第4話 鑑連公系譜の事③やっと道雪登場
大友記
作者不明。おそらく最初の大友系軍記と思われる作品で、何故か柳川藩士 石松安兵衛の父、石松源五郎(高橋越前)という人間が大活躍する本である。
その内容は『大友家は素晴らしい家だったが、大友宗麟が色に溺れ僧を迫害し、邪宗を信じたため家が傾き滅びた。という内容の本である。
なお内容的には1584年で終わっており、作者が死亡したか途中で飽きたのではないかと思われるが、これを元に九州治乱記、高橋記という本が書かれ宗麟暗愚説が広まった大分県民的にはとても罪深い本である。
そんな本を取り出したのであるから、その意味する事は明白である。
「大殿…。もしや」
「大友宗麟公の非道を訴える。いや、非道の大名にとって代わろうとしたという記述にしてはどうだろうか?」
戦国時代から秀吉の時代、主家が取り潰されて家臣が出世した家というのはいくつかある。
中でも佐賀の鍋島藩は元主君だった竜造寺隆信を「大肥満の大将(武士としての本分を忘れ堕落した男)」とか「冷酷非道」と書いて名誉を貶め、家臣である鍋島直茂が人望があったので大名になったという論調の本を1700年代に書いている。
戦乱の世から100年近くたった江戸時代。
身分も固定され、かつての主従関係を知らない世代にとって元主君の家というのは貶めてもさしさわりない家になっていたようだ。(※大友宗麟を貶められた大分県人からみた偏見です)
そこで、立花鑑載の反乱について立花記では以下のように記述されている。
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この(立花)鑑載の代に至って九国探題 豊府の大友宗麟が大悪無道甚だしく、親族古旧もあらはれます(=あきれるほどの?)放縦だったのを憤り
「我こそ大友の嫡流なので九国の探題は他にないだろう」
と思い、毛利元就を頼りにして自立(謀反)の志があると豊後に聞こえた。
大友宗麟は大いに怒り、大勢を差し向けて立花城を攻めた。
鑑載は急なことで防御の備をおろそかにしていたので、たちまち城を取られ、自分の子供の山城守親善を携えて山林に身を潜めたが、永禄年中に肥筑乱騒の際に高橋鑑種・原田・安武と力を合わせて立花城を取り返すために攻めかかった。
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大友宗麟が酷い奴だったので『ウチは長男の家だし大友家の代わりに九州探題になってもいいよね?』という理由で反乱を起こした。としたのである。
「こうすれば問題はなかろう」
『ありすぎじゃ。たわけ』
と出そうになった声を何とか抑えた省庵だった。
まあ小領主から陶晴賢を倒して大大名にのし上がった毛利家を頼りに反乱を起こしたら、あっさり退治されたとか自分の家の恥部をそのまま載せるのも問題が有るので、この際大友家、いやキリシタンなる邪教を推進して家中を混乱させた大友宗麟公には犠牲になっていただく他あるまいと思いなおし。
「そうですな。主に逆らうのは道義的に正しくありませぬが、易姓革命の例もございますれば、悪逆の主に代わるのは仕方ないですな」
と、江戸幕府の方針に逆らう展開にGOサインを出した。
こうすることで真の立花家の始祖、道雪公が登場させやすくなる。
そう、以下の通りに。
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そこへ(大友)能直の3世、大友式部大輔頼泰の後裔 戸次丹後守(鑑連)に攻め詰められて鑑載は切腹した。
(鑑載の息子)立花親善は城を降りれば宗麟はつくづく思うに
「立花は左近将監(貞載?)の後裔で大友家の嫡流なので、宗麟の世で立花家が断絶させたれば先祖の恐れがあるだろう。立花・戸次・大友は共に能直の後裔なので鑑連を親善の養子にして立花家を立てよう」
と親善の不義を許し、鑑連と父子の(契)約をさせ、それ以来 鑑連の子孫は(立花家を)相続して武門の誉は他と異なった。
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「こうすれば、暴虐な当主から独立しようとした御先祖の名誉も守られるし、その謀反人とは何の関わりもない道雪様の跡継ぎとして立花家の正当性を主張できるじゃろう」
いけしゃあしゃあと鑑虎は言った。
なお、道雪は立花城の城代にはなったが立花姓を名乗ることは何故か許されておらず、義理の息子である宗茂が立花の姓を名乗った後も自分の事は『戸丹入(戸次丹後入道)』という略名を使用しているので、養子となり立花氏にはなっていない事は明白なのだが、立花記の主人公が立花氏でなければ困ったことになるので、養子話をでっちあげて『道雪様は立花氏』という事にしたかったのだろう。
大人って汚いね。
ここまで来た時、省庵は話の骨子も出来上がった事だし、そろそろ自分は逃げ出し…ではなく、後進に跡を押し付けようと考えた。
「殿、ここから先は御先祖様が残された書状や古老たちの話を丹念に集め、書かれるのが宜しいと存じます。しかし、この老体では最後まで御役目を遂げられるかわかりませぬ」
省庵はうやうやしく頭を下げ、「そこで」と話を続ける。
「そこでここから先は奥州時代からの学者である山崎玄碩殿と不肖ながら、我が息子、安東正之進(侗庵)に任せとうございます」
山崎氏は柳河藩 享保8年藩士系図P217によると
『先祖は(小早川)金吾中納言秀秋の家臣で、曾祖父 武藤輿市郎が関ヶ原で軍功があり旗大将になった。
かの家(小早川家)は断絶し、池田輝政(に仕え?)山崎修理亮と改め物見羽織組役となる。
後に故あって身を引き尼崎の戸田左門一西の扶助を得てかのちで病死した』
とあり、もともとは立花家家臣ではなかったらしい。
また安東正之進こと安東省庵の息子 侗庵は、安東家は系図によると北条家が没落してから大友家に仕えていた(柳河藩下P493)とある。
この北条氏は鎌倉幕府の執権を指すのだろう。
つまり『立花記』は、他国から流れてきた学者肌の人物である山崎氏と、柳川藩の大学者の息子である安東氏の2人に任すことでバランスを取り、どちらの派閥にも配慮した本にしようとしたのである。
「それは一理あるが、あの二人では荷が重いのではないか?」
人間は権威や名誉に弱い。
現在の歴史本でも実際に書いた人間は別人なのに、それだと見向きもされないので有名な大学者の名前を『監修』として出している出版社は非常に多い。
三国志だと渡●義●氏、戦国物だと●和田●●氏などがそれにあたる。
実際にツイッターで知り合った学者さんが書いた本が、発行されると表紙の裏書きに少しだけ名前が載っており、表紙には監修の名前だけしか無かったのを見た時には愕然としたものである。(※本作はフィクションなので実際の人物とは一切関係が有りませんし、フェイクを混ぜているので架空の出来事です)
そう言うと省庵は
「そこが重要なので御座います」
と、言った。
「これより先になると鍋島殿や日向の高橋殿(元秋月氏)、それに薩摩の島津殿との戦いも書かねばならぬでしょう」
戦国時代には敵対していたとはいえ、今では近所に住む大名である。おまけに一度改易されてから復活した立花家よりも国力は相手側の方が大きい。
「ここで我が名を出せば、柳川藩の公式見解となり他家への忖度をせねばなりませぬ」
そうなると道雪の活躍はそれほど書けなくなるだろう。
だが、無名の2人が作った場合はどうなるだろうか?
まだ政治的にも外交的にも未熟な新人2人が書いた事にすれば多少の行き過ぎた記述が有っても「未熟者ゆえ、書きなおさせます」という言い訳がまだ通じるだろう。
「つまり、私が名を出さない事で立花家の事跡は残せるので御座います」
と、『こんなリスクだらけの事業参加してられるか。だいたい私は別に書きたい事が山ほどあるのじゃ』という本音を隠してもっともらしく言うのだった。
それに鑑虎も気が付いたが、老齢で偏屈になった省庵に無理矢理書かせるより、まだ立場の弱い者に書かせた方が融通がきくかもしれない。
そう判断したので
「成るほど。そちの当家を思う気持ち、確かに尤もな事じゃ」
と、感心したように受け入れた。
こうして、互いに本心は隠しながら家譜編纂事業は若い世代に押し付け…いや、任されることになったのである。
大人って汚いね。
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