序 - 2124年、北京 - 秘密会議
この日の最後のアジェンダであった夕食が時間通りに終わった。後片付けや明日の朝食の準備など、一通りの指示を下し夕食会場を出ようとした
「アミーゴ」
明るい声に反して、劉の表情には緊張が走った。この一週間、劉を不眠にさせた張本人の声である。
「これは、マルガリータ大統領。本日はお疲れさまでした」
劉はつとめて平静を装ってメキシコ大統領に挨拶をした。
「リュウちゃん、この後さ、会議室用意してくんない? 4人入れれば十分なんだ。ただ、近くに人がいない場所がいいな」
マルガリータ大統領は気さくな声で劉に頼んだ。
「了解致しました。早速用意致します」
劉は努めてプロフェッショナルに返事をし、その場で目ぼしい会議室を抑え、ホテルの見取り図を取り出して場所を示した。
「グラシアス。さすがに仕事が早いね」
親しみをこめた笑顔で劉の肩に手をまわし、劉の体をグイと引き寄せた。
「このこと、誰にも言わないでね」
小さな声でそう言うと、回した手で肩をポンポンと叩いた。
「あ、それから」
分かれ際、マルガリータ大統領は一言付け足した。
「リュウちゃんも来て。一時間後に。独りでね」
大統領はウインクを残して去っていた。
彼と言葉を交わすのはこれで2度目だが、劉はこの明るすぎる大統領が得意でなかった。大統領という立場にしては非常識とも思われる軽い会話のリズムに肩透かしを食らう気分になり、うっすらとした不快感を覚えるのだ。
国の首脳と言葉を交わすなど、一般的にはあり得ない、外務省の同僚ですら羨むような特別の経験である。話の内容には決して悪意などない。それだというのに、アフロビート大統領と話しをすれば卑屈になり、マルガリータ大統領に声をかけられるとストレスを感じる。
「オレは、なんて器の小さい人間なんだ」
劉は両手でゲンコツをつくり、ぽかぽかと頭を叩いた。
人気のない廊下を会議室に向かって、極力足音を立てないように歩いた。マルガリータ大統領の要件に、劉は全くアテが無いわけではなかった。彼と初めて言葉を交わした一週間前のことを思い返していた。
その日は、食後に軽い気晴らしをしようと、省庁内のスポーツジムに向かった。タオルと着替えは持っていく必要があるが、ランニングシューズは専用の靴箱に預けてあるので、身軽に施設を利用できる。
ジムに入って靴箱を開けると、中に手紙のようなものが入っていた。ラブレターにしては色気がないが、省庁で働く女性らしい、とも思えた。劉は周りを見渡すが、誰もいない。
胸が高鳴り、口元が緩み、鼻の下が伸びる。差出人が遠くから見ているかもしれない。そう思った劉は、わざと面倒くさそうな素振りをしながら封を開けた。中には、やはり色気のないメモが一枚。
来、中南海
とだけ書かれていた。
「官邸に来い」の一文。いたずらかと思ったが、墨と筆で書かれた筆跡が本物だ。紛れもなく、拉麺麻国家主席からの手紙である。
「国家主席からラブレター? いや、粛清対象になったのか?」
どちらにしても最悪だ。
直々の仰せである。行かないわけにはいかない。劉は官邸に向かい、指定された部屋へと向かった。ドアの前で小さく息を吐いた。吐いた息が震えた。
手に持ったメモに目を落とす。
これはラブレターなのか? すまない、妻よ。
それとも粛清? さようなら、父さん、母さん。
滲む涙を拭い、覚悟を決めてドアをノックすると、中から「入れ」と声が返ってきた。拉主席の声だ。恐る恐るドアを開けると、拉主席の横に一人の男が立っていた。
どこか見覚えのあるその顔は、劉を見るなり人懐っこい笑顔を見せた。
「ハロー、アミーゴ」
声の主は、メキシコ合衆国マルガリータ大統領。
劉の頭はパニックに陥った。脳内の色々な場所で脳細胞がぐるぐる回転し、目に映る情報を処理しようとするが、どうにも回路がつながらない。立ち尽くす劉に向かって、
「ドアを閉めて中に入れ」
と拉主席が静かな声で叱るように言った。
「はっ、はい・・・」
背中越しにドアを閉め、引きつる顔の筋肉を抑えて笑顔を作るが、全く状況が呑み込めないでいた。
「紹介の必要はないようだが、こちらはメキシコ合衆国、マルガリータ大統領だ。来週のG7で来中される予定だが、その前に重要な議題があり、極秘で官邸にお寄りいただいている」
拉主席は真剣な面持ちで話し始めた。その語調には異常な重みがあり、質問は許されないことが伝わった。
「君には、極秘裏で進めてもらいたい任務がある」
そう言って、マルガリータ大統領に話のバトンを渡した。
「マルガリータだ。君の名前は?」
緊張で硬くなる劉に、大統領は太陽のような笑顔で手を差し出した。
「
「リュウちゃんか。よろしく」
と、まるで親戚の子どもを相手にするかのような口調で挨拶をした。
「初対面で悪いんだけどサ、あんたに頼みがあるんだ」
大統領は劉の耳元に顔を近づけて、囁くように続けた。
「アンドロイドを作って欲しいんだ」
「・・・」
状況が呑み込めない劉の様子は気にも留めず、軽快なリズムで畳みかける。
「ハードはいらない。ソフトだけ、つまり脳みその部分だけ。ただし、20世紀から今日に至るまでの、いつの時代の、どこの地域の、どの人種にも対応できるように、パターンを用意しておいて欲しい」
そう言うと、近所のコンビニに買い物を頼むかのような軽いノリで、劉の肩をポンポンと叩いた。
「・・・あの・・・」茫然とする劉に、今度は拉主席が、
「一週間で完成させろ。できるか?」
質問の形式をとった命令だった。
劉の不眠の一週間の始まりであった。
先ほど自分で予約した会議室のドアの前に立ち、小さく息を吐いた。吐いた息が震えた。デジャヴ? いや、確かに一週間前にも同じ状況にいた。
周りに人がいないことを確認し、ドアをノックした。
ドアの向こう側から、一週間前と同じ声、同じ口調で「入れ」と声が返ってきた。
恐る恐るドアを開け、劉は固まった。
会議室の中には拉主席とマルガリータ大統領の他に、もう一人の男が立っていた。白髪をリーゼント風にまとめた端正な顔立ち。先ほどまで同じ食事会場にいた首脳の一人。
「マーチ大統領・・」
もう劉の頭の中にはぐるぐると回転する脳細胞は残されていなかった。解を求める事を諦めた思考停止状態となった。耳から煙が出た気がした。
「ドアを閉めて中に入れ」
拉主席の静かな叱るような声に、劉は目を覚ましたように歩を進め、会議室へと入った。
「この極秘案件は中国、メキシコ、トルコの3カ国間で遂行している。ここでは隠し事は不要だ」
拉主席はそう念を押し、劉に部屋の中央へ進むよう促した。
戸惑う劉に対し、白髪の男は物静かな表情を崩さずに、右手を差し出して迎え入れた。
「トルコ共和国大統領、マーチです」
部屋を満たす3人の首脳の存在感に圧倒されながら、劉はこれから語られる内容が、ただならぬ重要性を持つことを感じ取った。
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