千早家のからの使い。そう聞いて史子の胸はざわりとした。

 紗代を満足に食べさせもせず、まともな衣類も与えなかった家。

 そこに仕える使用人。

 どうやら自分は、知らず知らずのうちに千早家に相当な嫌悪感を抱いていたようだと史子は悟る。


「奥様は当家にて婚約者としての務めに励んでおられます。それをお引き取りになりたいとはどういった了見でございましょう」

「それは……紗代様のお母様も妹の美弥子様も、挨拶なしに家を出たことをお怒りで……」

「紗代様に謝っていただきたい、ということでございますか?」

「そ、そうだ。紗代様は家族への礼を欠いたからな」


 礼を欠いた──その言葉を聞いて史子の眉が引きった。

 いけない、いけない。

 西旺寺のメイドはいつも笑顔でおらねばならぬのに。

 史子は無理やり口角を上げる。


「紗代様が千早家をお出になられたことについては、千早男爵閣下がご承知のはずです。いくらお母様でもこの決定に異を唱えることはできないかと」

「いや、女同士のことだ。話したいこともあるだろうし、ここは紗代様に一度お帰りになってもらって……」

「いいえ、なりません。皆様方こそお帰りくださいませ」


 まだ少女とも言える年頃の女中に、ここまで強硬な態度を取られるとは彼らは思ってもいなかった。

 さっきまで伯爵家の屋敷を前にしてオドオドしていたけれど、あまりに女中が生意気なので男たちには苛立いらだちが募り始める。


「お嬢ちゃん、俺たちが下手に出てやっている内に言うことを聞いた方が良いと思うが?」

「……まあ、もしかして脅していらっしゃる?」

「それはお嬢ちゃん次第だなぁ」


 男の一人が懐に手を差し入れ、史子はぎゅっと竹箒たけぼうきを握りしめた。

 男が取り出したのは使い込まれた短刀。

 しかしそれが鞘から抜かれることはなかった。

 その前に史子が竹箒の柄でこつんと弾き飛ばしてしまったからだ。

 それは空中で弧を描くと、からんからんと音を立てて地面に落ちる。

 史子はおかしそうに笑ってみせた。


「あのような玩具おもちゃで何をなさるおつもりで?」

「こんの……ッ!」


 挑発に乗った男が殴りかかる。大振りで無駄の多い動き。

 史子はひらりと攻撃を躱すと、箒の先で男のつま先を引っ掛けた。勢いのまま男は地面につんのめる。

 箒の柄を軽く振り、その背後でぽかんと口を空けている男の顎に一発。

 そして、遅ればせながら攻撃体制に入ろうとする者の鳩尾に一発。

 さらに、逃げようと身体を翻した男には膝の後ろに一発入れた。

 四人全員が地面に臥したところで、辰爺がのそりと姿を現す。


「んーん、見事だの。さすが西旺寺家の仕込みよ。儂ももう少し若けりゃあ習ってみたかったものだわい」

「えへへっ。辰爺もやられてみては?武芸を始めるのに早いも遅いもないですよ」

「馬鹿言うない」


 女学校への進学を断った史子だったが、彼女は代わりに西旺寺家での修行を望んだ。

 そこで学んだことは料理や掃除、美しい言葉遣いや立ち振る舞いなどが中心だったが、身を守る術なども含まれていた。

 暴漢に襲われても逃げられるように、相手の隙を作るための護身術だ。

 しかし史子はもとより体術の素質があったのか、するすると武芸を身につけて「貴女なら坊ちゃんを守れるメイドになる」とお墨付きまでもらってしまった。

 当の坊ちゃんには菊亮という精霊がついているから荒事なんて必要ないだろうとは思われたのだが、まさかお嫁さんを危険から守れることになれるとは。

 充足感から史子の顔には笑顔が広がる。


「ま、後のこたぁやっとくでな、奥様にお茶でもれて差し上げてくれや」


 辰爺は手早く男たちを縛り上げると、土間の方へと引きずっていった。

 彼らを紗代の目に入る場所に転がしておくのはよろしくない。

 使用人の仕事の多くは主人の目には入らないもの。

 それが見苦しいものであれば尚更だ。


「辰爺にも後でお茶を淹れますね。何が良いですか?」

「うーん、そうだの。濃いめの緑茶を頼むよ」


 二人はのんびりとそれぞれの仕事に戻ったのだった。

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