スマホ先生
タツヤは10時過ぎに目を覚ました。壁に貼ってある竜と矢のロゴマークを眺めながら、昨夜見た夢を思い返していた。
夢の中で、タツヤはガラス張りのモダンなオフィスで忙しく働いていた。明るい陽射しが前面ガラスの壁を通して差し込み、部屋全体がキラキラと輝いていた。無駄を省いた洗礼されたデザインのオフィスには、白とグレーを基調としたシンプルな家具が並び、所々に配置された観葉植物が、シックな空間に緑のアクセントを加えていた。区切りの無い広々としたフロアで、忙しく動き回るスタッフたちの中心にタツヤがいる。携帯電話を片手に交渉を進めるタツヤに誰かが資料を持って駆け寄り、内容の確認を求める。タツヤは軽く頷いて的確な指示を出す。別のスタッフがタブレットの画面を操作して指示を仰ぐ。タツヤは画面を一瞥し、少し修正を加えて「これで大丈夫だ」と短く答える。まるでそのオフィス全体がタツヤの手のひらの上で動いているかのようだった。ジャケットを羽織り、オフィスを飛び出る。ビジネス街のカフェで杏子と待ち合わせていた。タツヤを見つけ微笑みかける杏子と軽くハグを交わす。東京の摩天楼に沈む夕日が二人を照らしていた。
目覚めは爽快。鼻歌まじりにマグカップに牛乳を注ぎ、電子レンジで温めた後、エスプレッソマシンにセットする。カプセル入りのコーヒーをセットしてスイッチを押せば、殺風景な8畳の部屋は本格的なカフェラテの香りで満たされる。
一人暮らしの生活感のない部屋において、この赤い小型のエスプレッソマシンは特異な存在感をもってキッチンカウンターに鎮座している。一人暮らしを始めるにあたって、身の回りのものを揃えた近所のショッピングモールの抽選会で当たったものだが、気に入って毎日のように使っている。
カプセルは1個80円ほどする。一人暮らしの学生には決して安くはない。しかし得られるコーヒーの品質は、そこらのコーヒーショップに勝るとも劣らない。なにより、80円で得られる充実した朝の時間に価値を感じている。
ダイニングキッチンには、プラスチック製の折り畳み式テーブルが置いてある。アウトドア用品だが、普段はキッチンテーブルとして使っている。夏のバーベキューや海遊びで何度も活躍した優れものだ。タツヤの都合が合わない時には、テーブルだけを貸してくれなどという不埒な仲間もいたが、タツヤはビーチチェアもセットにして、快く貸してやった。
椅子に腰を下ろし、カフェラテを口にしながら。携帯の画面を傾けて画面をオンにした。アツシからのメッセージに気が付いて、親指を立てたスタンプを返しておいた。他にもグループチャットのメッセージが何件かあったが、適当に目を通して、無料の音楽チャンネルにアクセスした。朝は大抵ジャズかポップソングをカバーしたボサノバだ。それが一番カフェっぽい。
テーブルの上の四つ折りの紙を手に取った。昨夜、杏子の事務所から持って帰ってきたマニフェストだ。書き換えると言っていたが、タツヤはここに書かれている内容を調べておきたいと思い持ち帰っていた。理解できない経済用語が並んでいるが、遠くない将来、自分にも必要になるはず。昨夜灯った心の炎は今も赤々と燃えている。タツヤは携帯と向き合った。
「法人市民税って何?」
「見つかった情報はこちらです」
スマホの独断で、ネット上にある一番関連の高いと思われる情報が画面に表示される。
市内に事務所を構える法人に課せられる税金である、ということらしいが、新たに分からない言葉が出てきた。
「法人税割って何?」
「こちらが見つかりました」
「均等割って何?」
「こちらが見つかりました」
調べても、調べても、新たに分からない言葉が登場する。こうやって、スマホとのエンドレスなコミュニケーションが始まる。
どれだけ質問を続けようとも、スマホ先生は嫌な顔一つ見せずに答えてくれる。どんなに初歩的な質問であっても、何度同じ質問を繰り返しても、快く相手になってくれる。今まで世話になったどの先生よりも懐が広い。
しかし、いくら質問を繰り返しても、タツヤの疑問はクリアにならない。タツヤの語彙不足が問題なのか、そもそも税制度が複雑であることが問題なのか?
「頭の良い人が書くことは分かんねぇ」
ボリボリ頭を掻きながら、アリ地獄のようなバーチャル・ワールドに溺れてゆく。
時計に目をやると、もう昼時。マグカップのカフェラテはすっかり冷めてしまっていた。
手早くカップラーメンをかき込んで、自転車にまたがり、杏子の事務所に向かった。
日本の道は自転車には決して優しくない。一本の道を、車と自転車と歩行者で共有しなければならないのだが、多くの場合、その道幅は3者が共存するには狭すぎる。そんな中で自転車の立場が一番弱い。形式上、一本の白線で車道と歩道が分けられ、白線の左側は歩行者に使用権がある。自転車の陣地は白線の右側なのだが、そこには自動車やトラックが群れを成して走っている。自転車のサイズやスピードでは、その群れに混ざり込むのは難しい。車道と歩道を分ける15センチ程度の白線の上に、自転車道路を切り拓かなくてはならない。
こういう細い道を走る時、ペダルを漕ぐタツヤの足には力が入る。自転車の走行中、真横を車が通り過ぎるのは怖い。だから、自動車に負けないスピードで走って、極力追い越されないようにがんばってしまう。これが違う種類の事故の確率を高くしているのだが、背に腹は代えられない。
杏子の事務所があるUR団地内まで来ると状況は大きく改善する。広い歩道が整備されていて、自動車と歩行者は完全に隔離される。自転車も、この広い歩道を走ることが許される。不思議なもので、広い安全なスペースを与えられると、スピードに対する欲望は消える。タツヤはすっかり葉の落ちた並木の下で、のんびりと自転車を走らせた。
事務所に杏子の姿は無かった。長机の、昨夜と同じ場所で、鋼三が一人パソコンに向かって作業をしていた。分かっていた事とはいえ、少しがっかりだ。タツヤの表情は、その心の内を隠そうともしていない。
「杏子さんはいないんですか?」
気の抜けた声でタツヤは尋ねた。
「演説に回っていますよ」
鋼三はパソコン画面から目をそらさず答えた。キーボードを叩く指以外はどこも動かない。
片方の手をキーボードの上に乗せたまま、もう一方の手で一枚の紙を取り出し、広い机の上をタツヤの方に滑らせるように放り投げた。
「オレにですか?」
鋼三は無言で頷いた。
A4用紙に白黒でコピーされた、杏子の行動予定だ。ページには薄いウォーターマークで、大きくDRAFTと書かれている。下書きという意味ではなく、正式文書ではないということを断ったコピーなのだろうと理解した。
行動予定を見ると、今日は朝6時から8時30分まで東伏見駅で挨拶を行ったあと、少しずつ西へと移動し、昼休みの今の時間帯は、隣駅の西武柳沢駅南口付近で演説を行っている予定になっている。
タツヤは携帯を取り出して、写メしておいた金城さんのノートと見比べてみた。
「ばっちり合ってる…」
思わず声が漏れてしまったが、鋼三は気に留める素振りもない。
思わず漏れた声に鋼三の目が反応したが、タツヤはそれには気づかなかった。
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