第12話 道雪公 諌争う事③ 道雪、猿を殺す(違

 今回は立花記の現代語訳を執筆しようと思ったきっかけ、宗麟と猿の話(悪口)です。

 大友興廃記にも宗麟と猿に関する話がありますが、こちらは豊後の男が猿に助けられたのに、その猿を狩ったという恩知らずな行為に宗麟が怒って処刑したという話です。

 このような宗麟にとって良い話は立花記は取り上げていません。

 すがすがしいまでの偏向報道だと言えるでしょう。


 では、本書だけの宗麟の逸話、ごらんください。

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「考えてみると、この本はここまで殆ど引用による話ばかりじゃのう」

 大友記や九州治乱記から使えそうなネタを探しながら安東は言った。

 編纂史とはいえ全てが引用で構成された話だと「じゃあ元ネタを読むわ」と言われるかもしれない。


 それでは面白くない。


 ならば本書にしかない話も入れてみようか。

 そんな余計な自己顕示欲があったのか、立花記にはオリジナルねつ造の話が有る。

 それは以下のとおりである。

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 宗麟がいまだ左衛門督にして府内の館に居た時、寵愛していた猿がいた。

 この猿は特に(気性が)荒く諸士が登城する毎に、衣服を破り喰い掴む。

 諸氏はこの猿に迷惑した。

 義鎮は(その様子が)興に入って笑っていた。


 道雪はそのころ丹後守と言っていた時で、この事を聞いて大いに愁い、鉄骨の扇子拵えさせた。

 そして登城すると、この猿は怒って鑑連に飛びかかった。

 鑑連は鉄扇をとり『丁(てい)』と(猿を)打つ。

 猿はたちまち死んだ。


 一座の人々の興は冷めて、あえてモノを言う者もない。

 鑑連は(顔)色も変えず義鎮に向かい

「この猿を(宗麟が)御寵愛の事は、かねてから承っていました。諸氏は皆 この猿に苦しめられて迷惑し、あえて騒ぐのを屋形は特に興に入っていたと取り沙汰され(てい)ます。

 古人の言にも『人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う』とあります。

 今 猿を弄んだために政刑を忘れ武事を捨てさせたまう(事)、これは物を弄んで志を失いたまう(元となります)。

 義者は遠ざかり軽薄な輩が近付けば、過ちを諌め 非を糺すことは無くなり、欲を導き悪を進めます。徳を失えば志を失い国が滅ばない事はないと聞きます。

 恐れながら無用の戯れを止めて長臣賢者と謀って政刑を明らかにし、武備をたくましくしてお家長久の素(=基)をなしたまえ」

 と言えば、さすがの無道の義鎮も当然の理に服し、赤面した。


 この他に直言の諌めは数度あったが義鎮は永くは用いず、ついに(大友家の)社稷を失った。


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「という話を考えてみたのじゃがいかがだろうか」

「それ、太田道灌と足利義教の話の模倣でございますよね」

 関東の名将、太田道灌には応仁の乱を引き起こした室町幕府8代将軍 足利義政と猿に関する逸話が有る。


★★★★★★★★★★★

 足利義政は勝っていた猿に来訪した家臣を襲わせ、家臣が驚く様を楽しんでいた。

 その頃、上洛していた太田道灌は将軍に呼ばれ、自分も猿に襲われると察し以下の策を廻らせた。


 猿の飼育をしている役人に金を渡してその猿を借り、謁見のための装束に着替えた状態で飛びかかってきた猿を鞭で打ち据え、怯えて飛びかからないように躾けた。

 そして猿を返し、翌日将軍との謁見に臨み、義政が猿を廊下につないで、道灌が慌てる様子を見ようと待ち構えていると、猿は道灌の姿を見れば怯えて飛びかからず、道灌はそのまま通り過ぎた。

 義政は猿が道灌の威厳に怯えたのだと思い、感心した。

★★★★★★★★★★★


 という話である。

 これは登場人物が伊達政宗と豊臣秀吉に置き換わっても伝わっている逸話である。

 これに一工夫をこらして書いたのが立花記の逸話である。

「まあ、府内の近くの高崎山という場所には猿の群生地が有るそうじゃし、こうした家臣を愚弄して道雪公に諌められるという話があっても疑われる事はないじゃろう」

 と、パクリ作家 安東は考えたのかもしれない。

 

 だが、彼らは知らない。

 先ず「宗麟がいまだ左衛門督だったころ」とあるが、✖宗麟は官位獲得のための無駄金を一切使わず守護職だけを求めた節約家だったため、幕府から「(九州探題で6国守護なのに)いつまでも無冠なのはおかしいので」と、左衛門督の位を授与されている(先哲叢書 大友宗麟、645~649号書状)。

 この官位は死ぬまで変更される事はなかった。

(天正8年(1580)9月13日近衛前久からの書状でも大友左衛門督入道名義(先哲叢書 大友宗麟、1788号書状))


 これは300年の歴史を誇る守護大名としては異例な事だった。


 さらに致命的なのは道雪が丹後守を名乗ったのは立花城代になった後の話で、、という事である。

 天正3年(1575) 5月10日にも戸次道雪・麟白軒として書状をやりとりしている。(先宗1627・30)

 道雪の立花城代就任は1570年頃で、丹後守と名乗るのはいつからかははっきりしないが、かなり後期であり、その頃には道雪は豊後に帰れる状態ではなかったし、1574~8年には宗麟は息子の大友義統に家督を譲る準備をし代替わりをしている。


 立花記の作者は豊後に居た頃の道雪のことをロクに知らなかったのかもしれない。


 これでよく家譜を書こうとしたものだと思うが、上司の命令や生活がかかると間はどこまでも残酷な指令もこなすし、恥知らずになれるのかもしれない。

 大げさではあるが、藩命のために元君主である宗麟をここまで貶めるのをみたらそうも思える。

 え?キリシタンになって大友家が滅茶苦茶になったせいで龍造寺や秋月が反乱を起こし、道雪は老齢に鞭打って1年近く出陣して病死するし、高橋紹運は岩屋城で玉砕。それに振り回された家臣の恨みを考えたら、悪く書かれても仕方が無い?




 …………それを言われたら反論の余地はないです。


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 うまくオチませんでしたが、今回の猿の話は『名将言行録』という本に太田道灌と足利義教や、豊臣秀吉と伊達政宗にも同様の話があり、猿が生息する地域だと決まってねつ造される話だと推測されます。

 立花記はそこまで注目される本では無かったのですが、平成に発行された武将言行録という本でこの話を採用した所、宗麟の悪行の一つとして有名になりました。

(ただしその本には出典を書いてなかったのでツイッターで情報を求め、教えて頂いた)


 なお先にあがった2つの宗麟の悪い逸話ですが、踊り子は大友記、因果居士に如露法師は大友興廃記の話の書き写しで、本書のオリジナル要素は今回の猿の話だけですが、余計な事を書いたせいで調査不足がばれてしまうあたり『蛇足』という言葉のお手本にしたくなる話です。


 逆に、踊り子の話では大友記だと時期を明記したために誤りだと断定できたのが立花記では話の詳細に心血を注いで余計な情報は載せなかったため立花記単独では嘘か本当か判定し辛いので、嘘を書く際には必要な情報だけを書くのが大事だなと思いました。

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