第18話 道雪家臣団登場

「ここからは、毛利方の話とかを写すかのう」

と言ったかどうかは分からないが、7月より九州の軍記では見られない話が続く。

おそらく毛利の軍記が出典と思われるが同一の物を見つけられなかったのでそのまま掲載する。


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 7月1日に毛利方より桂能登・浦兵部8千騎で多々良浜(博多の北。立花山の南)に出張した。

 大友よりは清田鑑忠(=鎮忠)・一万田鎮実・朽網鑑安5千騎で押し出し、互いに軽卒を出し鳥銃競り合わせた所に毛利勢の中より歩卒7百人、槍ふすまを作り「えいえい」(と)声を出して突いてかかる。

 浦・桂は真っ先に切ってかかれば大友方は偽敗して引き退き、毛利勢は勝ちに乗じて備を乱して追いかける。

 秋月種実は1千人を野草の中に埋伏していたが「時分良し」とて、どっと起こり、横槍に突いてかかれば陣を乱して毛利家の勢はたちまち崩され右往左往に敗北した。

 これをみて朽網・清田・一万田はとって返し追いかけて戦い、良い敵を数多討ち取り、元の陣へと帰った。


 その後、吉川・小早川は評議して野陣をやめ大友勢を押さえて立花城を陥落させようと毎日城を攻めた。

 寄せ手は巧みを変えて攻めれば、城中は術を変えて防いだ。

 しかし芸石防州は含み多い国なので追っ手の櫓をほり崩し、水の手をも掘りきった。

 城中は(水がなくて)渇し「力を合わせて打って出て戦死しよう」と評議した。

 鶴原掃部が押し止め

「(大友)屋形に言上して(から)戦死するべし」

 と言って家臣の吉田弥六兵衛に自字の書を持たせて高良山へ遣わした。

 もとより無双の☆志のび(=忍び)達者なので敵中を事故なく通り高良山へ至り浦上左京に書を渡した。

 立花城が難儀していると聞いて浦上左京は急いで宗麟に言上した。

 宗麟はこれを聞いて弥六兵衛を近くに呼んで言うには

「田北・鶴原を始めとして城中の士卒は多目の守城(であり)粉骨の至りである。水の手を切られてはあの城は守りがたい。命を全うしてひとまず敵方に降参し後日忠勤に励むべし。汝は数万の囲みを出て、ここまで来た事神妙である。恩賞があるべし。急ぎ帰り、この趣を言い聞かせよ」

 と言えば弥六兵衛は馳せ帰り宗麟の返事を伝えれば城代を始めとして士卒は「もっともである」と吉川隆元(=元春か隆景の誤り)へ降参する事を言い遣わした。隆元は桂能登・浦兵部に命じて城代を始め士卒を皆豊前勢の陣営に送り立花城には両川の大将が入れ替わった。


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「立花山城は水手を切られて負けたのですか」

「さあ?」

 古来より城攻めで敗北すると言えば水攻めが基本である。なので、もっともらしく書いてみたが、特に証拠が有るわけでもない。


そりゃ、あんまりだと山崎は証拠(軍記物)がついた話を取り入れようと九州治乱記を取り出した。


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かかる所に宝満山の艮(城良の坂?)の塀を乗り越えて一人、坂より下に逃げ降りた。

 城中より「それ!逃がすな!」と(言っ)て(高橋の兵)10人が男を追いかけ、2太刀3太刀切りったが、(男は)切られながら堀切に飛び落ちた。

 追っ手は城中に引き返した。

 豊州勢は「これはどうしたことか」と見ると、(切られた)者は柵の際に来て「助けたまえ」と言い

「我は何某という者の中間だったが、何故か分からないが、主人の家に高橋殿より大勢を差し向けられ、主人を始め我らごときの中間下郎に至るまでことごとくなで切りにされたので、このようになった(=塀を飛び越え坂を下り逃げてきた)。」

 と言えば聞く者は皆疑わず「不便だろう」と(大友は)帷子を与え(男を)営中に置いた。

 この男は両日を過ぎて夜になって立花山へ至り、髪の中に籠めた鑑種の書を取り出し(毛利の)両大将に渡した。

 書状には「大友勢は筑前国中に満ちているといえども、博多の敵を一度戦い、敵を追い崩せれば敵は滅んで敗北するでしょう。鑑種も太宰府にて手合わせします。

 もしも青柳まで毛利の御旗の先を見せられれば太宰府の敵を追い崩す案があります」

 と書いていた。

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 九州治乱記の『高橋鑑種は立花から飛脚を使わす』と同じ話である。

 人のいい大友軍が、善意を悪用した敵の計略に騙されて伝令を通してしまったお話だが、こんな話は書状に乗るわけも無く事実かは確認しようがない。

「よし」

 何が良いのか?

 と安東は思ったが共犯者なので口には出さなかった。


というのも、立花の歴史はこれからが本番だからである。


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 両大将は喜び、7月23日より毎日、毛利軍は博多の松原に陣を立てて軽卒を出し、豊後勢と競り合った。

 その度ごとに毛利勢は勝ちに乗らずということなし。

 陸奥守元就は豊前小倉に2万騎を従え本陣としていたが26日に立花山に人を立て

「その地の競り合いに我勢が勝利ある事、先ず以て吉兆である。しかしながら敵は地戦なので諸事自由であり、我勢は客戦なので何事も心のままにならない。

 案内も知らない客地で深追いして敵の方便に乗れば一人も生きて帰れないだろう。

 立花は堅城なので堅く城を守るように。軍を率いて(立花山から)出さないように」と言い送った。


 隆景は(命令を)もっともだと思ったが、元春はこれを受けず同20日(30日か?)に4万騎の勢を15段に備えた。


 大友方は道雪・鑑速・鑑理らが各5千の兵、都合1万5千騎を3隊に分け備えた。

 両志賀・田原・清田。木付一万田・朽網・利光・古庄・その他・豊筑肥の城主郡主24頭。その勢合わせて2万騎。

 脇備えとして各々一手切にかかって手柄次第(の勝負)と定め、九州と中国の分け目の戦いならば死後に名誉を顕せと互いに戒めて、既に足軽をせり合わせた。

 双方10万人の人馬が騒動し、主が討たれても従者は顧みず、父が討たれても子は助けず、その死骸を乗り越えて互いに敵に切ってかかる。


 大友方で勝ちに乗る者もあり、毛利方より追い崩す所もあり、勝敗はとりどりとなっている所に夕陽になり道雪は我兵を引き選り、自ら真っ先に掛って戦うと、敵人より隼雄の若武者が一人進み出て「戸次も鬼神ではないだろう。いざ勝負を決せん」と隙間なく切ってかかる。戸次はきっと見て物々しく「受けてみよ」と馬を馳せ鎧も頼らず一文字に(若武者を)切って落とす。

 これをはじめ数人を切り伏せて猶進んで戦った。


 小野和泉・由布美作・由布相模・十時摂津・十時新左衛門・十時但馬・原尻左馬介・原尻市正・吉田右京・池辺龍右衛門・森下中務などという万夫不当の勇士ども5千人を引き連れて前後左右も顧みず真一文字に長尾を指して切りかかれば、さしもの毛利家の本陣もたちまちに切り崩され立花指して退いた。


 中国勢は旗色が悪く見えたので吉弘・臼杵を先として九州勢はどっとわめいて切ってかかれば毛利方はたちまち敗軍となり、立花山に引き揚げた。


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 立花家の勇猛な家臣がそろい踏みである。

 内容自体は九州治乱記や大友記の『多々良浜合戦の事』と同じだが、そこに立花家の家臣団を掲載する事で藩史らしさを出してみた。

 これには子孫も満足だろう。


 そのためか大友記では、敵の防御の弱い川の上流を突いて退路を断つような構えを見せる事で毛利軍を浮足立たせる道雪の智謀を書いているが、本書では無視して正々堂々、真っ向勝負で勝ったように書いている。

 これは好き好きだろうが、筆者としては戦上手な要素を抜いてしまったダメ改変だと思うのだが、これでは家臣の活躍が際立たないので没にしたのかもしれない。


 なお九州治乱記では『鑑連の配下は十時下野守、十時喜兵衛、由布掃部助、小野三九郎をはじめ名字の侍30余人が討死にした。』と戦死者を書いているが、本作では無視されたようである。

 

 

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