第7話 鑑連公 初陣の事③字が汚くて起きた悲劇
さて、ここまで読まれた方は
『年代的に明らかに間違っているのに何故間違ったまま書いてしまったのか?』
と首を傾げるかたもいるだろうと思う。
その理由として
『参考にした本の字が汚かったからではないか?』
という説に行きあたった。
何を馬鹿なと思うだろう。だが、本書の記述をみるとそう考えないと説明が付かない部分が有るのである。
では、実際に秋月文種の死が書かれた部分を読んでみよう。
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文種は叶わずに自害しようとして大橋豊後守という者を近づけ
「我は運尽きて自害せんとする。この時にいたって命は惜しいとは思わないが子供の事を思うとそぞろに涙が落ちる。我より先に子供を殺すべし。憂いを取って心安く腹を切ろう」
と言えば涙を押していた大橋はこれを聞いて大いに怒り
「幼少の方にはいかようになっても苦しからず。今に生け捕られ浮き名を流すより速やかに腹を切りたまえ」
と言えば、文種はもっともだと思ったのだろう。二言に及ばず腹を切った。
その後大橋が介錯して、攻め手の中に内縁の者がいたのでこれを頼むと(文種の)3人の子供を「我が子である」と言って城から出て養育し、つつがなく(日を送った)。
その後に九州に威を振るわせた秋月長門守種実、高橋左近大夫種冬、長野三郎左衛門種信はこの3人の子供である。
豊府の諸将は「秋月がすでに没すれば次は筑紫勢を攻めよう」と鑑連を先として筑前の弥永村・筑後国山隅村に陣を替え、8月中旬には肥前国に入って基肄郡(きいぐん=鳥栖周辺)に放火し、惟門が籠っていた河内山の城を取り囲み息をもつかせず攻めた。
このたびも由布源五左衛門・後藤市弥太は一番に斬って入り数か所の傷を負いながら城を乗っ取った。惟門は「かなわない」と思ったのだろう。城に火をかけて唐津の濱に落ち行き、船に乗り芸州へと渡った。豊府の諸将は軍を収めて帰った。
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この部分は大友興廃記と同年代に書かれた九州治乱記の『秋月・筑紫 謀反の事』と同じである。
子供を先に殺さないと自害もできないという言い草に呆れた部下のお陰で、自害する踏ん切りがついたという話である。
話を物語に戻そう。
戦述の話を書いた時、安東は一つ疑問に思った。
「なあ、山崎殿。この種実を連れて逃げた大橋という家臣の官位じゃが、豊前守ではなかったかのう?」
以前読んだ写本ではそう書かれていた記憶が有る。
第一豊後国は大友家が統治していた土地なので、あからさまに名乗る事は難しいのではないか?
そう思って、山崎が読んでいた写本を見ると
「………………これ、前と後ろどっちが正しいんじゃろうか?」
あまりにも癖のありすぎる字に2人は目を凝らした。
昔の本は基本的に手書きで書かれている。
人気のあった本は版木による印刷で摺られたが、九州のようなマイナーな軍記はそのような機会は無い。
そのため文字はその人間の癖が如実に表れる。
特に使用頻度の高い『候』という文字はほぼ○で省略されるし、花札の赤札に書かれた『あ可よろし』という文字は『あのよろし』と読まれる事が殆ど。
古文書を読む専門家でも草書で省略された『右』と『左』は区別がつかないし、書いている本人が間違っている事も殆どである。
なので字が似ている大友義鑑と大友義鎮の区別も字に個性が有りすぎると区別が付かなかったのではないかと思われるのだ。
暴論と思われるかもしれないが、立花記はこの次の章で大友義鑑の死について書かれているので年代を間違えているのは確定事項なのである。
なので
「まあ、この大橋某はここだけの登場じゃし、豊前だろうが豊後だろうが、どちらでも良いのではないかのう」
「そうですな。なんなら我々もこの字体を真似て読者の判断に任せる事にしますか。どうせ、次の話では大友義鑑公も亡くなられますし」
などと、解読を諦めた可能性すら考えられる。
実際に、あの読み難い書状を読んでいるとそれ位心が折れるのは仕方が無い。
興味のある方は、書名検索で大友興廃記の江戸時代書籍をネットで閲覧して見て頂きたい。とても苦痛な時間が過ごせる事だけは約束できる。
では次の話を読んでみよう。
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●鑑連公 攻抜 門司城の事 天文23(1554)年9月23日)P18
元弘以来、菊池・大友・小弐・大内は各々武威を顕し、西海道(=九州?)を争ったが菊池はすでに滅び、小弐は存在してもいないが如く(小勢力に)なっていた。
豊前・筑前・肥前・筑後の領主らは、今年は大友幕下、明年は大内の傘下に属しつつ手のひらを翻した。
(だが)天文の始めから大内義隆は富貴に淫し、武事を忘れていた。
大友義鑑は時が至ったと喜び豊肥を征伐し多くを幕下に属させた。
しかし義鑑は不肖にして前車の覆る戒め(=前車の覆るは後車の戒め。「漢書」賈誼伝の逸話で『前の車が覆るのを見たら、あとの車は同じわだちの跡を行かないようにせよという諺』から、先人の失敗は後人の教訓となるという例え)を知らず、(大内と同様に)内籠(=女性)に迷い天文19年に不慮の害にあっ(て死亡し)た。
20年には義隆も家臣の陶尾張に殺され芸防長の3州は毛利にも奪われた。
されば毛利は強大になって備因伯雲石の諸州を皆手に入れた。
おりしも大友義鎮は若年で九州の中は治まり難いと聞こえたので、(毛利は)この勢いで九州2島を治めとらんと天文23年9月23日に小早川左衛門佐隆景を大将として2万の兵で豊前国に押し寄せ門司城を囲んだ。
この城には大友より、ぬ(奴)留湯主水という者を城代として籠め置いた。
ここは元から堅城だったが不意の事なので防御の備が(間に)合わず、城中は大いにあわてふためいた。
(毛利の)2万の兵は切岸の下に ひた と付いて声を発して攻め上った。
その中に宍戸大学という者が鳥銃石弓を恐れず塀の上に登り持っていた弓を岸の下へ指しおろし、味方を20余人引き上げて切り入れば大軍も続いて攻め入った。
奴留湯は城を落とされ豊後へ落ち延びた。
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この文章の後半は大友興廃記より少し前に書かれた筑後軍記のさきがけ『九州治乱記』の『大友義鎮と毛利元就 鉾楯の事』を写したものである。
前半は本書のオリジナルだが事実と時系列を無視したデタラメ話だ。
まず大内義隆は肥前の少弐氏をほぼ滅亡状態に追い詰め、1534年には豊前から豊後の山香町まで攻め込むほど戦争続きの人生を送っていた。(豊後国荘園史料2P481)
逆に大友義鑑は侵略に来た大内義隆を撃退し、肥後の菊池氏に養子に行きながら大内に味方して大友家を裏切った弟の菊池義武を討伐できただけである。
この後1537年に大友と大内は和睦し、大内義隆は天文11年(1542年)1月に自ら出雲国に遠征して東の脅威だった尼子氏の月山富田城を攻めるが、配下の国人衆の寝返りにあって大敗。養嗣子の大内晴持を失う。
ここに至って、武断派の口車で多くを失った義隆は文治政治に舵を取る。
だが負けたと言っても大内の権力は十分あり、他国への侵攻は家臣に任せて継続している。
立花記の作者2人はこうした事情を知らず、偏見と無知から滅んだ両家にレッテルを張り、不必要に貶めようとしていると言っても過言ではないだろう。
というのも天文23年(1554)には大内家はまだまだ大内義長が健在であり、1557年に滅亡した後も残党討伐や領地経営などで毛利家は門司へ攻める力は無く、1561年になって初めて侵略をしているからだ。
この門司合戦1554年説は九州治乱記や毛利家の軍記『吉田物語』でも行っているミスなのだが、彼らは大内の治める山口を通らず、どこから門司に来れたのか聞いてみたいものである。
「へっくしょい」
「おや、風邪ですか?安東殿」
「いや、誰かから噂でもされておるのかもしれぬ」
煩雑なる書類の山に囲まれながら彼らが難儀していた事は想像に難くないが、それでも大友家の悪口…もとい誤りを後世に残した事は伝えておこうと思う。(私怨バリバリ
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お盆の間は殆ど寝てばかりでしたが、疲れは取れました。
明日からまた炎天下で働かねばならないのを考えると気が重いですが、皆さまも熱中症には気を付けて秋までお過ごしください。草々。
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