第19話  吉岡宗観 大内輝弘を出兵させるP80

「さて、後は秋穂浦合戦を書けば毛利との戦いは終わりじゃの」

 1569年に立花を攻めた毛利軍。ここで大友家の家老、吉岡長増は豊後に亡命していた大内家の遺族、毛利輝元を山口に派遣し敵の退路で反乱を起こさせる策に出る。

 これにより九州の毛利勢は撤退し、筑前に攻めてくる事はなくなった記念すべき戦いである。それゆえ大友記でも九州治乱記でも書かれており、引用先には事欠かない。しかし


「ここで一つ、兵の補給について書いてみては如何でしょう?」

 と珍しく山崎が提案する。

 確かに退路を断たれるのは恐怖だろう。だが、その程度で毛利が逃げたとは思えない。そこで説得力を増すために次の話をねつぞ…書きくわえてはどうかと言うのだ。

 曰く


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(大友家に負けて)その後は(毛利は)城から出ず、豊州勢もかからず、互いに対陣して暮らした。

 元就は2万騎で小倉に在陣すれば豊州方より田北大和守・戸次山城守・木付上総介・奈田(奈多)・古庄・その他豊州勢8千人が高和にいて対陣した。豊筑肥の6州はこの長陣に苦しんだ。


 吉岡三河守宗観は大友の執事として高良山に居たが宗麟の前に出て(言うには)

「我勢(の報告)を以て敵を察するに、士卒の兵糧 万事の仕度は本国からたくさん運んでいるようです。夏に攻めてきた兵ならば、寒い時期になり冬の衣服を(故郷から)送る時分です。この時に当たって周防長門の沖に(我が軍の)監船を出し敵の運船を奪えば毛利勢は大いに難儀するでしょう。その上(当家で保護している)大内四郎左衛門輝弘は故 大内義隆の従弟なので、中国の貴族にして、彼の国の案内を知りたる人なので、彼の国にも州人に志を通じる国士も多いと思われます。

 芸防長の3州の勢は大半が小倉や立花に在陣しているので、この時を窺って輝弘を中国で働かせれば毛利勢は引き取るより他はないでしょう。その機に乗じて我勢が討てば大利を得られるでしょう」

 と言えば宗麟を始め、皆がもっともだと同意した。


 輝弘を急に大将にして士卒10余人、軽卒100人、雑人などまで1千人の勢を付けて、先ず(高良山から)豊府へ帰し、その後 海賊たちを召し集め兵船100艘に乗って(豊後の

 木付浦より押し出し周防長門の沖に向かった。

 案の如く小倉立花に在陣する毛利勢の兵糧米を乗せた船が毎日5艘来ていたのを、かの監船を漕ぎかけて梢士・枕士(=水主や舵取り?)を切り殺し、船と荷を奪い取った。これより海路は塞がって運送は出来なくなった。

 太郎左衛門輝弘は周防の国に押し渡り、津々浦々の在家に放火して山口の古城に入って陣営すれば、両国に残った国士は旧交遺恩を慕って大半が輝弘に従った。

 そこへ雲州の故尼子清久(=勝久)の家臣 山中鹿ノ助と言う者が尼子の氏族勝久(=晴久)を取り立て、大将として出雲国へ討って出た。これより山陽山陰両道へ上へ下へと返した。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 まるで見て来たかのように記述する山崎。

 軍需物資を止めたという話は、冬場と言う季節から細かい内容を考えたのかもしれない。

 だが、大友家が実際に攻撃したのは長門では無く秋穂浦という土地である。

 大内輝弘と若林水軍はここを攻撃して、山口で大内が蜂起し、退路がなくなりそうだったので九州の毛利軍は退却している。(先宗4巻1209号)

 また大内四郎左衛門輝弘は大内義隆の従弟だが、天文の頃に義隆に廃されたわけではなく、父である大内高弘が1500年に義隆の父と家督を争って敗北し豊後に亡命した後に、豊後で生まれた子供である。(大内家実録の系図より)

 なので山口を訪れた事は一度もないだろうし、家臣も大内家再興のために集まったものだろう。

 変に推測でリアルさを求めると、このような勘違いを生む事が有るのかもしれない。知らんけど。

 そして毛利は九州から敗走する。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 毛利敗北の事 1569年11月(実際は10月)17日 P83


 小倉立花両所に急を告げる事、櫛の歯を引くがごとし。

 元就はこれに驚いて立花に人を遣わし「急ぎ旗を振って小倉まで引き取るべし」と言い送れば11月17日に元春と隆景はしんがりとして諸勢を先立て(城から出し)小倉を指して引き取った。大友方はこれを見て

「中国勢が退いたので余すな、漏らすな、討ち取れ」

 と言って諸陣一同に貝を吹き、太鼓を鳴らして鬨を挙げ追いかけた。

 折しも朝より、天は曇り風烈しく、雹混じりの雨が降り、士卒はことごとく凍えた。

 毛利勢は退き、大友は追いかける。

 大勢が退いた時の癖ならば大崩れになって父は子を捨て従者は主を知らず。

 甲冑兵器を捨てて我先に逃げた。

 さしもの吉川・小早川(の軍も)1度も戦わず、義を重んじ名を惜しむ勇士は踏みとどまり

「それがしは返すぞ!」と叫んだが、人は騒いで下知をも聞かず、あわてふためいて逃げると大友方に押し隔てられ、射伏せられ切り伏せられ、17日より18日まで両日の中に立花より小倉の津まで毛利の旗下は大勢討たれ、死人は塊のように横たわっていた。

 大友家に討ち取られた首数は3491級。名嶋の浜におびただしい数がかけられた。


 道雪は逃げる敵には目もかけず、敵が引き下がるやいなや隙なく立花の城下に、1旗を立てて勢を備え

「味方が乱れた時に、(立花)城から浦・桂が突いて出たら討ち捕えよう。さしも名を得た吉川、小早川が大返しで(反撃してきたら)横やりを入れよう」

 と待って居た。天晴 無双の老将と誉めぬ者は無かった。

 浦兵部と桂能登は1千騎で立花城にいたが豊府の諸将に使いを出して

「検使を給われば切腹を仕らん」

 と言い送った。諸将がそのことを宗麟に訴えれば、宗麟より田北鶴原掃部に命じて桂・浦をはじめ1千騎の士卒をことごとく舟津まで送(り逃がしてや)った。

 その他に豊筑肥で毛利に従った者たちは中国に渡る者もいた。また降参して大友に降る族も多かった。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 勝ちに浮かれても負けた場合も考える。指揮官には必要な判断である。

 九州治乱記の『毛利敗北の事』では、開城した城を占領するように指示した話となっており、城に少数の兵が取り残された状態だったと書く立花記の方が豊後勢の油断や危うさが分かり易く感じられる。

 この撤退戦は文献が見当たらないので詳しくは分からないが、北九州戦国史P203では10月17日に麻生家臣の小田村備前守に『立花撤退に当たっての心入れ申す言葉もない』と感状を送っているので毛利の撤退は10月であり11月とする本書は間違っている事だけは分かる。

 九州治乱記では10月としているのに、立花記では何故11月に変更されたのか不思議だが、『雹がふるなら十月ではなく十一月だろう』と推測したのかもしれない。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(毛利が撤退した後)高橋三河守は命を助けるだけでなく、豊前小倉に(領地を)移し、規矩(郡)一郎(=一党?)を与えた。

 鑑種は剃髪して宗仙入道と名乗った。

 宗仙は昔の威勢に変わってかすかなる体(=収入が少ない状態)になったので旧交積勲の家臣も扶持すべき方便であれば、先っ幸奴(まっさきに?)寵臣ばかりに(領)地を与えて一族世臣には何の沙汰もなければ、北原入道鎮休を始めとして、屋山・伊藤・福田・花田・今村たちも皆 宗仙の手を離れ、別に取り立てようと高橋家再興の望みを宗麟へ嘆き訴えた。

 宗麟も「その通りだ」と思い一族の吉弘左近大夫鑑理の次男 弥七郎を宗仙の養子として岩屋・宝満を与え、高橋主膳兵衛尉鎮種と名乗った。

(鎮種は)後に忠戦勇略かくれなき高橋入道紹運という無双の名将となった。


 ◇立花家復興(1571年5月?) P86


 さても(その頃)宗麟は毛利という大敵を退け九国の将を攻め従え、高良山を引き払い豊府に帰陣すれば、心にかかる事もなく(なり)放縦傲慢はなはだしく(なって)、国家の安危を忘れてしまった。

(宗麟は)道雪の直諫を嫌って、「何とか遠ざけたいと思う」と一族の長者といい、数十度の軍功累積し諸人の覚えが他に実(=異?)なれば、今までいたが、道雪に対面し

「立花家は左近将監貞載の後胤として大友家の嫡流である。鑑載の不義があったため自滅したが宗麟の代に至りて立花家の名が断絶することは先祖の恐れに遭う。足下は一族の長者といい大友・立花・戸次は皆 能直の後胤なので(道雪は)親善の養子となって立花の家を継ぎ、筑前に在国して毛利の来冦をおさえ、肥筑4州を平治したまえ」

 とあれば道雪は辞するに及ばず。

 藤北の城を猶子(戸次)伯耆守鎮連に譲り、元亀1年の春に筑前糟屋郡立花山に在城して、立花道雪と名乗った。

 国中の農工商にいたるまで喜ばない者はいなかった。

 ☆立花左近将監親善は(父の)鑑載切腹の後は国中に安堵なり難く、山林に身をさらしていたが道雪を養子として大友家の免を被り高祖 能直(が)頼朝卿より賜った旗と、世祖 貞載が尊氏卿より賜った吉光の短刀と結城判官親光の首を据えた血染めの扇子とその他 累世伝来の重器を道雪に譲与して父子の約をした。

 これより天正6年に至るまで9年の間、筑前守護職を司り在国の詰城主、給人等寺社民に至るまで命令をした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これで戸次は立花城主となり、藩祖である立花家が誕生したのである。


 だが、これからが彼の苦難の始まりであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戸次道雪物語(柳川藩編纂の立花記より) 黒井丸@旧穀潰 @kuroimaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ