目標

「でっかいことをやりたいんだ?」

杏子は椅子に深く座り直し、進路指導の先生のような口調で尋ねた。

大人の女性と小さな部屋で2人きり。タツヤは柔らかな蔦で体を縛られたような緊張感に心をくすぐられつつも、子供扱いされているようで、一抹の残念さも感じた。

「就活はしてないの?」

「してないっス。自分は起業家タイプだと思うんで」

タツヤは少し大人ぶって言う。

杏子は机の上の書類をパラパラとめくりながら、タツヤの話を聞き流す。

「失敗は若いうちにとか、無責任なこと書いた本が世の中にはいっぱい出回っているけど、そんなの鵜呑みにしてないでしょうね?」

「そんなの鵜呑みにしませんよ」

タツヤは言い切る。

「でっかいことをやりたいって心意気はいいけど、少し具体的に考えないとね」

「会社のロゴは考えてます」

タツヤは唯一の具体的な成果を強調する。

杏子は書類をめくる指を止め、タツヤに視線を戻した。

「一人で起業するつもりなの?」

「今のところ、そうっす」

その気持ちに水を差すつもりはないけどね、と前置きして、杏子は話し出した。

「会社に就職するメリットもあるのよ。みんなで助け合って仕事ができる。自分の苦手なところを補ってくれたり、病気の時に助けてくれたり。確かに、自分の意思に反した仕事を任されることもあるかもしれないけど、少なくとも、一日8時間、週5日働けば、お給料はもらえる。でも、一人で起業するとなると、そうはいかない」

「オレ、自分のやりたいことをやりたい。どうせ週40時間仕事に費やすんだったら、自分が本当にやりたいことをやりたいんっす」

「やりたくない仕事もいっぱいあるわよ」

そんなことは分かってます、と言わんばかりにタツヤは口をへの字に固める。

「それから、少年」杏子は最後に一言、といった調子で言った。

「週40時間って考えは甘いわよ。一人で起業するんなら、週100時間働く覚悟がないとね」

会社のために週40時間働くか、自分のやりたい事のために週100時間働くか、その選択だと杏子は言う。

「自分のためだったら週100時間でも200時間でも働きますよ」と啖呵を切りたいところだったが、そんな覚悟は無いことに気づき、口ごもる。

「あなたが熱中することって何?」

「熱中すること・・・?」

意表を突く質問に、タツヤは答えを見つけることができない。

「ちょっと考えてみて」

そう言うと、杏子は椅子から立ち上がり、「行くわよ」と部屋を出た。

タツヤは親ガモを追う子ガモのように、杏子の後を追った。


下の階では、男がパソコンに向かって作業を続けていた。

階段の上から眺めると、建物の一階部分は共有部分と専有部分に分かれているのが分かった。外の通りに面したエリアは約1坪ずつ区切られており、それぞれに商品棚やテーブルが配置されている。あたかも小さな店舗が並んでいるようだ。杏子と男がパソコンを広げていた大きな木製の長テーブルは空間の中央部に置かれ、その周りにはクッション付きの切り株のような椅子が並んでいた。キャビネットのような収納はなく、誰でもいつでも自由に使えるスタイルだ。

「鋼三さん」と杏子が声をかけた。男はゆっくりと杏子の方へ顔を向けた。

「マニフェスト一枚とって」

鋼三と呼ばれた男はA4サイズの紙を一枚拾い上げて、杏子へと手渡した。

「タツヤくん。ここに私のマニフェストの骨子が書いてある。質問があったら今すぐ聞いて。あなたには明日から宣伝活動してもらわないといけないんだから」

片手を腰にあてて、マニフェストをタツヤの方へ差し出した。そのポーズはファッションショーでボーズを決めるモデルの様だ。

マニフェストの一番上には「起業家や中小企業へのサービスを拡充して、市内の経済活動を活発に」という見出しが書かれている。金城さんのノートの通りだ。具体的には、個人事業及び会社設立サポートの拡充、法人市民税の減額、起業一年目の無税化、市内事業者のシンジケート化による展示会出展や合同マーケティングなど。タツヤには意味が分からない文言が並べられていた。

眉をひそめるタツヤのリアクションに、杏子は満足そうに頷きながら、

「やっぱり、もっと分かり易い言葉を選ばなきゃダメね」

と、鋼三のパソコン画面を覗き込みながら打ち合わせを始めた。立ち姿勢で、片手はテーブルにつき、もう一方の手は腰。カールのかかった長い髪をだらりと垂らして画面をのぞき込んでいるその姿は、ドラマのワンシーンのようだ。蚊帳の外のタツヤは、ただただ彼女の姿に見とれていた。

「明日も来れる?」

立ち尽くすタツヤに気が付いた杏子は、ドラマのシーンのポーズのまま尋ねた。

頷くタツヤに対して、

「ドキュメントを作り直しておくから取りに来て。私は演説に出てると思うけど、誰かはここにいるから」

と、今日はもう帰るように促した。

部屋を出るタツヤに「明日から宜しくね」と手を挙げて送り出した。

建物を出て、ガラス越しに中を眺めると、杏子はさっきと同じ姿勢でパソコン画面をのぞき込んでいる。その目は戦闘モードに入っていた。

「あんな大人になりたい」

タツヤは初めて、形のある目標を手に入れた気がした。

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