出会いの確率

アツシの頭の中では、小学校から、中・高・大学へと進む学業生活には何かしらの一貫性というか、流れのようなものが感じられるのだが、就職となると、流れのままに乗っていけない感覚がある。もし小学校を上流の小川と例えるならば、中学、高校が中流にあたる。途中に滝やダムに出くわし、時には逆流を遡るような思いもした。それでも、周りのみんなと一本の流れに身を任せ、目標としていた大学という下流部に流れ着いた。そして、受験戦争から解放され、今はのどかな平野を悠々と流れている。ここから、社会という大海に流れ込んでゆくのだが、そこには定められた流れる方向がない。あまりにも広い大海原を目の前にして、アツシは戸惑いを感じている。

「お前は考えすぎなんだよ」とタツヤにはよく言われる。

「お前から見れば、日本人全員が考えすぎに見えるだろうよ」と心の中では思っている。


時計は4時をまわったところ。アツシはエスプレッソを、タツヤはカフェラテを注文した。アツシは小さなカップに入った濃いコーヒーをちびちび飲むのが通っぽくて好きだった。

学生アルバイトと思われる女子が、手際よくエスプレッソマシンを操作する。

「このエスプレッソマシンを最初に日本に持ってきた人ってのがいるんだろうなぁ」

タツヤは独り言のように言った。

「そいつ、今頃きっと大金持ちだぜ」

プール付きの豪邸、広い芝生の庭には大きな白い犬が走り回っている… そんな絵を想像している、ような顔をしている。

タツヤの言葉には反応を示さず、空いている席に腰を下ろし、思い込むような顔で小さなエスプレッソカップに視線を落とすアツシに、タツヤが会話を切り出した。

「何考えてんだよ?」

アツシは少し間を置いてから、ぽつりとつぶやく。

「オレ達って、社会人になる準備っていつ始めるんだろうな?」

タツヤは眉をひそめ、笑いながら答える。

「会社に就職する奴らは、夏のインターンが初めの一歩じゃないの? お前、やってないよな?」

「やってない」

「な。オレと同じタイプなんだよ。起業家タイプ」

アツシはそうは思わない。色々な犠牲を払って、東京でもそこそこ名の通った大学に入学したのだ。新卒ならそれなりの会社に就職できるはずである。そのチャンスを棒に振ってしまっては、これまでの努力を全てドブに捨てるようなものだ。起業などという宝くじを買うような真似はできない。ここまでサポートしてくれた親に対しても、裏切り行為ではないか?

「同じにすんなって。俺はお前とは違うよ」

「じゃあ、なんでインターンやんなかったんだよ」

「いろいろあんだよ」

アツシにはアツシの理由があったが、説明するのが面倒だと思い、それ以上は話さなかった。

「それよかさ、地方自治の課題のテーマだけど?」

アツシは話題を変えた。

「ああ。何について調べるんだ?」

「やっぱ、市議会選挙に関することかな?」

2週間後の日曜日、西東京市の市議会議員選挙が控えていた。課題レポートの提出期限はその一週間後。タイミング的には市議会議員選挙についてのレポートがちょうどいいとアツシは考えていた。

「いつ始まるんだっけ?」

タツヤは明らかに興味がなさそうだ。

「来週末に告示だよ。一週間の選挙期間があって再来週末に投票。レポート提出はその一週間後」

タツヤはカフェオレを飲みながら、「なるほど」と首を縦に振る。

「厳密には告示日までは出馬するなんて言っちゃいけないはずなんだけど、次期もよろしくみたいなことを言ってる現職もでてきてる」

そうプチ知識を披露して、アツシは通っぽくエスプレッソを口に運ぶ。

タツヤはマグカップのカフェラテを飲み干しながら「ふーん」とだけ言った。


一週間後、その日もアツシはオーディトリウムの最上段の席に腰を下ろし、地方自治の講義を受けていた。来週は課題レポートの自習時間にあてるという名目で講義はない。質問のある生徒のみ、教室に足を運んで教授に質問を行う自由参加型の授業になる。もちろん、アツシは教室に来る気はないので、今日の講義がこの科目の最後の授業となる。最後くらいは、と教授の話に耳を傾ける。先週に引き続き、地方政府と教育の関係が今日のテーマだ。学習のカリキュラムに関しては、国、すなわち文部科学省が決定するものの、教科書の選定など、地方政府にも大きな裁量が与えられている、と教授は言う。

「その割には、画一的だ」とアツシは思った。

地方政府も色々と工夫を凝らして独自の方法を試していて、地域によってはユニークな結果も現れ始めている、と教授はいくつか例を紹介している。しかし、アツシにはそのようなユニークな教育を実感した記憶がない。将来必要になるとは思えない様々な事を記憶させられた記憶だけが思い浮かぶ。大学受験のためだけに勉強したことがどれだけあるだろう? それらの中で、大学入学後に一度も耳にしない事柄がどれだけ多いことか。大学で教えられる科目も恐らく同じだろう。社会に出た後に有用となる知識を得ているとは考え難い。6歳で小学校の教育が始まってから、どれだけの時間を不必要な知識の詰め込みに費やしてきたのか。それに誰も気が付かないのか? 日本の政治は、教育は、どうなっているんだ? 「最後くらいは」の決意も空しく、講義が始まって数分のうちに、アツシは講義に集中しない理由を考えることに、脳のエネルギーを消費していた。

いつのまにか、隣の席にタツヤが座っていた。スマホを見つめているが、ただ誰かのランチ写真やダンス動画を眺めているわけではないことは、その目つきで分かる。起業の勉強でもしているのだろうか? 高い授業料を払って拝聴の機会を与えられた講義の内容を聞かない罪は同じだとしても、自分よりは建設的な時間の使い方をしているのかもしれない。

今からでも遅くない。講義の内容を聞こう、と視線を前に移して、アツシはハッとした。数列前の席に、前の講義で見かけた黒髪の彼女が座っている。先日見た時と同じように、ストレートの黒髪が艶々と輝いて見える。その後ろ姿は、まるでプラスチックで成形されたかのように完璧に整って見えた。

アツシは持っていた鉛筆でタツヤの肩を突いた。

「あの子知ってる?」

彼女の方を指して小声で尋ねた?

「さあ? それよかさ、なんで市議会議員になれるのは25歳からなんだろうな?」

タツヤはちんぷんかんぷんな返答をした。困惑した表情をするアツシに持っていたスマホの画面を見せながら、

「あのさ、18歳で投票は出来るわけじゃん。選ぶことはできても、自分で議員になることはできないって変じゃない?」

市議会議員選挙について調べていたらしい。

「25歳ぐらいになんないと、経験的にも知識的にも、仕事が務まんないって理屈だろ」

アツシは深く考えたこともなかったので、適当にそう答えた。

「そんなもんかね?」タツヤは納得したのか、しないのか、スマホの世界に戻っていった。

それよりも、黒髪の彼女である。

今日が最後の講義の日だ。今日を逃すと今期中に彼女と接点を作るのは難しいだろう。冬休み明けにまた会える保障はどこにもない。なんとかして今日、彼女と話をする機会を作りたい。しかし、講義最後の日に突然声をかけるのはいかがなものだろう? まるでこの日をずっと待っていたストーカーのような印象を与えはしないだろうか? 


男女の出会いは難しい。アツシは常々思っている。教室でたまたま隣の席になり、どちらかが教科書を忘れ、見せてあげたことがきっかけになる、そんな奇跡的な偶然は美しい出会いの始まりとなりえるだろう。しかし、そう都合良く奇跡の偶然は起こらない。一方、街で偶然すれ違った魅力的な女性に声をかけると、それはナンパと称される軽蔑的な行動とみなされる。地球上に70億もの人間がいる中で、街中ですれ違うなんてまさに奇跡のような偶然だというのに、そこで声をかければ怪しまれ、邪見にされ、軽蔑される。そうならないような奇跡的な偶然のシーンで、お互いに好意を抱ける相手と出会うことが、人生の中でどれほどの確率で起こり得るのだろうか?

そんなことを悶々と考えていると、突然、教室がざわざわと騒がしくなった。

「やべぇ、講義が終わっちまった」

机の上に放ったらかしだったノートには、今日もなにも書かれていない。

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2024年9月20日 20:00

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