第15話◇9月3日 休松の戦い P54

 今回は戸次一族が5人も死亡した休松の戦いです。

 長いので、余計な小話は無しで現代語訳を掲載します。

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 9月3日の早天に種実1万3千騎を4隊に分けて休松へ押し寄せた。

 まず先鋒は秋月治部少輔・内田善兵衛3千。中軍は綾部駿河守5千騎。後軍は(秋月)種実 自ら3千騎を引率した。

 先鋒は江利内蔵助・上野四郎兵衛1600騎を押し詰めて三木を種実の本陣とし、前陣を休松へと押し寄せた。

 道雪はこれを見て吉光と休松の間に霊旗(そらはた=偽の旗?)を多く立て、我陣の勢を繰り出す。

 先鋒は小野和泉・由布美作500騎。中軍は嫡子伯耆守鎮連・三池上野介(上総介?)子息、源十郎800騎後軍は道雪 自ら500騎殿軍は内田壱岐守・堀安芸守600騎である。

 道雪は先鋒に混じって敵の様を遠望し

「今日の戦、我勢は必定勝利なり」

 と言って本陣に帰った。

 由布美作は大音をあげ

「敵の陣は雁行(の陣)だ。雁は北へ帰るもの。北は逃げると読む字だ。我勢の中軍は方円、後軍は衡軛(こうやく)の陣である。

 方円は艮(うしとら=北東)。衡軛は巽(たつみ=東南)である。

 巽は雷風であり、我が軍は雷や風のごとく切ってかかれば秋月勢は備を乱して逃げかかることは必定である。老功無双の名将の見給う所はつゆばかりも違わない。進めや、若者ども」

 と言って500人をまん丸にして士卒を勇め、真っ先にかかった。

 秋月治部少輔と内田善兵衛3千騎に会い(攻め)かかりにかかり、槍をあわせると道雪の物頭 竹廻新次兵衛・綿貫勘解由・京都鬼角兵衛・安東右馬允 軽卒200人を左右に分けて弓鉄砲を放って攻めかかった。

 秋月の先鋒が色めいた所を小野和泉と雪下の弟 由布五兵衛が槍を合わせ大勢を突き伏せ戦ったが五兵衛をはじめ34人が戦死した。

 和泉と美作は当たるを幸いに打ち伏せれば150人の兵どもが一度にどっと突きかかる。火花を散らして戦えば敵はもとより衆師(=烏合の衆か?)で、おっとり包みあまさらしと操った。



 あまりに強い戦だったので安東右馬の太刀は折れ、敵と引き組み、楽に刺し貫かれ死んだ。これをみて綿貫は馬を勇め大音上で「帯刀先生の後胤 綿貫勘解由!」と名乗り、大勢に割って入り数多の敵を討ち取って、ついに戦死した。

 この勢いに敵陣は少し色めきたったが進士兵衛、免角兵衛70人が一度にどっと切ってかかり良い武者を数多討ち取って3町あまり追い退いた。

 2番 綾部駿河守5千騎が入れ換わって進み、鎮連の陣を取り包もうとした。

 鎮連は600騎馬を左右に分かれ3か所よりかかって戦うと進士兵衛・鬼角兵衛・勘解由・右馬允200人ぬき連ねて左右の脇より切って入り、秋月勢を2町ほど追い退けれた。

 治部少輔2千騎がまた入れ換わり道雪の本陣に突いてかかった。

 道雪の物頭吉田右京・海老名弾介が軽卒300人を一隊にして抜きつれて切ってかかる。

 種実の本陣に助け来ると道雪の殿軍 安芸守、壱岐守 600人がわめいてかかった。中でも三池上総介の子息、源十郎に三池紀伊の一族と家の子300人が綾部の陣に割って入り面もふらず戦って、よい武者21人を討ち取って後ろへさっと退れば上総介をはじめとして兵24人戦死した。

 これをみて道雪方より黒糸おとしの鎧を着て栗毛の馬に乗った武者がただ一人駆け出て

「知尾大明神の後胤に大夫惟基が26世の孫 十時右近大神の惟忠という者なり先祖 惟基の武名を汚さぬ兵と九州二島の内に知らざる者はよもあらじ。手並みの程をみせん」

 といって大長刀を振り回し、大勢に割って入れば鷹隼の奮怒(=奮闘?)して群雀(のような敵兵)を討つに異ならず。はらりはらりと薙いでまわれば面をむかえる者もいない。

 さしもの大勢もただ一人に切り立てられ四方にばっと走り散り、弓鉄砲を放ちかけた。

 右近の鎧に立つ矢は蓑毛の風に乱れるようであった。

 その身は鉄石でなければ数多の敵を討ち取って、ついに討ち死にした。

 道雪はさいはいを上げて「右近を討たすな!続けものども」と指揮すれば本陣後陣も一度にかかり、互いに手痛く戦った。

 道雪は鞍かさ(=鞍の上)に立ちあがり「足達宗圓は早、死にたりと覚えるぞ」と言えば宗圓は10杖(丈?)ばかり前に進んで戦い「これこれご覧候へ」と言って43(人を?)投げた。

 その後、互いに入り乱れ大勢が隙間なく本陣に討ってかかる。

 道雪は采配を腰に指して中間 観蔵に持たせていた長刀を取ろうとすると観蔵は大いに怒り

「我々が1人も残らず討死した後に、大将は御手をおろさせ給うべし」

 と言って持っていた長刀の鞘を離し、道雪の前に立ちふさがり進んで来た兵を18人まで切って伏せた。

 道雪は大いに褒美して(観蔵は)たちまちに侍になり渕十八兵衛と名乗らせた。

 道雪は太刀を抜き、自ら手を砕いて戦うと、良き敵を数多討ち取って秋月勢を10町あまり追い退け、首実験し勝鯨波(かちどき)をあげて繰り引きに引き取った。

 この時、道雪方にも弟の中務【大】少輔鑑方、戸次刑部少輔、戸次治部少輔、戸次兵部少輔、戸次右京亮親正、一万田隼人佐を始めとしてその他屈強の郎従が戦死した。

(また)橋爪蔵人を始めとして数か所の傷を受ける者も多かった。

 種実は敗軍の士卒を集めて「今押しかけて一戦しよう」と勇めば治部少輔を始めとして物頭ども一同に

「吉光と休松との間に旗手多く見えれば臼杵・吉弘の助けが来たのかもしれない。この労兵で彼の新兵には会い難い」

 と言えばさしも明智の種実も霊旗(=偽の旗)とは知らずに「もっともだ」と軍を収めて弥須郡に野陣していた。

 この間に古処山を越えようと臼杵吉弘の両将は進むと種実は帰陣したと聞き、ことさら短日のことなので夕方になれば士卒を収めて庄山へ帰った。

 その夜は風雨が激しく目指すも知らの暗夜なので種実は上野四郎兵衛・江利内蔵介を近づけて「諸国のかり武者は走り散って豊州勢も逃げ仕度をしているだろう。鑑理・鑑速は勇将で心は勇んでも士卒はさぞや億しているだろう。今宵の西風に紛れて夜襲して庄山の寄せ手を追い払い、明朝の霧にまぎれて休松へ押し寄せて道雪を切り崩し今日の無念を散らすべし。汝ら向こうを見よ」

 と言って2千騎を授けた。

 上野と江利は2千騎を5隊に分けて庄山へ押し寄せて無二無惨に切り入れば鑑理・鑑速は「大音声、何事あるか?」と松明を出し、物具沸いた者たちを印に「討て!汚し!返せ!」と制したが大勢が立ち退いたので行伍も揃わず逃げれば利光兵庫介を始めとして豊州の武士どもの多くが討たれた。

 討ち漏らされた者どもは千手小熊まで退くのもいた。

 山を走り通り長者原まで退いた族も多かった。

 鑑理・鑑速の両将は心は猛く勇んでも走り行く我勢を制しかねていた。

 上野江利は隙間なく追いかければ、落ち行く勢の中から

「太宰少弐資頼の後胤で、筑紫の末葉 筑後国■竹野郡(字が判読できず)の住人。伊部与兵衛藤原鎮光」

 と名乗って主従9人が取って返した。残り少なく戦死し我が身も傷をこうむった。

 この間に両将は筑後国へ引き取った。

 道雪は昼の戦に勝って、猶も怠りなく士卒を集めていたので士47人、雑兵109人。合わせて150人には遇わなかった。(=計算が合わない。41人を忠臣蔵にあわせて一を七に変更したか、156の6が脱字したのかは不明)

 宗像の大宮司 許斐左馬頭氏貞は道雪に使いを出して言うに

「請国のかり武者引か(=退く?)べし。御手勢今日大半戦死したと承る。種実は負けたが無双の勇将なので、特に多勢なればかさねて一戦致すべし。先ずこれに入り手負を助け、士卒の労を休め、豊府へ帰陣し衆勢を催して、重ねて秋月征伐をしたうまべきです」

 と言えば(道雪は)

「丁寧に仰せを受けたまわり祝着いたします。幸いながら今日の合戦に一族郎党ことごとく戦死し、我々人体国に帰り、残り留まる一族郎従の妻子に対面していうべき言がない。ここで戦死しして戦死の一族郎従の恩を謝せむ」

 と返答して夜討ちの用意をした。そこへ豊府にいた十時新右衛門が

「諸国のかり武者が逃げ帰り、近日毛利が渡海して大事の合戦があるだろう」

 と聞きつけて、夜を日に経て馳せ来た。

 その夜に着いたのは幸いである。道雪は涙を流し

「汝の親の右近は数度の戦功累積して今日は我が為に戦死した。鑑方を始めとして一族郎従残らず戦死したので今夜風雨のまぎれに種実の陣所に押し寄せ一襲して、汝の父を始めとして討たれた者どもの思いを謝せんと思う。去る立花の切岸にて汝の父と和泉、宗圓の3人は我先に勝った。吉例なので和泉、宗圓、汝の3人で先鋒をせよ」

 と150人の兵たちを白布を首にかけ、これを味方の相印として「誰とはあり」と答えようとして士卒が呼ぶのをみて

「さぞさぞ大剛の者共かな。我勢多傷を被り戦死して、残る者どもは士雑兵たち 一騎当千のものである。いざ、打ち立たん。者ども」

 と言って将机に腰をかけながら、したたかに飲酒をしたためて押し寄せた。

 秋月方は敵が寄せてくるとは思いも寄らず冑を枕に、或いは小手臑当(=原文では月へんに雪だが、臑(すね)の誤字と思われる)枕として前後もしらず眠った。

 小野・十時・足達は篝火を「はっ」と打ち消し、真っ先に切って入れば、道雪を先登りとして150人の兵どもが一度にどっと討ち入り、ここに現れかしこにまぎれ、縦横無尽に切って回る。

 驚いた秋月勢は「鎧鞍長刀はどこにあるぞ」とひしめいて、父は子を捨て、主は従者にはなれ、我先にと逃げればさしもの種実もかなわずして一騎がけに古所山へと走り入りった。道雪方は大勢を山際まで追いつめ、よき敵を数多討ち取って我勢をおさめ静かに軍を繰り直し人次原まで引き取り、猶も臼杵・吉弘を申し合わせ古所山を攻め落とさんと謀った。


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 大友興廃記では、道雪が「備とは四季五行(季節と方位に合わせる事か?)を専らとするが、天運で形を変えるものだ。敵は何故か春に雁行を構えた。春の雁は「帰る」。また浮雲は「ふうん」と言う。陣も道雪は東を司り「木」、秋月先陣は北を司り「水」である。春の水は老いで、行を乱して当たれば皆勝利する」と兵に告げた。と陣形の話がありましたが、本作では由布が言った事になってます。

 また九州治乱記では

『この戦いで戸次中務丞鑑方、治部少輔親宗、刑部少輔親繁、兵部少輔鑑堅。家来では十時右近太夫、安東右馬允、綿貫勘解由をはじめ50人(が討死した)と聞く』

 とあり、宗麟が9月8日に発給した書状に書かれた

『舎弟 中務少輔(鑑堅)・戸次兵部少輔(鑑方)、戸次刑部少輔(親繁)、戸次兵部少輔(鎮方)、隼人佐・右京亮(先宗1020号)』

 ともあり人名に微妙な違いが見えます。一万田の字は写し間違いかもしれません。


 なお、本書では中間という名称がこれより何度も登場します。

『中間とは平時は雑用を行った奉公人とか下男のような存在』らしく『中間は小者とともに非戦闘員に属した。戦時には小荷駄(こにだ)隊を形成し、平時には雑務に従った。苗字(みょうじ)帯刀はいっさい許されなかった』存在で、およそ豊後の軍記物で名が書かれる事はほとんどない存在です。(コトバンク; https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E9%96%93-97157 )

 立花家の記録でも有馬一揆旧記では『中間 壱人』『中間 弐人』など数だけが書かれています。

 そんな存在の名を書く本書はよほど詳しい記録を入手していたのでしょう。

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