第5話 鑑連公 初陣の事(大永6年(1526))9P

「どうしてこうなった」


 急に藩祖の事跡を纏めるように言われた2人は頭を抱えていた。

 名将 戸次道雪。

 その名前は柳川藩で知らないものはいないだろう。


 だが


「残された書状がっ!残された書状が少なすぎるっっっっ!!!」


 活躍の割には家に残された書状は殆ど無く、当時は生年もあやふや。

 系図も本家の戸次氏が燃やしたためほとんどわかっていない。


 これで一体何を書けばよいというのか?


「とりあえず、幼少時の事など皆適当にかいておるでしょうから、分かっている事から書いていきますか」

 腹をくくったように山崎が言う。

 分からないなら、どこまで分かっているのかをまずは確認すべき。

 

 あとは、空いた期間に適当なエピソードを他の書籍からパク…インスパイアしてみたり良い話を転用すればよいのである。毛利元就とか伊達政宗みたいに。


「いや、それは最終手段であろう」

 冷静に安東がツッコミを入れる。


 一応、史料と言うべきものが無いわけでもない。

 まずは家系図。立花家が藩として成立してから書かれた者だが、道雪以前のものは殆ど記述が無く、しかも辻褄合わせのため誤りも多い代物だ。

 もう一つは立花家に仕えた浅川伝右衛門が60歳ころに文字を覚えて、手習いのつもりで見聞きしたことを書いた「浅川聞書(別名、立花遺香)」という本が有る。

 ただ、見た分も聞いた分も少し疑わしい点が有り、実際の書状があるならそちらを使いたいというのが正直なところである。


「ええい、背に腹は代えられん。とりあえず道雪公の一番幼い頃の話を書くぞ!山崎殿。最初の記録はいつごろだ!」

 そう言って安東は立花家の系図などを見返している山崎に尋ねた。


「ええと、この系図によると初陣の話からですな」

「え?そこまで飛ぶの?」


 仮にも藩祖なのだから、幼少時の記録とか残っていないのかよと思ったが、ないなら仕方ない。


「よし、ではここで一度章を区切り、『鑑連公 初陣の事』として書き始めよう」

 こうして、安東は筆を取った。


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 鑑連公 初陣の事


 大永6年(1526)の春に豊前国の城主どもは大内氏にかたらわれ(=説得され)佐野、間田を先として5千騎が馬ヶ嶽に籠もれば、宇佐(神宮)の神主より急ぎ告げられた。

 大友修理大夫義鑑は大いに怒り「急ぎ征伐あるべし」と(道雪の父)戸次常陸介親家に命じた。

 親家は折節病脳なれば嫡子の孫治郎鑑連(=後の道雪)、生年14才が自ら征伐しようと家の兵を(選り)すぐって、2千騎が時日を移さず発向し、馬ヶ嶽に押し寄せた。


 城中は、敵が(こんなに速く)寄せつくとは思いも寄らず所々に散って兵糧を運送していた処、鑑連は隙間もなく攻め登れば城中は大いに俊動して上へ下へと騒動した。

 防御の具(=備え)がおろそかだったので(城兵は)前後に迷っていた処を鑑連は先に進み「隙間なく切り登れ!者ども!」と太刀を振って切りかかった。

 2千人の兵は谷々より攻め登れば2・3の丸は攻め破られ、詰めの丸に(城兵は)籠もった。

(戸次の兵たちが攻め)かかれば城の大将 間田豊前守重安と佐野弾正親基はさまざまに嘆き豊府に(降伏を)注進し、(豊後衆は間田と佐野の)2人の大将とその他の国士の実子を人質にとって囲みを解いて帰陣した。


 この事は隣国他国に伝わり、幼稚の身で初の合戦にもの速き有様、始終の知謀無双なり。数度の戦場錬熟した良将老士といえどもこれほどではないだろう。行く末はいかなる人になるだろう。と恐れぬ者はいなかった。


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「これが道雪公の初の合戦記録らしい」

「14で大将を務めるとは流石じゃのう」

 系図を見ながら感心する2人。


 それだけ有名な話なら感状や記録の一つでも残しておいてほしかった。と思いながら。


 これだけの戦果を出しながら裏付け書状が無いのである。

 特に1529年頃から大友家と大内は険悪となり合戦を初めている書状が大友家にはあるのだが、1526年頃に豊前の領主が反乱を起こしたと言う書状が見当たらず、これらの事は嘘とも本当とも言えない。

 豊前では領主が黒田家に反乱を起こし、殆どの家が滅びたり逃亡したからである。

「まあ、証拠が無いと言う事は否定も出来ぬと言うこと。それ故に続きを書いていこう」

 学者として大事な何かを失いながらも2人は系図を見る。


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 同年6月に(道雪は)元服して伯耆守と称した。

 人を従えて才知も人に秀で勇猛さは特に甚だしく、下を憐れみ、士をなつけ、諸人に情け深ければ、その頃の人の沙汰にも

「元弘・建武以来、天下は大いに乱れて足利家の武徳によって一統の世となるといっても、いかなる時の運であろうか?

 200年のその間、世上はさらに穏やかならず。

 天運は循環して行きて帰るものならば、この鑑連の出生は世の盛運となるべき吉兆であろう」

 と豊後の茶話にも言われた。

 その後、豊前・筑後の諸城主どもは大友に度々背いたが鑑連は毎度馳せ向かい、ことごとく攻め従えた。


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「うそくさい!!!」

 自家の当主を称える系図の記録ながら、若いころ、それも実際の感状も無い時点でそこまで称えられる訳がないのだが、系図にそう書かれているのだから仕方が無い。

 それでも話を盛ってるだろと思わずにはいられない。


「まあまあ、落ち着け安東殿。そんな事では身が持たぬぞ」

 と山崎が言う。

 その手には先ほど話題になった浅川聞書の「車返の陣」という文字が書かれていた。

 嫌な予感がしながら安東はその部分を読んでみた。


 そこにはこう書かれていた。

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(以下、立花遺香より現代語訳する)


 道雪様は、(1534年頃?)肥後車返に御陣をとっていた時、所は難所、敵は三方より取囲むに依り、軍勢を引取られる事ができずにいた。

 合志〈三池先祖〉某が3千の勢で御味方に参られたので、道雪様より海老名肥前を御使に遣され

「合志方へ御加勢として御出陣、御大慶なされ候、屋形様へ具に仰上げらるべく候、併し御防戦御手に及ばせられず候はゞ、御加勢あるべく候、先づ夫へ御控へ候て、御見物あるべき由仰遣され、御馬より御下りなされ」


 と加勢を断り見物するように言った。

 というのも

「阿蘇山〈肥後国〉へ御向ひなさる諸人承り候様に、戸次伯耆守鑑連は

「(自分は)14歳にて初陣より今日まで、度々の合戦に一度も他家の扶助に預からず、終に後れを取らなかった。若し今日の合戦に勝利なくば、たとえ他家の合力にて、戦死を遁れ候とも、生きたる甲斐あるまじ、唯だ願わくば、阿蘇大明神熟覧之あり、速に勝利を得さしめ給へ、申す所、少しも不義の心あらば、立所に利を失ふべし」

 と、御観念あつて、御拝なされ、御馬に召さると其儘、白生の鷹〈白彪の鷹か〉が一つ飛び来りて、御幟のせみに止り、足を振った。

 之を見て諸人一同に涙を流し

「御利運疑なし」

 と、勇みかかった。

 其時迄は向風だったのが、俄に追風になり、御旗色悉く直り候を見て、敵方より人数を引払ひ候故、何たる事も御座なく候。


 是は小野和泉が御供仕り、共に見届け申したる事なので、不思議なる事の由、度々咄し申したるという。

 その後、道雪様御一代、終に鷹を御使いなされず、宗茂様も右の御沙汰聞召し及ばれ、御鷹は召置かれ候へども、終に御鷹御すゑなされず候なり、


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「…つまり、阿蘇山に祈ったら御使いの鷹が現れて、風向きが変わり、戦いに勝てた。不思議な話だが小野和泉と言う家臣が見聞きしたものである。と」


「そんなこと、あるわけねえだろ」


 神様に祈って合戦に勝てるなら今頃神社の神主か比叡山辺りが天下を取ってないとおかしいはずである。

 武士用にカスタマイズされてはいるものの儒学を学び他にも色々な学問を収めた安東には、この話はお気に召さなかった。


 そのため、立花記では神変話はカットされ以下のような筋書きになっている。


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 また天文4年(1535年)末の秋に肥後国菊池の一族どもが大友に背けば鑑連は家兵3千騎で発向し、車返という処で城主の赤星を待ち受けて火を出して戦った。

 そこはもとから峻溢なので隈部・山鹿・金子木(=鹿子木)は謀って3方より挟んで攻めかかると阿蘇・合志3千騎で(大友の)援兵に来た。

 そのとき鑑連は何を思ったのだろうか?

 海老名肥前(守)という者を使者として阿蘇・合志に使わし

「援兵のため、これまでの御出勢、祝着申す。大友屋形へことごとく言上申そう。もし戦難の時は頼み入り申します。そこで待たれよ」

 と言い使わせば、阿蘇岳に向かって声高く言うには

「戸次伯耆守鑑連は14歳の初陣より今日に至るまで、たびたびの合戦に他家の助けを借りずとも、ついに一度も遅れをとらなかった。もし今日の合戦に勝利するならば、たとえ他家の助けを得て逃げられたとしても生きる甲斐はさらにないだろう。願わくば阿蘇大明神熟覧ありて、たちまちに勝利を得させたまえ。少しでも(自分に)不義あればたちどころに利を失うべし」

 と叫んで馬を引き寄せて乗ると、敵の方に切ってかかった。

 家臣の綿貫勘解由・由布八郎は一番に槍を合わせれば安達左京・安東又治郎・高野玄蕃が続いて切り入り隈部勢を切り崩した。

 ここに利を得て豊後勢は一度にどっと突きかかれば敵陣は思い切り崩され、ついに降参した。


 鑑連は常に諸士を教練して賓客が有る時、(鑑連は)戦功があった士を呼び出し賓客に対してその者を褒称し、未だ戦功なき者も呼び出して未だ戦功なけれども平生の心掛けを述べ(て褒め)る。このようにめでたい大将だったので竹廻(=竹迫)日向守・竹廻彦五郎・吉田右京・小野弾正・小野孫十郎・原尻左馬・上美濃を先として豊筑肥に名高き勇士どもは皆、鑑連の手に従い所々で武功を顕した。


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「記録とはかくあるべきじゃ!神の入る余地などあってたまるか!!!」

 と神変に関する話を削り、勇猛な武将が敵陣を突き崩したお陰で勝てたことにした。


『結局神変話が力押しになっただけでは御座らぬか』

 と山崎は思ったが、先ほどの話も大差ないので

『あと、こっそりと御自分の御先祖を入れておられたな』

 という点にも気が付いたが黙っていた。


 こうして、不思議な話は全て排除。という方針の元、立花家の記録は書かれていくことになる。

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