第3話 鑑連公系譜の事②裏切り者の御先祖様 4~5P
お疲れ様です。
先月の22日から熱中症アラートが鳴り響く大分市で平日は現場工事、土日はクーラーのない古道具屋の店番と閉店準備の荷物運搬を20日ほどやっていたら、ついに体が限界を告げてきました。
ちょっと外で動くと息切れして体が動かず、3分休んで5分動くとまた3分休むみたいな効率の悪い状態になったので昼からやっとお休みを貰い、泥のように寝てました。
そろそろ夏休みが欲しいと言うか、今年はエアコンの部屋でパソコン作業する予定だったのにどうしてこうなった?
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南北朝時代に成立した立花家の由来について紹庵は説明をする。
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(立花記4~5pの現代語訳)
建武4年(1337)1月11日、立花貞載は将軍足利尊氏公に従って軍功を尽くし、東洞院楊梅の辻で結城太田(=大夫)判官親光と(戦って)組むと首をとった。
(✖『太平記』では結城親光は箱根の戦いではまだ討ち取られておらず、降参したふりをして足利尊氏を暗殺しようとしますが『親光は応対した大友貞載に「降参人なのになぜ鎧を脱がない」と言われ、尊氏暗殺の企てを見破られたと思い、敵将の1人でも討ち取ろうと貞載を斬殺し、群がってきた足利兵を手当たり次第に斬り倒すも足利兵により殺された』としています。
同時期の軍記物『梅松論』でも『親光は貞載に斬りつけて重傷を負わせたが返り討ちにあって首を取られた。貞載もこの傷が元でまもなく死亡した』とあり、箱根の戦いでは死亡していません。
結城を戦場で討ち取ったとする立花記の説は疑わしいと言えるでしょう。)
その首を軍扇に置いて尊氏公の実検に備えれば尊氏公(より)大いに褒美が有って、尊氏の家の重器だった御差副の吉光の短刀を『今度の勳労は他に異なる(程すばらしい)』とて手づからこれを賜った。
(また)結城の首が扇にあったとき血が流れて染めたので、これを『血付きの扇』と言う。
先祖の能直より伝来した旗と尊氏公より賜った短刀と血付き扇は立花家の重器とした。
この時貞載も深手を負ったので14日に卒去した。
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「あの家宝の刀に、そんな由来があったのか…」
「はい。殿が御幼少のみぎりに蔵に忍びこんで、あの御刀で戦ごっこを遊ばれなされたときは『この餓鬼、首を締めあげあそばそうか?』と思ったものだとです」
2人は24歳差で省庵が年上。藩儒として幼少期の教育係だったとしてもおかしくはないんじゃないかと思う。
「いや、実際に締められて刀を持った手が握りつぶされるかと思ったぞ」
と、元いたずら小僧がぼやく。そして
「はて?それはともかく血染めの扇と言うのは見た事がないぞ?」
1573年に藩祖の道雪が娘の誾千代に渡した物を記載した譲り状にも、家宝として
●脇刀1腰。吉光。
とだけは書かれており、
●太刀1腰。国吉。累年秘蔵させたもの。
と書かれた国吉の太刀の方がまだ一言書かれている。
だが旗や扇については一切記述がなく、実在の宝なのかもはっきりしない。
もしかしたら、結城親光討ち取ったという話を補強するために書いた創作なのかもしれない。
省庵は
「まあ、血濡れの扇ですから。湿気でカビが生えてやむなく処分したか、供養のために墓に一緒に入れてあげたのかもしれませぬな。それよりもその後の立花家当主のお話です」
と取り敢えず誤魔化す事にした。
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(立花記5pの現代語訳)
②(貞載には)男子がいなかったので弟の三河守が養子として継いだ。
すなわち立花左近将監宗匡である。
貞載は筑前国にいたときに氏を立花に改めたので、これを西の大友と号した。(✖当時の資料や他の軍記でそのような記述は見られません)
また宗匡の弟、千代松(7代当主、大友氏泰)は尊氏公に従って戦功、所々に莫大だったので父 具簡の跡を継いだ。
(これに対し)豊府の大友(は)式部丞氏泰と名乗り、従五位に叙せられ九州の探題と成り東大友と言った。
これより大友は東西2家になった。
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これが立花家が生まれ、弟君が跡を継いだ由緒である。
『ここまでは良い。』
ぐだぐだながらも、軍記らしく列伝らしい記述ができている。
だが、問題はそのあとである。
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(立花記5pの現代語訳)
②宗匡の子は(立花)家を継いだ。立花山城守親直である。
③その子は左近将監家を継いだ、親政である。
④その子 因幡守宗勝 家を継ぎ
⑤その子 兵庫頭鑑光 家を継ぎ
⑥その子 左近将監鑑載。後に但馬守と改めた。
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立花家の2~5代目まで、名前はわかっているが、何をしたのか記録が残っていないのである。
あの南北朝時代、足利家が内紛で大将の足利尊氏が足利家から敵である後醍醐天皇方に付いて、南朝と北朝側に分かれた大友家中が、さらに尊氏側に着くかどうかで分裂したり、無類の強さで九州を席巻した菊池氏により大友家や筑前の小弐氏ですら降参し南朝に味方をさせられた時期があったのである。
そんな時代に記録が無いと言うのは戦乱に巻き込まれず、うまく槍過ごせた証拠かもしれないが、これでは家伝書を書くのに非常に困る。
「これでは御先祖様のご活躍が分からぬではないか?」
「はい、ですのでこれでは家譜のような記述はできませぬ」
書く事がない。
立花家の記録は最初から暗礁に乗り上げたのである。
「あー。誰か一人くらい北朝に過度に肩入れして賞されたり、菊池を攻めたような方はおらぬのかなぁ…」
「そうすると、余計な争いに巻き込まれて立花家は滅亡していたかもしれませぬからなあ…」
滅ぶのは嫌だけど、もう少し危ない橋を渡って記録には残って欲しかった。
そんな物騒な事を考えていた鑑虎を見て省庵は
「……ただ、御一人だけ事績の分かっている方がおられます。」
と、渋面で言った。
「おお!それは素晴らしい!」
まるでフィリピンに着いて書こうと思い暑さ対策ネタを考えていたら、日本よりも過ごしやすいと言う記事ばかり見つかってアイデアが全て白紙になってしまうくらい書く事が無くなった鑑虎にとって、それは渡りに船だった。
「で、そのお方はどのような方なのじゃ?」
笑顔で問いかける鑑虎に対し、省庵は絞り出すような声で
「……そのお方は6代目御当主、左近将監鑑載様。…………後に大友家に対し反旗を翻し、討伐された方です」
「裏切り者じゃん!!!」
やっと出て来た事績が主家への裏切り。
しかも立花鑑載は20代目大友家当主大友義鑑から下の一字を貰った完全に家臣扱い。しかも寝返った理由が、山口の小領主だった毛利家が成りあがり、九州北部侵攻への準備として寝返りを誘ったからという情けなさである。
江戸時代になって身分制度を安定させるため、子は親に従い、臣は君に従うのが正しいという価値観が定まった中、由緒に乏しかった毛利に味方し、主家に反逆するというのはかなり抹消したい記録である。
というか立花家の系図によっては名前が消されている場合もある。
「こんなのしか書く事がないのか…」
ハズレしか無いくじ引き。
省庵は執筆を半ばあきらめたらよいのに、と思った。
だが暇を持て余した老人はしぶとい。
「ならば、裏切った事に理由を付ければ良いのではないか」
そう言いながら、奥から一冊の本を取り出して来た。
そこには『大友記』という題字が書かれていたのである。
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