戸次道雪物語(柳川藩編纂の立花記より)
黒井丸@旧穀潰
第1話 立花家の歴史本を書いてみよう(柳川藩3代目)
カクヨムさんが毎日投稿したらおこずかいをくれるというので、前々から書きたかった話を掲載していきたいと思います。
種本は皆さまの支援で購入し現代語訳した『立花記』という柳川藩3代目 立花鑑虎が編纂させた本の内容を引用しつつ、その記述経過をねつ造した物語を書いてみたいと思います。
読み難い部分(主に引用部分と会話パート)が多々あると思いますが、お楽しみいただければ幸いです。
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「ふむ。この本はなかなか面白いのう」
元禄9年(1696年)。水の都、そして城の堅固さを示す唄として『柳川3年肥後1年、肥前・筑前、朝飯前』とうたわれた柳川城(福岡県柳川市)を受け継いだ立花家の当主、立花鑑虎は自然と言葉が漏れた。
この年、大阪の樋口好運が「武家高名記」という本を出した。
これは征夷大将軍の由来から始まり源頼朝から徳川家までの武家の事績を記した本で武将伝220巻。武臣伝10巻。槍闘分捕11巻、感状8巻という大作である。
そのほとんどは幕府に関連した武将が主で九州の、それも一国にも満たない柳川藩では関係のない話だったが、この年の7月4日、隠居して家督を次男の鑑任に譲り隠居して政務から解放された鑑虎はある事を思いついた。
「当家でも同じような記録を作ってみたい」
人は年を取ると趣味に走る。
蕎麦を打ったり、盆栽に凝ってみたり、自分のルーツや郷土の歴史に興味を持ってみたり。
鑑虎は最後のタイプだった。
これは現代でも同じで東北や横浜から自分のルーツを探しに大分市や佐伯市に来られた方にお会いしたことがある。
というか筆者も県立図書館で資料探しをお手伝いしたり名所案内したこともあった。
ただ、彼が常人と違ったのは元11万石の大名だったことだ。
「安東省庵を呼んで参れ」
隠居したとはいえ、凛とした声が響き渡った。
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安東省庵とは柳川藩の有名な儒学者である。
『三忠伝』『恥斎漫録』『省庵文集』『省庵遺集』などの著作がある藩の学者として『柳川史話』ではかなりの紙数を割いて功績を紹介している。
幅広い学問に通じ、学派に偏らない本来の精神を追求し、生活は清貧に甘んじ、実学を信念とし、論語のような生活態度をし、伊藤東涯から“西海の巨儒”と呼ばれたという。(WIKIより)
ネットも百科事典もない時代、博識、生き字引という存在は大変貴重で、調べ物や家譜を作るのに欠かせない存在だった。
まあ、中には沢田源内という系図に詳しいふりをして偽家系図を作るエセ学者もいたのだが…
「殿。このおいぼれにどの様な御用でございましょうか?」
太い眉に立派な白髭。太い鼻に大きく見開かれた眼は中国の道士を思わせる風貌だった。
無骨な人相とは裏腹に所作は優雅にして静か。
言葉を話す際には様々な事象に鑑みて重く口を開く。
知に優れた学者としての完成形がそこにはあった。
まあ作者が安東省庵の肖像画を見て適当に想像で書いているのだけなのだが…
鑑虎は省庵に武家高名記を差し出し、自分の家でも武将伝の一つでも書いてみたい事。そのために安東省庵の力添えを得たい旨を告げた。
「なるほど」
安東省庵も、この本の存在は知っていた。
この筆者である樋口好運は、同じ九州北部筑前の黒田藩おかかえの医師にして儒学者、貝原益軒とも交流があり、その流れで読んだことがあるからだ。
なお2人とも松永尺五(せきご)の門下生である。
だが、彼は自分がこの事業にかかわることの難しさを3つの点から痛感していた。
一つは年齢の問題。
老齢で心身ともに衰えた彼では完成前に亡くなる可能性が高かった。
実際、安東省庵は1701年に死亡している。
いくつも本を書いたゆえに、それに費やされるエネルギーが尋常ではないこと。己の頭を文字通り絞り出す苦行であることを心得ていた。
これでは大量の書状に目を通し編纂する大役は担うのは難しい。
それに元禄4年(1691)70歳で「続古文真宝」を書きあげた省庵だが、「新増 歴代帝王図」を書きたくあり、別の仕事に携わる暇が無かった。
なお上記の本は元禄13年(1700)79歳で書き上げたと言う。元気だな、オイ。
2つは、名を得た学者としての地位ゆえに、家伝書の作成には制約がかかりすぎることである。
立花家は関ケ原の戦では西軍につき、家を取り潰された後に復帰した過去を持つ家である。
その中には戦で活躍したが後継ぎがなくなった家、逆に立花宗茂が東国の棚倉城主となった後に、そこから従ってきた外様的家臣など、内容によっては顕彰せねばならぬ家と、それとはまったく関わりのない家がある事である。
ある家は顕彰され、ある家は記述が無いのでは嫉みが生まれる恐れもある。
むろん安東省庵は筆を曲げる気はなかったが、それで藩が分裂しては元も子もない。
そして、さらに最大の問題があった。
「恐れながら、大殿。この事業には最大の難関がございます」
他の問題は努力次第でどうとでもなる。
自身の健康に関しては、若い者に任せ己は補助に回れば、たとえ自分が死のうとも事業はいつか達成されるだろう。
また、家中の件も編纂される本が藩の正式なものではなく読み本として格を落としたり、好事家にだけ読まれるようにすれば時間はかかるが完成はできるだろう。
だが、それでも今の自分ではどうにもならない難問が立花家にはあった。
それは
「立花家には吾妻鏡や太平記のような、先祖の事績が見つかっておりませぬ」
分からないものは書きようがない。
この問題をいかにして解決するか?
それが立花家の記録を書く際の最大の障害だった。
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立花記は内容が短い(というか大友興廃記23巻P541が長すぎる)ので大友興廃物語とはちょっと異なり、本作では本文の内容をほぼ引用したいと思います。
というのも立花記は今のところ活字化がされた事のない本だからです。
キンドルで出版もしましたが、だいぶ時間も経過したし、珍しくて立花家ファンにもしられていない本書の存在が少しでも知られる事を願いつつ、書いていきたいと思います。
お付き合い頂けたら幸いです。
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