2024年 - 西東京市

教室では地方自治と教育についての講義が始まっていた。アツシはオーディトリウムの最上段、いつもの席に座っている。中央の一番低い位置にある教壇では、若い教授が大きなホワイトボードをいっぱいに使って、国、都道府県、市町村と教育の関わり合いを説明している。

「教育は、地方政府が提供するサービスの中でも特に重量なものだ」と熱く語る。オーディトリウム内に響く声には、生徒の興味を湧き立たせようとする工夫が、あちらこちらに見え隠れする。しかし、その声はアツシの頭の中には入ってこない。教室全体を見下ろせる席で、講義をバックミュージックに白昼夢を流し見している。

全く興味が無いわけではない。しかし、今すぐ必要になる知識でもないし、もしかしたら一生必要となる日が来ないかもしれない。ただ大学を卒業するためだけの勉強。そんな授業に興味を持てと言う方が無理な話だ。それは自分の頭から出た考えなのか、いつかテレビで聞いたセリフだったか? どちらにせよ、アツシの脳細胞は、授業を聞かない理由を探すことにエネルギーを費やしている。

やりたいことを見つけると言って入った大学も、もう3回目のクリスマスが近づいている。青春ど真ん中の多感な時期に、遊びも恋愛も封印して受験勉強に費やした我慢の高校時代。満を持して始まった大学生活だったが、夢中になれるものは見つからず。運命の彼女にも、まだ出会っていない。このまま大学生活が終わってしまうのだろうか? そこはかとない不安が頭をもたげる。

隣の席では、タツヤが黙々と何かをノートに書きこんでいる。あまり見ない光景。何をメモっているのかは知らないが、授業とは無関係な内容であることは間違いないだろう。


すり鉢状のオーディトリウムでは50人程の生徒が講義を受けている。中段から上に席を陣取る生徒たちのほとんどは、机に突っ伏して寝ているか、携帯をいじっているか。講義を聞いている様子はない。前列に座る少数の学生だけがノートを取ったり、教授のちょっとしたジョークに笑ったり、と反応を示している。恐らく成績も良いのだろう。なんだか社会の縮図を見ているようだ。

「きっと、前列に座っている連中が、会社でも出世をして、将来の自分の上司になったりするんだろうなぁ」と他人事のように考えていた。

奴らよりも高い位置に座っていられるのも今のうちだけだ、と空しい優越感に浸りながら、とりとめもなく下々の後頭部を眺めていた。ふと、中段あたりに座っている女子に目が留まった。肩まで伸びたストレートの黒髪が、オーディトリウムのダウンライトに反射して、艶々と輝いている。

「あんな子いたっけ?」

このクラスが始まってから、もう3か月以上が経っているというのに、まだ知らない子がいたのかと思うと、自分がどれだけいい加減な気持ちでこの教室に通っていたのかと、ちょっとした罪悪感を覚えた。

突然、教室がざわざわと騒がしくなり生徒たちが席を立ち始めたのを見て、講義が終わったことに気が付いた。

黒髪の女子も教室を出ようとしている。何が気になったのかは分からないが、彼女と話しがしたいという衝動にかられた。実際には、後ろから追いかけて行って話かけるような勇気はない。せめて顔を見たいと思い、形だけ机に出しておいたノートを急いでバックパックに詰め込んだ。追いかけようと席から立ち上がろうとした時、隣のタツヤに呼び止められた。

「アツシ、ちょっと見てくれよ」

「わりぃ、後にしてくれ」

わざと邪険にあしらい、急いでいる素振りを見せようとしたが、タツヤには効果がなかった。

「できたんだよ、オレのマスターピースが。見ろよ」

と先ほどまで熱心に何かを書き込んでいたノートを自慢げに掲げている。

「後で見るよ。こっちは運命がかかってるかもしれないんだ」

黒髪の彼女と自分の間に、何かしらの赤い糸が存在するのではないかと、勝手な妄想が浮かび始めていた。

「こっちも運命的だぜ。オレの人生が変わるかもしれねぇんだ」

「はぁ?」アツシは面倒くさそうに返事をした。黒髪の彼女の姿が遠ざかってゆく。

ノートを顔の前に突き付けられてアツシの視界は遮られた。

「ちぇっ。なんだよ」と諦めたように呟いた。

ノートには小学生の落書きのような絵が描かれている。棒にドジョウが絡まったような絵だ。

「なんだよコレ」

「ロゴだよ。オレのビジネスの」

「ビジネス? 何の話をしてんだよ?」

タツヤがビジネスを始めたなんて話は聞いていない。

「ビジネスを始めるには、会社が必要だろ? で、会社にはロゴが必要じゃん。これがそのロゴだ」

「ドジョウ屋でもやんのか?」

「ドジョウじゃねえよ。竜だよ。竜が矢に巻き付いてんだよ。オレの名前タツヤじゃん。だから竜と矢」

「で、何のビジネスやんだよ?」

「それはまだ決めてない」

アツシは次の言葉が見つからない。

「そもそも、お前の名前のタツヤのヤは弓矢のヤじゃなくてナリの也だろ?」

アツシの声には呆れに怒りが混ざっている。

「お前は相変わらず細かいなぁ。そういうことじゃないんだよ。イメージだよ。大事なのはイメージ」

アツシはバカバカしくなって意見するのを止めた。

黒髪の彼女の姿は消えていた。


オーディトリウムを出て、二人は学内のカフェテリアに向かった。

「お前、いつから起業なんて考え始めたんだ?」

「一週間ぐらい前かな?」

アツシの質問に、タツヤは彼なりの経緯を話し始めた。

「もう、就職活動とか始まってんじゃん。オレ、就きたい職業とかないからさ、政治経済学部ってどんな就職先があるか、大学のホームページとかで調べたんだよ。そしたら、何て書いてあったと思う? 銀行とか公務員とかだぜ。オレ、そういうの向いてないって思ってさ」

3回生の冬を間近に何を今さら、、って言うか、何を考えてこの学部を受験したんだ? 純粋な質問として聞いてみたかったが、アツシはそれをグッとこらえて、タツヤに話を続けさせた。

「でさ、偉大な発明家とか起業家の本を読んでたら、やっぱ、自分で何か始めたいなと思ってさ」

そう言って、タツヤはアツシの顔を覗き込んだ。

「お前も就活してないんだろ? 一緒に起業しようぜ。 自分が本当にやりたいことをやらなきゃダメなんだよ。失敗できるのは若いうちだけだぜ」

もっともらしいことだが、タツヤが言うと説得力が全く無いから不思議だ。

「俺を巻き込むな。だいたい、あのロゴが気に食わねぇ」

「あれは譲れないんだよなぁ」

タツヤは簡単に諦めた様子だ。

アツシも就活に関して若干の焦りはあった。大学は3回生の夏休みにインターンに参加することを奨励していたが、アツシは参加しなかった。同級生たちの多くがインターンに参加したことも知っているし、一部には「内々定をもらった」と話す友人もいた。

「就職かぁ」

誰に言うでもなく、ため息とともに言葉が漏れた。

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