第11話 道雪公 諌争う事② 元君主を貶めてみた

 後世に伝えられた宗麟の悪口で一番ひどい者は大友記の『義鎮公 女色に耽りたまう事』だろう。

 これは故意か無知ゆえか、宗麟の事跡を年代を変更する事で悪意的にゆがめ、側室と言う戦国大名なら大抵の者が娶っていた存在を指して『大友宗麟は好色』だと語っているのだから。


 話の筋は、宗麟は毛利を門司で倒し九州に平穏が訪れたので次第に女性に執心し政治を顧みなくなったので、家臣たちは宗麟を諌めようとしたが面会すら許されなかった。

 そこで道雪は一計を案じ、都から踊り子を集めて毎日歌舞酒宴を行った所宗麟は「あの道雪がそのような事をするとは思い難い。これは自分に対するものだろう」と思って道雪を訪れ踊りを観覧した。

 踊りが終わった後、道雪は宗麟を諌め、その忠節に感動した宗麟は政務に戻った。


 という話である。

 なお、宗麟は10人の子供がいるが、うち8人は前妻との間の子とフロイスが日本史に記載しており、残り2人は離婚後、後妻との間に生まれた双子である。

 もしも女癖が悪ければ、もっと子孫がいて当然である。徳川家康のように。徳川家康のように。


 おまけに、実際は大友家は1561年の門司合戦で毛利に敗北しており、政務をほったらかしにするどころか敗戦処理や離反しようとする他国の領主の心を繋ぎとめるために腐心しなければならなかったはずである。


 なのだが、大友記の後に、九州治乱記でもこの説を採用し、さらには一万田氏の妻を奪ったため反乱を起こされたという説を記述。

 他にも九州探題に何度も反乱を起こした龍造寺系列の家も「大友宗麟は悪人だったので仕方なく反乱を起こした」という筋書きにしたいがために北肥戦誌でもこの説を採用。

 このため史実のように語られる事ととなった。


 そして大友家の家臣から独立して大名となった立花家の子孫も、この宗麟叩きに参加した。

「よし、次は大友記の説を採用しよう」

 柳川藩の史書を編纂している安東と山崎の2人である。

 彼らは宗麟がいかに仕えるべき存在ではなく、それを道雪はどれだけ忠義を以て諌めたかを語るため、このような記述をした。



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(以下、立花記P27の現代語訳を記す)



 これ(南蛮船警護を民に押し付けた)のみならず(宗麟は)色に謡し酒に浸り、歌舞音曲に日を渡り、戸次・臼杵・吉弘ら(大友家から枝分かれした)同姓の家の大臣を討疎み、遠ざけ、艶色の芸輩を取り立て執事とし、奇舞の賤人をあさって近士とした。


 奇舞の達人・処女の艶色が国々より集まり京都・関東より下り来る。

(✖豊後は1569年に毛利の侵略が終わって平和になり、そのために芸人や文化人が訪れるようになりました。)


 義鎮はいつとなく武事を忘れ政刑はみな邪曲となった。

 政刑を是非する者は故家世臣(=親類や代々の家臣)といえども罪に行い、武事を勤める者は執事の兒輩近士の賤人はこれを憎んで様々の企みに寄り言を飾り、事を作って義鎮に説得した。

 義鎮はもとより愚昧にして近士の言う事を信じ故家を疎み世臣を遠ざけた。

(✖1569年以降、家老である吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長増が死亡するまで彼らが側近として仕えており、書状も発給しています)


 このような世の風俗なので田原・柴田の大臣を始めとして媚を売り時の機嫌にかなわぬ事を欲した。

 功無き者が賞に預かり、罪なき者が罰にあう浅ましい有様だった。

 家老の諌めを疎い府内の本城を嫡子 左兵衛督義統に譲り国政をとらせ、その身は臼杵の丹生島に城を築いて籠り、休庵宗麟と号して大徳寺より(宗)悦 長老を招聘して瑞峯院を建立した。

(✖宗麟の臼杵移住は反乱により府内が危険となった1556年頃から。宗麟と号したのは毛利に敗北した翌年の1562年。息子への家督継承は1574~1578年の準備期間を経てからで年代がバラバラです)


 因果居士、如露法師などという者が方々から来て解脱の法を説けば義鎮はこれを信じて世事は皆 ただの戯れなりと心得て放縦甚だしく我意(=わがまま)をのみ振舞った。

(✖これは大友興廃記の記述が元ネタだろうが如露法師という僧は書状には見られない。ジョウロはポルトガル語なのでイエズス会宣教師を指すと推測される。なお世事は戯れと説くのは禅宗の方が傾向が強い)


「政刑は義統に委ねた」

 と言って家中の拝礼をも受けず幕下の諸将に贈答の書信もない。

 義統では国中の政刑は行う事ができず、皆義鎮の命のままに勤めた。佞臣讒者が多いので宿老智臣も(我が)身を恐れて諌め争う者いなかった。

 戸次丹後入道道雪は「国君に諌臣がいなければ国亡ぶ」という事を守り、日々臼杵に登城したが、宗麟は御簾中にのみ居たので対面する事もなかった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「とりあえず、大友記と大友興廃記と九州治乱記から宗麟公の悪行を書いたが、家臣の妻を奪った話は掲載するかのう?」

 偏向報道を書き終えた安東は山崎に尋ねた。

 確かに、乱行を伝えるにはこれほど良い例は無い。せっかくなのでそれも採用しようかと思ったのだが、この後の文書を見て

「やめましょう。冗長にすぎます」

と言った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(以下、続きの現代語訳を記す。なお今回の話は道雪が前回までの出来事を説明しながら説教しているので、つまらなければ★マークで囲まれた部分は読み飛ばして下さい)


 その後、道雪は容貌美麗の芸女を数多召抱え、舞をさせて日夜 踊らせた。

 宗麟はそれを聞いて「道雪は兼ねてから、月見花見音曲歌舞を嫌う者だったが、近年 踊舞を好むのは我に馳走の為だろう」と道雪に舞を望むと伝えれば、道雪は大いに喜んで『三拍子』という踊りを三度踊らせ、(宗麟の)機嫌がよくなった所で(道雪は)「よもやまの物語有」と謹んで言うには


「恐れ多い事ですが、好色の事や舞のお戯れを止められ、旧功の故家の大臣を御許しして家中の拝礼を侍所に出て請けられ、幕下の諸将の贈答の儀を御勤めし、賞者を進め、徳ある者を選び、才ある者に任せて領内の政刑を御心に尽くされ。少しも武事を忘れたまうべからず(お願い申しあげます)」と諌め、続けて


「道雪は不肖ですが古人の言を聞くに『内には色の荒をなし、外には舎の荒をなし、酒を飲み音を楽しみ、家を高うし壖(空き地)に彫る事が一つでもあれば滅びないものはいない。女色を好み、遊猟を行い、酒宴を長く、音曲を楽しみ高き家を作り、壖(空き地)に絵彫物等をなすのを一つでもする時は、天子は天下を覆し、諸侯は国を亡ぼし、大夫は家を失い、士は身を殺す』と承ります。


 ★ 義鑑公の御代には領内さえ乱れて治め難いのを、当屋形(=義鑑)は弱齢なれども御政刑と武徳により豊筑肥の6州を治められました。

 しかるに近年徳を忘れ武事を捨て、女色にふけり酒宴に長く狩猟を楽しみ、日夜歌舞を習い丹生島の城内に高亭をつくり壖には様々の画彫物を為された事、古人の戒めをことごとく背かれておられます。

 この数多の内、一つでも犯しても天子諸侯も天下国を滅ぼすと古人は戒めました。

 御先祖の善行により(大友家は)只今までは6ヶ国の君と仰がれたといえども、御一族門葉の衆をはじめとして御家中の諸氏雑人下郎、農工商に至るまで御政刑に困窮し疎み果て、御政刑は義統公にお譲りしたと言っても御家中、御幕下の国々も「義統公は御政刑が御心のままならず、皆 宗麟屋形の御指図に従っている。と知らない者はおりません。

 6国の諸城主は9国の棟梁ともなるべき高潔の君が出て欲しい。当家を没倒し、筑紫の探題を取り立てたいと願っていると聞きます。そのうえ毛利陸奥守元就は先年 門司の合戦に負けた事を憤り、九州の諸将内通するよう(謀っていると)聞きます。

 吉川・小早川は武勇智謀 万人に秀で、山陰を靡け、政刑を明らかにし、武事を専らにして能を使い才に任せ九国二島を併吞せんとするとも聞きます。

 筑紫惟門や秋月文種の子供の左馬頭広門・兵衛尉種実の2人は剛にして才覚武芸人に勝れ恨み骨髄に通り父祖の恥を雪ごうとして当時は毛利に随身して中国にありながら内には肥筑の国士に内通し、毛利の助勢を頼み本城に立ち帰ろうと企てています。

 それのみならず、薩州の島津義久は政刑を正しく、色を遠ざけ賢を近づけ乱舞戯遊をよしとせず、賊(俗?)を軽んじ士を重んじて薩隅2州を従え日向国へ出陣しようとしていると聞きます。★


 大友家の危うい事、昼夕に迫っています。

 屋形は今 色を重んじ舞楽酒宴に長け、常に小人を近づけて旧功大臣を遠ざけた事により屋形の非を諫め、国家の危やうきを申し上げる者はいません。小人の黄口ども常に御前におもねり、御気色にかなう者ばかりです。

 かえすがえすも好色歌舞をお止めして政刑を御一家の心に任せず、故家の大臣と図れば ご恩となるでしょう」

 と涙を流して言えば、思いの他に宗麟は信服(心服)して、翌日、府内に

「家中の面々は遠慮なく府内勤事の暇には丹生の島にも登城あれ」

 と触れ回ると一族諸士はみな喜んで

「道雪の諫言を納得した事、大友家 久しく千秋万歳」

 と勤事の暇には丹生島に登城すれば宗麟は例の儀式で対面した。


 だが、又いつともなくもとのように簾中の慰みをしたので、諸氏の登城も近士の外はなくなった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「長すぎる」

 かの毛利元就公は説教好きで反物のような長さの手紙を書く事で有名だが、そのような物を誰が好き好んで読むと言うのか。

 というか、大友記は

『恐れ多い事ですが願わくば行状をお正しください。御屋形様は若くても(国が)事故なく治まってますのは、偏に昔の御威光があるからです。それが政治を投げ打ち御簾にこもり、善い事も悪い事も聞かないのでは虎視眈々と再起を狙う毛利が喜びます。義鑑公の時のように戦乱が始まるのは勿体無い事です』

 とあっさりとした内容なのに、何故ここまで長くする必要があるのか?


 山崎は同じ事を2度書かれた本文を見て、初め『同じページが2枚入っているのではないか?』と真剣に読み返した。

 間違いなく、似た内容が書かれていた。見間違いでは無い。

 また大友記では『七夕には例年の儀式で御祝いを行い、豊後国中の人がこれを悦んだ』と綺麗に終わっているのだが、何故効果が無かったとつけ足したのか?



 省略してやろうかと思ったが、安東の労策を否定するのも悪いのであえてそのまま残すことにした。

 両者にとって幸いだったのは、この立花記はそれほど世間に流布されず、彼らの書いたデタラメもそこまで広まらなかった事である。

 そう、次の章の「宗麟と猿」の話のデタラメほどは………


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 今回は内容の半分を解説に費やします。宗麟悪人説がどのような事跡をつぎはぎして完成したのか、興味のある方はお読みください。



 まず史実の時系列を見ると、以下の通りになります


 1556年頃 宗麟は反乱などから身を守るため丹生島城に移動する。(日6p145)

 1558年 大友義統 生誕(増訂20巻336号)

 1562年 5月に宗麟と改名する。(先宗781号)

 1573年 2月18日より花押をやめ印判(ハンコ)を使用し始める。(先宗1611)

 4月5日に大友義統 は鶴原主計允に官位を与えている。(大友2P2~4)

(1578年の家督譲渡への準備期間と推測される)

 1578年 4月10日 宗麟は「義統代始めの出張」への馳走を賞す(先宗1714)

(この時期に完全に家督を継承させている)


 この間、吉岡・吉弘・臼杵は加判衆として政務に携わっており、遠ざけたという事実はありません。彼らが政治に関与しなくなるのは1571年から1575年にかけて死亡してからです。

 また毛利元就と言う侵略者が死亡したので、平和となった豊後には大友興廃記によると1573年頃に猿楽の役者や相撲取りが巡業に来たようですが、それを側近に取り立てたという事実もありません。

 また、柴田氏は1580年頃から頭角を現した武士で、数々の戦いで活躍したため大友家一族では無いけれど、大友家の家紋の使用を許され同族同様の扱いを許されますが(大友2P177~8)、大臣というべき加判衆にはなっていません。


 おそらく宗麟は右筆として浦上宗鉄という人物をこのころ抜擢しているので、有能な新参者に嫉妬した無能な旧臣たちがやっかんだのをそのまま書いたのでしょう。


 なお宗麟が政治をしなかったというのは、1573年頃に吉岡・吉弘・臼杵が相次いで死亡し、宗麟は1574年から息子の義統と連署した書状を発給し始め、1578年に家督を息子の義統に譲り政治から遠のいた頃か、1580年に一時的に当主として復帰した頃の話と推測されます。

 つまり、政治をしなかったのは隠居したからです。


 これらの年代が異なる話を、悪意で繋げてデタラメを書き連ねたのが本書の話。

 仮に本書が言うように宗麟と名乗った1562年頃に義統に政治を任せたのだとしたら、1558年に生まれた義統はまだ5歳です。その頃に義統が書いた書状は見当たりませんし、宗麟も普通に文章を発給しています。

 逆に隠居した1578年頃の話としても矛盾が生じます。なぜならキリシタンは離婚も淫蕩も禁止しているので、宗麟が色に溺れると言うのは絶対にありえないからです。

 もしも、そのような事をしていればフロイスの自著『日本史』に書いてるはずです。


 なお宗麟がキリシタンになったのはフロイスの記述では、禅宗の秘儀がたいしたものではなかったためなのが原因だと本人が語ったそうです。

 たいして利益もないのに僧の態度はでかいし、京都から招いた僧は発狂して京都に帰ったり、しており、それにも失望した宗麟は隠居の際に後妻と共にキリシタンに改宗したのでしょう。

 宣教師の教えは虚無主義ではなく死後に救済されるため厳格で排他的な教義を伝えており、この世は来世に向けた試験場みたいなもので「世事は皆 ただの戯れなり」などと言う事はありえません。

 なお史実で島津は日向に攻め込みますが、これは1572年の木崎原の戦いのあたりで、毛利元就は1571年にすでに死んでいます。

 時系列を理解せず、大友記の話を適当に盛ったため筆者はこれが矛盾していることに気がつかなかったようです。長い長い説教を書いたことで、本書の嘘が暴かれたといえるでしょう。(早口)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る