第8話 鑑連公 攻抜 門司城の事②天文23(1554)年9月23日)P18

 文書が短かったので章をまたいで記載しました(汗

 鑑連公 攻抜 門司城の事①は前話後半にあたります。


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「ところで、この大友と毛利の戦いはどちらが勝ったのかのう?」

 大友家と毛利は1561年末に門司で戦うのだが、彼らが参考にした毛利側の軍記、吉田物語は年代を1554年と7年ほど間違えているため内容も誤りが多い。

 おまけに毛利側の書なので毛利勝利の記述なのだが…

「この大友記では、道雪様の活躍で勝利した事になっておる」

「九州治乱記もおおむねその記述じゃのう」

 大友側の資料では大友家が勝利した事になっているのである。


 これではどちらが勝利したのか判別は難しい。

「これはいかがしたものか?」

 2人は悩んだ末、以下のように立花記で記述した。


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 (毛利家の小早川)隆景は城に入ると城の破損を修補し、豊筑肥の武士どもと大内の旧交をつかもうと企てていると聞こえたので、大友義鎮は驚いて「時日を移さず追い落とせ」と鑑連を追っ手(=本隊)の大将とし、斉藤兵部少輔鎮実、吉弘左近太夫鑑理、田原、臼杵らを始めとして2万騎を豊前国に発向した。


 規矩郡(企救郡=今の福岡北東部、門司~小倉)を出発し、立石原で手分けした。


 10月13日、鑑連は追っ手(=後陣)の大将なので8千騎を3軍にして立山の西を廻って柳浦足達山に出向かい、火を出して戦う。

 九国無双の鑑連と中国の名誉の隆景とが初めて戦うので例えようもないほど激しい合戦となった。鑑連は我勢の内よりも強弓の名手を選んで150騎、矢毎に『源の鑑連』と書きつけて散々に射させた。

 この者たちが射た箭は盾も鎧もたまらねば(=矢も楯もたまらず)さしもの中国勢も色めき立てて見えた。(そこで鑑連の部下たちは)

「鑑連の家臣の由布源五左衛門・小野弾助・後藤市弥太・安東市之丞」

 と名乗って大勢に割って入り、各々槍を振るって向かう者を打ち伏せ突き伏せ四方八方に打ち廻った。目を驚かす有様である。

 田北紹哲(=紹鉄)・豊饒弾正は我兵を引き選び、無二無三に斬って入り火花を散らして戦った。

 かかるところに魚野・䲭野(=シノ。鳶野の誤り?)に控えた斉藤・吉弘 一万余騎を6隊に分けて山を越え押し寄せた。

 さしもの中国勢もたちまちに敗北して城を指して逃げ入った。

 鑑連・鑑理・鎮実は門司の西にある山下より浜際までひたと詰め寄せて陣営して囲んだ。


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 御想像の通り、彼らは大友家ひいては戸次道雪勝利の記述を選んだ。


 実際は、門司城を攻めた大友軍は毛利の水軍から後背を突かれ、海岸沿いに退却しながら本隊を守った宇佐の衆と、水軍の攻撃を避けて内陸の日田まで退却した吉岡長増が書状で報告する大友家の敗北なので2人とも間違った記述を選択した事になる。


 なおこの話は九州治乱記に書かれた『門司合戦&臼杵新介の事』と大枠は同じながら、合戦の内容は大幅に省略され

「鑑連の家臣の由布源五左衛門・小野弾助・後藤市弥太・安東市之丞」

 と人名に力を入れている。

 実は門司の戦いはこれから数度繰り返し大友が勝ったり毛利が勝ったりするのだが、その際に与えられた感状には年代が書かれてないので、全然別の時期に門司で活躍した人間の子孫から提出された書状をみて纏めて書いた可能性もある。

「なあ、安東殿。この書状ですと門司の戦いは11月から8月まで続いた事になりますが、これは別の年代の記述では御座いませぬか?」

 そう言われて安東も多分そうだなぁ。と思ったが、山崎の肩をつかむと

「よく御考え下され。仮に門司の戦いが何度も繰り返されたとして、それを一々書いた場合、戦いの結果はいかがなさいますか?」

 何度も大友が勝利したのなら、小倉に謀反人の高橋鑑種が入城したり、博多の北、立花山を毛利が奪取できるわけがない。

 つまり、門司の戦いは大友家が負けた場合もあるのである。

 そんな事を立花家の記録で書いた場合、誰が喜ぶだろうか?

「書くなら勝ち戦の記録だけで十分。それでよいではございませぬか」

 後の歴史家たちからしたら『よくねえよ。腹を切れ』と言いたくなる案件だが、太平の世の身分制度でそこまで厳密な時代考証など求められる訳も無い。


 特に立花家の家臣だった浅川氏が記した聞書には『(1569年の)多々良浜の合戦の時に高森某という敵から矢を射られた者が翌日の合戦の時に『戸次丹波守内何某 参らせ候』と矢に彫り、血をつけて(射返し)比類なき働きをしたのを世間が聞き間違って道雪部下の弓隊全員がやったことのように伝わっている』と書いていたりする。(浅川聞書P19 )

 これは1640年以前に書かれた『大友記』以来、ずっと間違って伝えられている逸話なのだが、本書でも間違ったまま記載している。

「これは史書では無く軍記なのだから、よく知られた話なら架空の逸話でも入れないと、古老たちから文句が出る」

 と言ったかどうかはわからないが、2人は当たり障りのない記録を選んだのは間違いないようである。


 なぜならこの戦いの続きはこう書かれているからである。 


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 中国勢は城に入り門を固めて防いだが元より客戦(=他国での戦)である上に戦に負けたので

「このままではこの城を保ち難い」

 と15日の暁天に城を空け、船に乗って長門国に渡ろうとした。

 豊後の3将は勝ちに乗じて攻めかかり干潟の波打ち際に人馬の足の及ぶ所まで打ち入って攻め戦った。


 中国勢は船に乗っている者も、乗っていない者もいれば、大勢が船に乗って船が沈んで死ぬもあり、あるいは馬を深みに乗り入れ潮に溺れ死んだ者もあり。

 あるいは(乗員が多いので)乗せまいとする船に乗ろうとして味方に落とされて傷を蒙る者。

 あるいは船に乗り遅れて「その船待て!」と声高に呼んで、後ろの敵に矢も発さず太刀をも抜かず、ただ我先に船に乗ろうとあわてふためいて騒いでいると敵の的になって射殺された者は数を知らない。

 豊後の臼杵新介と言う者が胸板が浸かるほど潮に浸かって乗り出した。

 中国勢の船の舵に取りつき「これ!引き上げよ!」と言えば(毛利は)味方と思って船の上からさわやかに鎧を着た者が一人手を差し延ばして引き上げようとした。

 新介は敵の手をとって引き下ろし、潮の中に押し付け首を掻っ切って陸へはい上がった。

 このように手痛く攻めたが隆景以下宗徒の大将はつつがなく赤間関に押し渡り、鑑連たちは士卒を収め門司城に軍勢を込め置き、豊府に帰陣した。


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 道雪は譲り状で門司合戦のあった翌年の永禄5年(1562)10月13日に『豊前国規矩郡門司郷柳浦で中国勢と懸かり合い一戦を遂げ、冷泉五郎殿・桂兵部太夫・赤川助右衛門尉以下を討ち捕らえ、御感を為し(たので)刀一腰 作 壱文字を刈田陣で拝領した。』と書いていおり、これらの合戦で活躍したのは確かである。

 だが、門司城攻略までは至らず、毛利から取られた土地の一部を取り返すに留まっており、九州から追いだすまでは至ってない。


 実際に追いだせるのは1569年の7年後。


 立花山で対陣した際に毛利の後背である秋穂浦を突いて国元が混乱したため退却したのが原因なのだが、どうせ書くなら気持ち良い勝利の記載を丸写しした方が読む方だって気持ちが良い。

 まるで水戸黄門とか暴れん坊将軍のようなフィクションのお約束のような記述なのだが、『道雪さんの力でも門司では勝てませんでした』などと書けば追放だってされかねない閉じた封建社会。

 他国とのバランスを取りつつ、如何に波風を立てず自分の家を称える事ができるか、という良心の切り売りのような内容で本作はこれからも続くのであった。

 なお、大友家はそこまで大きい家ではないためか、子孫の一部が改易騒動でひどいめにあったためか、そこまで忖度はされてない。むしろ悪役として書かれている。


 大人の世界は汚い事を頭に置きつつ、次回もお読みいただければ幸いである。


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 お盆で休んだあと、久方ぶりに外作業をしたら夏の熱気は健在で熱中症による動悸やめまい。脱水による痙攣が起こりました。

 労働は体に良くないので辞めたいなぁと思いながらも、家に縛られてさらに大変な立花記筆者達に思いを馳せたのですが、郷土の大友家を悪く書いてるのでやっぱり同情の余地はないなと思いながら、筆というかパソコンを取る事にしました。

 義理人情って厄介ですね。

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