第9話 鑑連公 攻抜 門司城の事③1556年 御先祖様自慢



「安東殿。来客ですぞ」

 

 各家から書状を写したり伝聞を集めていた安東が職場に戻ると来客が有ったらしい。

 聞けば立花家の家老として有名だった由布氏の一族と言う。

 

 由布氏と言えば由布摂津守雪下公が有名で、道雪の下にいるために法名を雪下にしたと言われるくらい忠臣で頼りになる武将だったという。

 あと立花宗茂公が養子に来た後、13歳くらいの時に山を歩いてイガ栗を踏んだ際に雪下に「とってくれ」と頼んだ時に逆にイガ栗を押し付けたというスパルタな面もある人である。


 今回訪れたのは、その一族とは異なる由布源五左衛門という家の子孫らしい。

 だが、家老の親族に間違いは無く少し緊張した面持ちで応対すると、その由布氏は文を入れた漆塗りの箱を持参しており、それを開いてこう言った。


「お主たちは大殿の命で藩史を編纂していると聞いてな。のじゃ」


 自分達が編纂しているのは家譜というか軍記に近いものなのだが、話が間違って伝わっているようである。

 とはいえ史料の少ない中、こうした情報提供があるのはありがたい。

「おお、それはそれは有難いお話でございます」

 と渡りに船とばかりに2人はとびついた。


 なんでも大友家で反乱がおこった時の書状がメインらしい。

 その由来を聞いてみると


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(以下、立花記の現代語訳)


 弘治2年(1556)3月に豊後の国の住人 斎藤小左衛門尉某と言う者は大身で殊更武勇の誉があったが、毛利に内通していたことが露見したので(宗麟は)

「急いで押し寄せ討ち滅ぼし、首をはねよ」

 と言えば鑑連は時を移さず発向した。


 折節 秋頃の事だったので城内は厳しく(門を)閉ざした。

 そのとき勘解由という者が堀を乗り越え、内に入り門の閂を空けようとした。

 番の者たちはこれを見て

「すはや!敵が入っているぞ!」

 と手に槍を持って5人で突き通す。

 勘解由は突かれながら、なんなく閂を開ければ鑑連をはじめとして兵が多く攻め入って、即時に城を焼き払い斉藤を討ち取った。


 9月には小原某に本庄某、その他の国衆どもが組んで狼藉を働いて本庄の館に籠もった。


 大友義鑑(=義鎮)は大いに怒り、急に「誅伐したまえ」と一族老臣へお触れをすれば鑑連はまっさきに駆けつけて「門を破って打ち入れ」と命じれば鑑連の郎中たちは我先に塀を乗り越えようとした所を内から槍・長刀で突き払われた。


 中でも由布源五左衛門・高野玄蕃・足達左京は塀に乗って一番に切り入った。敵の大勢はこれを見て

「3人を中に取り込めて我れが討ち取ろう」

 と言ったが、由布たちは大剛の者だったので向かう敵を薙ぎ伏せ、傷を負いながらなお進んで戦った。

 この勢いに鑑連を先として門を破り攻め入ると、小原・本庄をはじめとして一々に誅した。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「という訳なのじゃ。」

 と話が終わった。


 それを聞いた時、2人は表情は変えないものの厄介事を聞いてしまったという気分になった。

 安東は山崎に小声で

『山崎殿。どう思う?』

 と言えば

『これは弘治2年(1556)に豊後で起こった小原鑑元をはじめ一連の乱の話でしょうな』

 と、答えた。


 宣教師フロイスの記録では1556年(弘治2年)に田北氏と本庄・中村氏が争い、本庄は13人が館と家臣ごと殺され田北も多数の死者をだした (日6p145)という記載がある。

 また11月19日に義鎮より『不義の仁を成敗の時忠貞を称す』として大神一族の小原鑑元が討伐され、多くの人間が土地を与えられている。(大分県史料32巻。1412号)

 叛乱の明確な動機は不明であり、大友家と豊後の先住民族だった大神氏との軋轢の末の反乱とも言われているが、はっきりとした事はわかっていない。

 だが、肥後を代理で治めていたと言われる小原の反乱場所は肥後の南関と言われており本庄氏の館では無い。


 また斎藤氏は1550年に大友義鑑に誅罰された一族とも言われており、ここで反乱を起こすほどの力が残っていたのか疑問である。

『後の方はともかく、斎藤殿討伐の話は誤りではないかのう?』

 同姓の斎藤鎮実は1578年まで健在であり、斎藤氏の反乱と言うのは疑わしい。


『いや、小原討伐の方も討伐相手の名前が分かっておらぬようじゃし、本当に活躍したのかも疑わしいぞ』

 小原討伐は他にも大友家家臣に書状が与えられているのだが、そうした記録集など存在しないため有名な戦いか、自分の家にゆかりのある戦いでもないと真贋判定は難しい。

 筆者なら、これは掲載をためらう内容である。


 だが、2人はここで困った事に気が付いた。

『……この話、眉唾な部分もあるが』

『……使わぬわけにはいかんでしょうなぁ』

 偉い人がわざわざ足を運んで情報を持ってきたと言う事は、ある程度反映しないと失礼にあたるという事でもある。


 昔、『超クソゲー』という本で美食戦隊薔薇野郎というSFCのアクションゲームが紹介されていたのだが、ステージクリアするたびに集めた食材を組み合わせた料理を食べるという要素が有ったのだが、食事を拒否できないという嫌な縛りが有った。

 そのため『どくきのこ』という見るからにヤバいブツでも食べなければならない。

 次の面で死亡しようが絶対食べなければいけない。


 貴重な資料を見せて貰うと言うのはそれと同じである。


 与えられた資料が明らかに偽作だろうが、出典が怪しく不確かな記録でも出された以上は書かねばならないのである。

 ゲームに興味のない方、分かりにくいネタを使用して申し訳ありません。


『とりあえず、武将の名は不明じゃから某と書くしかないが、斎藤殿の話はどうする?』

『そちらも某にすべきじゃろう。たしかあの家は日向合戦で御当主が亡くなられておったはずじゃから、御子孫から怒られる可能性は低いじゃろう』

 もしも書けるものなら


【この話は一部フィクションが混ざっております。実在の家、人物とは関係ない場合もあります】

 と、書きたかっただろう。


 ゆえにこれ以降、2人は書状を調べる際には他人を仲介し、調べた結果だけを見て話を採択する事にした。それでも押し込まれた書状に関しては記載せざるを得ず、只でさえ真贋怪しい家譜がさらに怪しくなるのだが、それは後のお話である。


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 筆者は社交性と言うものがないので、見せて貰った系図や書状でも誤りがあると思ったら使わないのですが、仮に市や県の歴史担当の肩の場合、嘘や不明部分は書けないので断りの謝罪とか説明、なだめすかしが大変なのだろうなぁと書きながら思いました。

 個人的趣味でない歴史って色々と義理人情が混じって面倒と言うか向いてないと感じながら、外野で在野だから好き勝手書ける今の境遇は逆に良かったのではないかと思う今日この頃です。

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