第17話 毛利大友挑戦 併 道雪公強戦の事①
「さて、筑後のこまごました戦いも終わったし、ついに毛利元就公との対決じゃの」
1569年に大友家は立花山を占領した毛利家と戦って勝利し、道雪は立花山城城代となる。
いわば、ここが立花家始まりの話であり、今までのは前置きに過ぎなかったのである。
さっそく九州治乱記の『元就と隆元、再び九州へ発向の事』というページを開き、内容を書き写す安東。
そこで、手を止めた。
「おや?毛利隆元公(元就の長男)はこの頃御存命じゃったかのう?」
三矢の教えで有名な毛利隆元、吉川、小早川3兄弟だが、実は長男の隆元は1563年には死亡しており1571年に死んだ毛利元就よりも早死にしている。
だから、当然1569年の戦いにも参加できないのだが、九州治乱記では何故か彼が大将として参加しているのである。しかし
「たかもと?はて、いつお亡くなりになりましたかな」
両川と呼ばれた弟2人に比べて隆元さんは知名度が低かった。
「よく分からんから、とりあえず名前は出さずに書いておくか」
と言った安東だが、その事を忘れたのか後半になってしれっと名前が登場する。
そんな、間違えを訂正したかと思ったら出来てなかった本編を見てみよう。
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隆信と種実が降参し、九国二島はもとの如くに大友の掌中に入った。
今、毛利家と誓約している城は高橋三河守鑑種が宝満の城に居て籠城し、餓死に寄っているという。元就は之を聞いて『隆信と種実の城に後攻めするのが遅かった故に2人は降参した。このたび高橋を救わなければ末代までの恥辱である』と思ったのだろう。
九州発向は間近となった。
幕下の諸国へ触れまわれと命じ、その軍勢都合8万5千騎。安芸、周防、長門より各船揃って豊前の柳浦、小倉の津に至るとひとしく門司城に抑えを置き
吉川・小早川を両大将にして6万2千騎で筑前国を攻めた。
豊筑には大友の幕下の城、その他豊府より2州に在陣した諸将も(いたが)、皆(毛利の)大勢に恐れをなし、出て遮る者もなし。多くは城を捨て筑後へ走った。
これにより豊筑への道も開け、元春と隆景猶予なく筑前に入って立花の邑城を葦の如く囲んでひともみに破ろうと攻めた。
(城を守る)志賀・田北・鶴原は勇将だったので、少しも恐れず役所を廻り、攻め口に下り、隙なく命じて防いだ。寄せ手は巧みを変えて攻めれば城も術を変えて防いだ。
宗麟は大いに驚いて6国の勢を催し豊後へ発した。
筑後国へ越えて高良山を本陣とし、筑前在陣の兵糧陣具を運送して先鋒に力を添えた。
永禄11年(1568)5月18日筑後国へ越えて高良山を本陣とし、筑前在陣の兵糧陣具を運送して先鋒に力を添えた。
毛利方より石州の住人、吉見某・雲州の住人 尼子を両大将にし1万騎にて長尾へ出張した。(✖尼子は毛利の敵です)
大友の先鋒は戸次道雪7千騎を2隊に分けて陣を為す。
後軍は臼杵鑑早と田原親弘(=親宏)が1隊になり前後を鋒矢に備えた。吉見と尼子はこれを見て静かに備をもがり落としに取り直し、鉄砲を撃ちかけた。
鑑速と親宏も鳥銃を撃たせ合い鑑速は槍を入れれば吉見の陣は少し左へ雪崩ようとした。
これをみて道雪が命じると兵は槍ふすまを作り突いてかかった。
左右よりは強弓の善射どもが散々に射れば吉見は堪えずに2町ばかり退き、尼子の勢と一行になって再び道雪に討ってかかる。
道雪は真っ先に進み大音上で「敵の旗の手が乱れた!押して懸かれ!」と命じれば、いつも変わらぬ十時・安東・由布・高野・小野・池辺・吉田・原尻などという大剛の兵たちが切って入る。
鑑速・親宏も一同に切ってかかれば、さしもの吉見・尼子もたちまち切り崩され、逃げ走る。
豊後勢3将は隙間なく追いかけてよい武者を30騎、雑人180人討ち取りかちどきをあげ、静かに勢を入れれば道雪の手(の者)にも十時摂津・十時善兵衛・由布掃部を先として20人が討たれた。
その後、両軍は互いに戦わなかった。
◇(5月)23日 毛利軍本隊出陣 P71
23日に毛利方より備後・備中両国の勢が神隅某を大将として出張した。
大友方には志賀親教・志賀鑑綱・田原親堅(=親賢?)が6千騎を3隊に分け、川に添って左右に分かれ左は長蛇に備え右は蛇曲に備えた。
毛利の先鋒 (芥田)悪六兵衛は勇気に耽り力を頼んで前後左右を顧みず、一文字に突いてかかる。
豊後の3将は敵を中に取り籠めて左右より突き立てれば芥田の勢はかなわずに退き、後軍の勢に走りかかった。
3将は隙間無く追い立てれば、神隅は大音上で「きたなし!かえせ!敵は小勢ぞ!中に取り籠め討ち取れ!」と下知したが大勢が動いているので制しきれずたちまち敗軍となった。
豊府の3将は(敵を)追いつめて、良い敵をあまた討ち取り勝ちどきをあげて本陣に帰った。
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「ちょっと待たれよ安東殿」
「どうされた?山崎殿」
「この芥田悪六兵衛は毛利ではなく秋月の家臣ではなかったか?」
彼は秋月家臣であり、大友家に秋月が降伏した今、戦いに参加できるわけがない。(秋月氏ゆかりの岩石城美術館には彼が使用したと言われる『切付小札緋威二枚胴具足』が展示されている)
「そうじゃったかな?」
だが、隆元さんと同じくらい知名度が低かったためか、特に訂正される事も無く芥田は何故か毛利の下で活躍した事になっている。
「ま、後で調べて違っていたら訂正しよう。それより小さな戦いを書かなくては」
そう言って安東は執筆をつづけた。
もしも誤りを見つけたら後でではなくすぐしないと放置されるよい例である。
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6月6日に芸州の住人 南条小鴨を大将にして15千騎、早良郡打ち出した。
大友軍はこれを見て筑前(=豊前)国の住人 城井 長野 千手など1万騎を4隊に分けて雁行に構えて掛り、鳥銃を放って槍を合わせ戦った。
小鴨南条は士卒に先だって自ら手を砕いて乗り廻り下知して戦えば九州勢は打ち負けて引き返した。小鴨南条は6丁(=町?)ほど追いうちして勢を収めて帰った。
6月11日に毛利方より吉見・尼子・熊谷・杉など2万騎の軍勢を7段に立てて糟屋郡に出張した。
大友方より両志賀・田北・朽網など(に)肥後筑後の勢を合わせて1万3千騎を5段に分けて出て、始めは軽卒が競り合って後は一勢一勢討って出て火花を散らして戦った。
夕方になって大友方が打ち負け引き入れた。
◇6月22日 鳥飼村の戦い P73
22日の早天に毛利勢1万ばかり鳥飼村に打ち出て勢を4隊に備え、軽卒雑人で青亘を揃えようとしたのを、道雪は我兵2千騎で出向いて切りかかかった。
一番に竹廻進士兵衛は槍を合わした。
続いて十時伝右衛門、森下中務が突きかかる。
道雪に続いて2千人の兵が槍ふすまを作り隙間無く討ちかかれば毛利勢はこらえず敗走した。
2千人の者たちは10町ほど追いかけて良い敵を数多討ち取った。
同日の事だが毛利勢は7・8千ばかり那珂郡に打ち出てここかしこに放火しようとした。
大友方より星野・草野・問注所その他2筑の武士7千が出迎えて戦い大友方は負けて引き返した。
◇6月28日 毛利軍 宗像へ上陸 P74
28日に毛利方より軽卒300人、宗像の郡に打ち出て鉄砲を備え雑人に馬草を刈らせた所に大友方より岐部・坂本が出て毛利勢を追い払おうとした。
そこに毛利より笠井・芥川が大勢かけだして戦になったが、大友方は討ち負けて引き返した。
◇7月1日 多々良浜へ P74
7月1日に毛利方より桂能登・浦兵部8千騎で多々良浜に出張した。
大友よりは清田鑑忠(=鎮忠)・一万田鎮実・朽網鑑安5千騎で押し出し、互いに軽卒を出し鳥銃競り合わせた所に毛利勢の中より歩卒7百人、槍ふすまを作り「えいえい」(と)声を出して突いてかかる。
浦・桂は真っ先に切ってかかれば大友方は偽敗して引き退き、毛利勢は勝ちに乗じて備を乱して追いかける。
秋月種実は1千人を野草の中に埋伏していたが「時分良し」とて、どっと起こり、横槍に突いてかかれば陣を乱して毛利家の勢はたちまち崩され右往左往に敗北した。
これをみて朽網・清田・一万田はとって返し追いかけて戦い、良い敵を数多討ち取り、元の陣へと帰った。
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「さて、これで毛利は立花山に入ったし、ついに道雪公一世一代の大活躍。多々良浜合戦の話じゃ」
そう言って安東は小休止を取って書を進めた。
なお、6月以降の記録は立花記のオリジナルだが、一次史料では確認が取れなかった。
本当にあったのか創作なのか、わからないのだが余計な事を書いていないので確認のしようがない。
そんな記述の上に立花家の祖行は書かれるのであった。
まあ、昭和時代の町史や市史も引用史料をろくに検証してないいい加減なものが多いので、役所の作る史書というのはある時期までその程度の内容でも許されたのかもしれない。
後半に続く。
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