黒髪の彼女
「先週も伝えましたが、来週の授業は自由参加です。課題レポートの締め切りはは12月23日ですので、忘れないように」
オーディトリウムの一番低い所、大きなホワイトボードの前で、教授が課題の詳細について説明を始めた。
期末試験の代わりに与えられた課題は、地方自治に関連するテーマについて、深く掘り下げて考えをまとめる、というものだ。地方自治に関わることであれば、テーマは自由。課題は個人でもグループでも提出でき、グループの場合は最大3名まで。人数が多くなるほど要求されるクオリティーも高くなる。
与えられた時間は2週間。独りでやるか、グループを組むか、難しい判断を迫られる。
試験の代わりにレポート提出と聞いた時、とりあえず試験勉強はしなくても良いと、アツシの脳の浅い部分は喜んだ。しかし、実はレポート形式での評価の方が、この単元に対する理解度の深さ、課題に対する真剣さが、より明らかになることも分かっていた。ヤマをはることも出来ないし、効率よく試験対策をすることもできない。費やした労力の差が、そのままレポートのクオリティーに反映する
グループワークには仕事を分担できる利点と、濃い内容が求められる難点がある。アツシの頭の中の天秤で、前者の利点に軍配が上がった。圧勝だった。
タツヤは深く考える様子もなく、誘いに乗った。
教授の説明が終わると、アツシは席を立ってノートをリュックにしまいながら、
「とりあえず今週末に市議会選の告示があるから、候補者を調べるところから始めるか?」
と。席に座ったままのタツヤに話かけた。
タツヤはクイっと顎をしゃくって何やら合図を送った。通路にはみ出して立っているアツシは誰かの邪魔をしていたらしい。
「あぁ、ゴメン」
と道を空けようとしてアツシの体が硬直した。そこに立っていたのは、あの黒髪の彼女だ。
女性恐怖症というわけではない。しかし、意識をしている異性と面と向かった時、普段通りに言葉を発したり行動したりできなくなってしまう。脳の神経がショートを起こした状態で、アツシの体は動かなくなってしまった。
一瞬の沈黙。そこに、死角から投げ込まれたように、タツヤの声が飛び込んできた。
「アツシ、この講義の課題のことだけど、市議会選の候補者の何を調べるんだ?」
セリフを棒読みするような、不自然な言い方だった。
その声がスイッチになって、落ちたブレーカーを上げた時のように、ブワッと音を立ててアツシの頭が回転を始めた。
「あ、ああ。そうだな」
アツシはやっとそう答えた。答えながら、黒髪の彼女に道を譲るように通路を空けた。
すると、黒髪の彼女はアツシの顔を見上げて、驚いた様子で尋ねた。
「あの、、市議会選挙についてレポート書くつもりなの?」
蒸留水のように透き通った声だ。
「あ、ああ。そのつもり」
「私も同じこと考えてた。ってゆうかみんなそうか・・・」
彼女が言い終わらないうちに、かぶせるようにしてタツヤが、
「じゃ、一緒にやんない? こういうのって人数多いほうが楽しいじゃん」
と誘った。
「タツヤ、ファインプレー!」アツシは心の中で拍手を送った。
「確かに。どう?」
上ずりそうな声を抑えながらアツシからも誘う。
一瞬の考え込むような素振りの後、黒髪の彼女ははにかむような微笑みを見せて、
「いいですか? じゃあ、お願いします」
とちょこんと頭を下げた。
「決まり。じゃあさ、これからカフェテリア行って打ち合わせしない?」
タツヤの提案に、黒髪の彼女は、小さく頷いた。
タツヤは立ち上がって、
「ところで、オレ、タツヤ。こいつはアツシ」と簡単に自己紹介をした。それに対して、彼女は「金城です」とだけ言った。
淡泊な自己紹介だが、聞いてもいないことをべらべらとしゃべる女子よりはよっぽど好感が持てる。アツシは一人うなずく。
カフェテリアへ向かう途中、3人は金城さんを真ん中に並んで歩いた。アツシは、タツヤの顔を見る途中に金城さんの顔がある、という体で金城さんの横顔を眺めながら歩いた。
和らぎのある瞳、流れるような鼻筋、知的な口元。傾きかけた冬の夕日に照らされる彼女の顔は神々しさすら感じた。透明な素肌という表現の見本のような色白の肌と艶やかな黒髪とのコントラストが、幾何学的な美しさを放っている。アツシの鼓動が高鳴る。
久しぶりのトキメキに、「ヤバい。俺の心臓の音聞こえないかな?」と、聞こえるわけもないのに、そんな事を考えて喜んだ。
それにしても、こういう時のタツヤは本当に頼もしい。自分が金城さんに興味を持っていることに気づいて誘ったのか、それともただの天然か? どちらにしても、タツヤと共同で課題をやろうと決めた自分の判断が招いた金城さんとの偶然の出会いだ。
「ナイス判断、オレ」と自画自賛するアツシにとって、既に課題の成績などどうでもよくなっていた。
アツシは決してモテないタイプではない。外見もそこそこだし、悪癖があるわけでもない。女性から言い寄られたことも、過去に何度かあった。しかし、気になる異性を前にすると、好意を持っていることを素直に表に出すことができず、通常の神経回路が働かなくなる。過去の傾向をみても、好意をよせてくれる女性は、自分が意識をしていない人ばかり。自分が好意を寄せている女性には、好意を寄せてもらえない。どうやってこのジレンマを克服するか。
「平常心だ。普通に会話をすればいい」
そんなことを悶々と考えている間に、タツヤと金城さんの間で会話が盛り上がっていた。
「出遅れた」
しかし、ここで無理やり会話の流れをこちらに向けようとするのは余りに浅ましい。会話を邪魔しない程度に、適当に相槌を打ちながら、会話の流れをこちらに持ってくるチャンスを待とう。そう思っている間にカフェテリアに到着してしまった。第一幕は出番無く終了。
「ここから第二幕だ」
心の中で仕切り直す。まずは存在感をアピールしなくてはいけない。アツシは出来るだけ自然に、そして精一杯の爽やかさで、
「注文しとくから、先に席取っといてよ」
と、2人に促した。
冷静に考えれば、むしろ注文をタツヤに任せて、自分が金城さんと一緒に席を探す方が、2人きりの時間が稼げたはずだ。数分前の反省も空しく、既に通常の神経回路は働かなくなっている。
「何がいい?」と聞くと、タツヤは「カフェラテ」と言ったが、金城さんはリュックからサーモボトルを取り出して
「私、これがあるから」と、手で「ゴメン」のジェスチャーを見せた。
後で聞いたことだが、金城さんはいつも真空断熱のサーモボトルを持ち歩いているらしい。家で温かいお茶を入れてくるのだそうだ。「お金の節約」と微笑んでいるが、本当はお金の問題ではなく、環境に対する意識が高いのだ、と勝手に想像した。
毎日のように、何気なく使っている使い捨ての容器。自分が消費する量は小さな量かもしれないが、世界中で何億という人間が同じことをしているのだと思うと、その量たるや想像を絶する。これらの使い捨て容器を供給するために行われる資源乱獲や自然破壊、使用後のゴミが生み出す環境破壊については、ネットニュースで目にすることはあったが、真剣に考えたことはない。自分が解決できる問題では無いとも思っていた。しかし、個人の小さな行動の積み重ねなんだろうなと、アツシは金城さんに対して尊敬に似た感情を抱いた。
席に着くなり、アツシとタツヤは金城さんに驚かされた。
「これ、今度の市議会議員選挙の候補者リスト」
と、候補者の名前とプロフィールがまとめられたノートを広げた。
「まだ告示前なのに、どうやって調べたの?」
驚きの声をあげるアツシに、金城さんは少しバツが悪そうに「ネット情報」とだけ言った。
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