新人候補者1 女起業家
伊藤杏子の選挙事務所は、都市再生機構によって再開発された住宅地の一角にあった。 西東京市には2本の鉄道路線がある。北に西武池袋線、南に西武新宿線。両線は約3キロ隔てて東西に走っている。伊藤杏子が事務所を構えるUR住宅地は、両線のちょうど真ん中あたりに位置していた。つまり、最寄り駅までは1・5キロほど離れていることになる。駅チカが望まれる一般的な価値観から見ると立地条件は良いとは言えないが、駅から離れるメリットも十分に感じられる街並みである。一昔前の密集団地と違って、土地を贅沢に使った町のデザインは緑も多く解放感がある。立ち並ぶ高層住宅も、画一的な四角いコンクリートの塊ではなく、デザイン性が高い。そんな住宅街の一角にある、一際洒落たデザインの2階建ての建物。天井の高い一階部分は全面ガラス張り、2階部分はレンガの外壁にスモークのかかったガラス窓。団地の真ん中から起業をサポートするというコンセプトで作られたシェアオフィス施設だ。伊藤杏子の選挙事務所はこの建物の中にあった。
一階部分の大きなガラスを通して中の様子は良く見えた。フローリングの床に置かれた長テーブルに男と女がパソコン越しに話し込んでいる。スマホの画面で時間を確認すると、21時を過ぎていた。選挙初日の活動が終わったばかりにしては、ずいぶんと静かな印象だ。ひっそりと静まり返る住宅街には、選挙が行われているという事実は微塵も感じられない。入口の自動ドアの前に立つ。ブーンと音を立てて開くガラスドアの音が、建物の中に響き渡った。中の2人がタツヤの方を振り返った。
「こんばんは? 何か用かしら?」
女の方が声をかけた。
「伊藤杏子さんを探してるんですけど」
相変わらずの少し間の抜けた声。
「私だけど、なにか?」
低めのしゃがれた声。胸にかかるほどに伸ばした髪は少し茶色く、カールがかかっている。市議会議員というよりはミュージシャンのようだ。タツヤはこの女性から自分と同じ匂いを感じた。
「話を聞かせて欲しいんですけど」
足を組んだまま椅子に座っていた杏子は、突然の依頼に少し驚いたような表情を見せた。黒の皮ブーツがやけに長い。
「何の話を聞きたいのかしら?」
彼女は微笑みながら立ち上がり、タツヤの方へ歩いてきた。
「えーっと、、なんにしようかな、、」
ブーツのコツコツと響く音が、タツヤに迫ってくる。歩み寄よる大人の女の雰囲気に、タツヤの足がすくむ。
セミロングのスカートの下に伸びる細い足、ベルトが強調するくびれたウエスト、肩から胸にかけての柔らかな曲線。顔を上げると、鋭い目つきの杏子の顔があった。口元には微笑みが浮かんでいる。
「選挙の応援に来てくれたんじゃないの?」
そう言って、タツヤの肩にそっと手を置いた。柔らかく繊細な指の感触。体の力が抜けてゆく。
カラカラに乾いたタツヤの喉に一縷の生唾が流れ落ちた。
「そ、そうだ。それだった」
目は霞み、声の張りは失われている。
「ホント? それなら助かるわ」
ハスキーな振動がタツヤの鼓膜をいたぶる。
「若い子の応援が欲しかったのよ。あなた大学生?」
肩に手をおいたまま、杏子は獲物を吟味するような目でタツヤの顔を撫でる。
体の芯をくすぐられるような感覚。震えを抑えるように乾いた喉から声を振り絞る。
「そうです。ひばり大学の3年です。起業家志望です」
タツヤの一生懸命な口調に、杏子は「ふっ」と生暖かい吐息を漏らした。
「私達、気が合いそうね」
杏子はテーブルの方へ戻りながら、手招きしてタツヤを部屋の奥へと促した。
媚薬に吸い寄せられる羽虫のように、杏子の背中に従う。
杏子はパソコンに向かって作業を続けている男に何か指示を出して、タツヤを2階へと案内した。階段を上がると、そこは貸しオフィススペースになっていた。回廊に沿ってドアがいくつも並び、一階の開放的な空間とは対照的に、少し事務的な印象を受ける。しかし、ベージュの壁と木目調のドアが、どこか柔らかさと落ち着きを感じさせる。
杏子は突き当りの部屋のドアを開け、大きな黒い椅子に腰かけた。組んだ足がすらりと伸びる。近くの椅子をタツヤの方へ向けて、「どうぞ」と手で合図した。
部屋はタツヤの8畳間のアパートの半分ほどの広さで、長机が一つと小さな机が一つ。椅子は合計3脚。モニターやプリンタなどのOA機器が整然と配置されている。
「ここって、、」
「私の会社の事務所」
杏子が答えた。
タツヤの想像よりもはるかに小さい。
「ここで一億、、、」
思わず声が漏れた。
杏子は気に留める様子もなく、
「まぁ、座りなさいよ」
と、長い脚で椅子をちょんちょんとつついた。
タツヤは小さく頭さ下げ、差し出された椅子に腰を掛けた。
「名前は?」
「タツヤです。」
「で、タツヤくん。なんの話が聞きたいのかな?」
杏子は興味ありげな目をタツヤに向ける。タツヤの喉から水分が蒸発し始める。
「えーっと、、」
とりあえず、大学の課題について一通り説明をした。
「でも、オレ、政治にはあんまり興味ないんですよ」
タツヤの正直な告白に、杏子はわざとらしく目を丸くして驚きの表情を作った。
「あの、杏子さんのビジネスって年商一億って聞いたんですけど、この部屋で一億も稼ぐんですか?」
不躾な質問にも、杏子は嫌な顔一つ見せずに答える。
「この部屋から、目に見えないネットワークが広がっていて、いろんな人と繋がっているのよ」
「オレも、自分のビジネスを始めたいって思ってるんです」
「何をやるつもり」
「やるなら、、でっかいこと」
「、、、なるほど、、、」
杏子は椅子の背もたれに体をあずけ、何かを考えるように何度か頭を上下に揺らした。
「で、私に起業のイロハを教えろと?」
「オレ、カッコイイ大人になりたいんです」
杏子は背もたれに体をあずけたまま、頭の後ろで手を組み、足をぶらぶらさせた。
「いいわよ。でもタダじゃ教えらんない」
「なんでもします」という表情で、タツヤは初めて杏子と正面から目を合わせた。彼女の目を見つめると、今度は目から水分を吸い取られたかのように、しょぼしょぼとしてきた。
「私の選挙を手伝ってもらう。若い層の票が必要なの。あなたの友達に、私の名前売り込んで欲しいの。街頭演説の人集めも手伝ってもらおうかな? できる?」
杏子はタツヤと目を合わせたまま、ゆっくりと椅子から身を乗り出すようにして聞いた。
「お安い御用」
タツヤも目を合わせたまま、ゆっくり大きく頷いた。
「契約成立ね」
杏子は右手を差し出した。
少し戸惑いながら、タツヤも右手を差し出すと、その手に杏子の細長い指がそっと絡みついた。タツヤは体全体を甘く包み込まれたような気分になった。
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