第13話 道雪 筑前征伐抜 岩屋囲宝満山① 1566年2月中旬 P35

 江戸時代の文書には「かぎかっこ」がないため、どこまでが会話でどこまでが地の文かわかりにくく現代語訳時に難儀しましたが、大友と毛利が再び戦う前に九州の不満分子を扇動した高橋鑑種という売国奴の記述です。

 本作は九州治乱記の『高橋三河守謀反の事』と同じ話ですが『鑑種は傲慢なくせ者です。忠義を知らず、才知はあるようで思慮は短く、血気の勇者です』という悪口はカットし、逆に高橋記の『高橋鑑種 逆意の事』で、兄嫁を奪われたからという説もある。という文を記載してます。

 おそらく立花宗茂の父、高橋紹運が高橋家を継いだので、それによる配慮と思われます。


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「さて、宗麟の悪口も十分書いたし、そろそろ本題に移るとしようか」

「大友家による筑後・筑前出兵ですな」

 元々宗麟が当主に就任した時、筑前は大内家に属していた。

 ところが大内義隆が反乱で討たれ、その反乱者も毛利に討たれて大内家が滅亡すると、筑前や豊前の領主は大友と毛利どちらに付くかで分かれた。

 そして、ある程度の力のある領主は毛利と通じて反乱を起こしたのである。


 例えば次のように

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 筑前岩屋の城主 高橋三河守長種の先祖は、足利家が世を取りし時に九州を治める三検断職の一つである。

(三検断職=九州の治安を取り締まる3氏。検断とは「検察」と「断獄」を合わせた語で、不法行為を検察してその不法を糾弾して罪を裁く断獄をする職)


 長種は天文の始めに病死して子がいないため大友の親族 一万田弾正の弟に高橋を継がせ岩屋城主とした。

 これを高橋三河守鑑種と言う。


 鑑種は元より姦佞利欲の者で口給邪洩(=弁舌)の才が有り、武芸にも疎くなかった。なので宗麟はこれを愛し「才覚武勇で彼に過ぎたる者はいない」と同姓家老の上に越え、第一の執事(=家宰(かさい)室町時代の武家に見られた職責で家長に代わって家政を取りしきる職)とした。

 しかるに(鑑種は心の)内に宗麟を不徳と察したか、(それとも)兄の一万田弾正が罪もないのに殺された事を憤り、その恨みに報いようと思ったのか。

(✖一万田弾正は1553年に謀反の罪で服部、宗像氏と共に誅伐されています)

 永禄9年(1566)2月中旬、(鑑種は)秋月文種の子供が芸州にいたのを密かに呼び出し

「(鑑種と秋月は)父子の誓いをして城と廓を構えたと沙汰があれば、豊後の大勢は岩屋・宝満山に押し寄せて取り囲むだろう。(そこで秋月は)毛利の援軍を待ち、本領なので秋月の古城に来て後ろ攻めをするべし」

 と言い合わせて芸州に帰した。

 その上、筑紫上野入道良薫の子左馬頭広門が芸州にいたのにも

「急いで岩屋・宝満に立てこもり筑紫の将を調略しつつ足下(=自分の城)も毛利の助勢を頼って旧国肥前に立て帰り、河内山の古城に籠り旧臣の余党を集め肥前の国士を調略すべし」

 と言って送った。

(彼らは)もとより毛利と内通していたので毛利の密書で豊筑肥6州の国士を透かしつつ4月上旬より宝満山に城郭を構え方々のあぶれ者を召し抱えて国中で狼藉し兵糧を運びいれた。


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「高橋・秋月・筑紫と一度に反乱を起こした手腕はさすが毛利家と言ったところか」

 海を隔てた場所に拠点を得る場合、内通者を作って上陸するのが上策である。

 これは大友家も同様で、味方を作った後に幕府から守護職を得て合法的に占領する事が多かったが、そのような手順は踏まずに反乱を起こさせるのが毛利の手法となる。


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 広門も芸州から帰り河内山の城に籠って旗を上げ、旧臣を集めて同国の佐賀城へ使いを出して(龍造寺隆信に言った)

「広門は本城へ帰り義兵を上げること、偏に毛利家の援兵のためである。

 高橋三河守鑑種を棟梁として豊前に千手・長野・城井・後藤寺。

 筑前に宗像・麻生・原田・杉。

 筑後に星野・西牟田。当国に大田・馬場・波多が随身した。

 足下(=龍造寺)はもとより大内の旧交があった上、内に申し合わせことごとく佐賀城に義兵をあげ、近隣を攻め靡かせ大友幕下国士の領地を奪い、豊後衆が出陣するならば様々につり留めてあしらいたまえ。その中で秋月種実を先鋒に、吉川小早川を大将として毛利の大勢が後攻めする。そうなると豊後勢を中に取り籠めて討ち取ろう」


 と言い合えば龍造寺山城守隆信は兼ねて期したる事だったので、承諾し、使者に引き出物を添えて


「大友幕下の国士を没頭しよう」

 と企て、筑肥2州は上へ下へと騒動した。大友宗麟はこれを聞いて

「筑紫の事はさてあるべし(=予想通りであるが)、鑑種の謀反とはさらさら以て予想もしていなかった」

(と、言い)吉良五兵衛を岩屋に遣わして実否を問いかけるまで(出陣を)引き延ばした。その間にも高橋や筑紫も城を構えて思うままに拵えた。


 戸次丹後守入道道雪と吉弘左近大夫鑑理・臼杵越中守鑑速はかねて用意していた事なので吉良五兵衛が帰ると同日に我兵を引き具して豊府を発して筑前へ征伐した。



 吉岡下総入道宗歓・斉藤兵部を先として志賀・朽網・佐伯等は後日に出勢した。

 戸次・臼杵・吉弘は6月7日に「岩屋・宝満の両城をひともみして破ろう」と言い(両城へ)押し寄せた。高橋鑑種は8千騎を従えて出陣し竃門山の麓で散り散りに攻めて戦った。

 道雪たちは士卒を励まして真っ先にかけ、手を砕いて戦えば鑑種はついに討ち負けて、勢を収めて両城へ引きこもった。

 中でも臼杵鑑速は敵が退入った勢にのり、(敵と共に城に入り)我勢を励まして岩屋の城の笠にあがり、息をもつかさず攻めた。

 裏の手を攻め破り、城内に入ってそこらに火を放ちかけ縦横無尽に切って廻れば、たちまちに城をのり崩し、籠っていた士卒2千人の大半が討たれ残兵は方々に逃げた。

 鑑種の頼りきった岩屋の城代 足達兵部を始めとして数百騎の兵を臼杵は討ち取った。

 戸次・吉弘の両将は逃げる兵を追い慕いて鑑種が逃げ籠る宝満山に押し寄せた。

 この山は九州に3つの高山で山上に城郭を構え岸高くして坂は険しい。そのうえ(高橋は)塀を塗り櫓を上げ矢狭間に鳥銃の巧手、強弓の善射を選んで置き、石弩荊梁にいたるまで用意して大木大石を落とした。

 鉄砲を放ち、やにわに手負い死人はおびただしく、攻め手は矢石を避けようとして楯の端を少し動けば鑑種の強兵300人を左右に立てて門を開き、笠より降ろして道雪の本陣へ会釈もなしに掛った。

 北原・屋山・伊藤・萩尾・今村・有馬・成留 以下屈強の兵たちが大将に組もうとする。

 道雪の家臣 安東市之允が槍を合わせて多兵を突き立てれば、そこへ妻手(=左)より鑑種の兵が塗木の弓に矢を打ち、3間(約6m)ばかり離れた大将を狙い(矢を)放とうとした。

 道雪が危うく見えたので「肥後国の位人 相良氏族 内田民部少舗」と名乗って(家臣が)道雪の矢面に(立ち)塞がり、よき敵を多数討ち取って数人に手(傷)を負わせ、ついに戦死した。

 これを見て息(子の)出羽守・弟の壱岐守・由布源五右衛門・由布五兵衛・小野弾介・十時摂津・十時伊予(守)・綿貫勘解由・安東紀伊・安東善内兵衛・足達壱岐・足達対馬・植木甚介などという大剛の兵どもが鉾を並べ切ってかかり、鍔を割りシノギを削って、ここをせんどと戦えば、さしもの鑑種もかなわずと坂より上に追い上げられた。

 弓・鉄砲を放ち、道雪方にも十時伊予・足達壱岐・植木甚介・綿貫解由、安東善内兵衛を初めとして多数が戦死した。

 夕陽になれば道雪と鑑理は勢を収めて退き、麓に陣替えして宝満山を囲んだ。

 そのような時に不慮の事が起こった。


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 高橋鑑種は3度謀反を起こしており初めて裏切ったのは永禄5年(1562)。

 この年の8月6日に大友家の加判衆は崇福寺の炎上した堂塔復興を高橋三河守(鑑種)に命じ (先宗783)、11月24日に高橋三河守(鑑種)が大友家を裏切ったので、宗麟は筑後の問注所氏へ高橋誅罰を命令しています(先宗818)

 このあと鑑種は大友家に降伏するのですが、宗麟はこの裏切者を許し3月13日には高橋鑑種に豊前の田河郡池尻村30町を宛がう書状が出されます。(先宗949)

 ところが永禄9(1566)年11月18日に高橋三河守が再び裏切ります(先宗966)

 立花記は、この2回目の裏切りだけを書いているようです。


 なお鑑種の兄、一万田氏が1553年に大友家から討伐されたのは、家老たちが間に入って交渉をした結果、調停が破断して討伐されたようで(先宗299号)、罪もないのに討たれたと言う記述には疑問が有ります。

 また高橋記を読むと、鑑種は元々高橋家に仕えていた北原という家老たちにそそのかされて反旗を翻した可能背も考えられなくはないですが、史書では裏切りの原因がはっきりしないため保留とさせていただきます。


 なお後半の戦いは、戸次の家臣の活躍を中心に書いておりほぼオリジナルの話といえるでしょう。

 高橋鑑種が裏切って討伐を命じられたのは11月18日の書状の話なので、反乱開始の月を6月とするのが正しい話なのかはわかりません。(先宗966)

 なお北原・屋山・伊藤・萩尾・今村は高橋記に登場した代々の家臣ですが有馬・成留の名は見た覚えがありません。


 余談ですが肥後の相良氏の一族と名乗っている内田氏ですが、立花家の家臣では内田 鎮家という人物がおり、岩屋合戦の後に立花城に迫った島津軍に偽りの使者として乗りこみ時をかせぎ、援軍到着を知った島津諸将に斬られそうになるが、忠臣として立花城に送り返された人物がいます。

 柳河開城後は、清正に仕える事を潔しとせず帰農したそうです。

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