第10話 ●道雪公 諌争う事 P24(毛利による南蛮船妨害)

「さて、毛利を一度退治してめでたしめでたし。となったわけじゃが…」

 安東はこれまでに集めた書状に目を通しながら

「これ以降、大友家は毛利としか戦っておらぬのではないかな?」

 1561年から1669年まで大友家は毛利による九州北部領主の調略と裏切り、その討伐に大半を費やしている。

 織田信長も美濃攻略に十年は費やしているので大国同士の争いと言うのは川中島合戦のように繰り返し行われていたのだろう。


 だが、これでは話が退屈で単調になる。

「何か良い話題は無いかのう」

 道雪公を顕彰するか、大友宗麟を貶めるか。

 適当な話はないかと探していると

「安東殿。この話などいかがでしょう?」

 と相方の山崎が、これは九州治乱記1巻『九州静謐の事』という話を出して来た。

 これは、南蛮船が来た時の話で宗麟のために民が困った話となる。

 伴天連追放令が出てから100年以上経過した今、南蛮船の事など知っていたり研究している者など誰もいないはずである。

 そこで安東たちは以下のように、お話を丸丸転載することにした。


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 秋月文種・筑紫惟門滅亡後の九州は大友家の武威に服して静謐となった。

(△秋月文種は死亡しましたが、筑紫惟門はまだ生きてます。)

 幕下の城主は代わる代わる豊府に参礼し毎年8月朔日の剣馬の幣礼を怠らず勤めれば(大友の)威風は遠近に広く、将軍足利義輝公も豊府に使いを出し

「九州が治まっているのは勇略の誉れで、神妙の至りである。天下の侍が頼るほかない。早く西国の兵を催して上洛し、都鄙の乱を鎮めたまえ」

 と御教書を義鑑(✖義鎮の誤り)に賜った。


 これより豊府の繁栄は時を得て富は連日に倍となった。

 商売は市に充満し往来は街を通やらす。

 京師に名高き技芸の巧手珠玉の僧途師にいたるまで集まり、府(県庁)に近い津々浦々には諸国の商船が幾千万という数を知れず。

 府内の城の間には上下の民家が軒を並べおびただしく、その豊穣なる事は京や鎌倉にも勝るかのように見えた。


 それのみならず、元は筑前国博多津に着いた唐船が永禄2年(1559)ころから豊後に来た。

 大明南蛮の商客が豊府に来れば都鄙遠近の商客は異国の珍器を買い取るために押し寄せる事限りなし。

(✖唐船が永禄2年(1559)ころから豊後に来たというのは明確な誤りで、1543年には中国船に同乗した欧州人が種子島や豊後に来ていますし、欧州人が船長の南蛮船も4回ほど豊後に寄港したそうです。

 遅くとも1551年8月にはガーマが豊後に寄港しています。(日6P58)ザビエルが豊後に来たのは彼らと合流するためです。

 しかし南蛮人が中国のマカオから日本に来た場合は長崎や平戸が入港しやすく、1565年頃には長崎県平戸の松浦氏が家臣の籠手田氏をキリシタンにして貿易船を呼びこみ(日6P133)1570年には大村氏が日本初のキリシタン大名となって大村・長崎を南蛮貿易の中心地としました。

 この商品を豊後商人が長崎まで買い付けに行ってます(日9P93))


 そのような時に唐船3艘が漕ぎ連れて豊後に向かって来たが門司の泊門を通るとき長門国から大船2・30艘が漕ぎだして(大友と戦争中だった)毛利の船30が唐船を囲んで赤間関に引着けた。大友義鎮はこれを聞いて大いに怒り

「今後は異国船を一艘も他国に着けまじ」

 と肥前筑前豊前3国の侍に命じて所々に監船を置いて、壱岐・対馬・五島・平戸の沖に異国船が1船でも見えたら監船数十艘で船を守り門司赤間の迫門を押し通り豊後まで送るよう(命じ)監船に乗った者は士卒・水主舵取りに至るまで皆合戦の装いで甲冑を着て兵杖を帯びて日を送った。

 肥前・筑前・豊前の城主給人はこの費用に困窮して領内を虐げる。

 土民の労は数限りない。

 大友家の苛政を疎まない者はいなかった。


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「もう南蛮国に行く事は出来ぬのじゃが」

 と九州治乱記から文書を書き写しながら安東は

「仮に門司で襲撃されると分かっておるなら、平戸か長崎で取引をするか、薩摩から日向方面で向かえば良いのではないかのう?」

 海賊がいると分かっているのに危険な場所を通り続けると言うのは変である。特に豊後までの道は陸路も通っており、宣教師は山道を通って行き来していたともいう。

 なので、本作のように南蛮船を警備したり豊後に呼ぶ必要は無かったのではないか?と安東は考えたのである。

 だが山崎は 

「しかし安東殿。肥前の言い伝えでは昔、平戸で南蛮人は布の取引を巡って我が国の商人と殺し合いになったり、平戸の松浦隆信公はキリシタンが寺や仏を焼くので布教を禁止したとも聞くぞ」

 そのために豊後しか取引場所が無かったのではないか?と言った。

 彼らは南蛮商人がその争いの後に南蛮人が大村氏を抱き込んで長崎を1570年に開港した事を知らない。


 なので寄港先を変えたら商人が嫌がらせに放火しに来たり武装船団で攻めて来たのが大砲で撃退されたと言う話も知らなかった。


 ただ、毛利との争いの中で宗麟が民を苦しめたという話が書けたので、この話はこのまま後世に残った。



 ……ただ、『この話は毛利元就と言う悪党の運行妨害を責めるべきで宗麟が悪いと言うわけではない』と作者は主張したい所である。

 どう考えても船を襲う海賊毛利が悪くて、外国船を守ろうとする宗麟は被害者である。

 だが立花家を持ちあげるために、宗麟を悪役にする流れとなった2人の暴走は止まらない。

 次の章では悪名高い大友記の『義鎮公 女色に耽りたまう事』を参考にさらに悪口を書き連ねる事となった。

 これは今でも誤解されている宗麟の悪人説のねつ造話である。

(次回に続く)

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 本日、大分は久しぶりの雨で涼しかったのですが、湿度が高くて汗をかけず、あやうく熱中症に成りかかりました。

 夏場の仕事はいい加減やめたいですが、そう言う時に限って外仕事の依頼が増えるので人生は悪意に満ちてるなと思う今日この頃です。

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