月曜日、活動開始
西東京市は、東は練馬区、北は埼玉県に隣接する、人口20万人程度の中規模自治体である。2001年1月、田無市と保谷市の合併によって誕生した市であり、21世紀最初に生まれた市でもある。その名前から、東京都の西の外れにあるような誤解を招くこともあるが、新宿、池袋までは20分程度、その他の都心の主要都市へのアクセスも良い。
市内には、西武池袋線の2駅、西武新宿線の3駅と、合計5つの鉄道駅があり、街頭演説やビラ配りなどの選挙活動は、この5つの駅が中心となる。それぞれの駅に北口と南口があるので、合計10か所の活動拠点を31人の候補者が取り合う構図だ。
街頭演説などの選挙活動に適した場所を、前もって予約することはできない。場所取りは原則、早い者勝ちである。国政選挙にもなると、各政党が人員を割いて一等地の場所取りを行ったりもする。しかし、地方市議会選挙ではそこまでの過熱は見せない。そうは言っても、力のある政党の公認候補にもなると、人員的にも金銭的にも有利な条件で場所取りを行うことができる。ここでも、無所属新人候補は不利である。
まだ日の出前の月曜日の朝6時、伊藤杏子は西武新宿線のローカル駅、東伏見駅北口に陣取っていた。普通電車のみが停車する、西東京市にある5つの駅の中でも利用客の少ない駅。場所取り競争も激しくないと踏んで、平日最初の活動場所に選んだ。ニッチなマーケットで大きなシェアを取る。ビジネスのセオリーの応用だ。
12月も半ばとなって、寒さが厳しい。冷たい空気に押されるように、人々は足早に駅へと向かう。顔を寒さから守るように、肩をすぼめ、目線は一様に地面に向けられている。
周囲の丸まった背中とは対照的に、黒のトレンチコートに黒のロングブーツを纏った杏子のすらりとした出で立ちは、その場で異質の存在感を漂わせていた。
「伊藤杏子です。市議会議員に立候補しています。よろしくお願いします」
とにかく名前を憶えてもらわなくては始まらない。静寂が明けきらない駅前で、杏子はバラードを奏でるような声で挨拶を繰り返した。
一方、黒田武彦は全く違う選挙戦略を立てていた。会社員時代の経験から、朝の通勤時に仕事へと向かうサラリーマンに働きかけても耳を傾けてくれる有権者は少ないと考えていた。黒田がターゲットとして狙いを定めたのは、小さな子供を持つ主婦層だった。
黒田の持論は、どんな人でも人生の中で何度か政治に興味を持つ時期があり、そのひとつが、子供が幼稚園や保育園に通い始める頃。そして、その関心の向き先は、学費などの新たな負担がのしかかる自分の生活と、子供が成長したときにどんな社会で生きることになるかという将来の世界についてである。 黒田は、特に後者の問題に焦点を置いた。子供たちに何を残すことが出来るのか? 彼らの未来を、今よりも良い世界にするために、今、何を為さなければならないのか? 黒田は選挙用ビラの1つとして、問題とそれに対するアクションを、財布に入る程度のお札サイズの紙に完結にまとめたものを用意した。ビラには、ホームページにリンクされたQRコードも印刷してある。政策の詳細はこちらのホームページにまとめている。これを、ターゲット層の若い主婦に配る作戦だ。
また、黒田は18歳以上の高校生や大学生に対して、個人講演会を開いて、将来の課題についてスピーチを行う段取りも進めていた。個人講演会とは、ゲリラ的に行う街頭演説とは違って、特定の場所に参加者を集めて演説を行う方法だ。アツシに人集めを期待しているのは、この類の講演会だ。
すでにSNSでボランティアを募り、数名の学生ボランティアを得ていた。ボランティアは選挙権を持った西東京市民である必要はなかった。会場づくりや参加の呼びかけをしてくれる人なら誰でもよく、SNSで自分の名前を拡散してくれることも期待していた。学生の方も、必ずしも黒田の当選に興味があるわけではない。選挙運動に参加したことが学業や将来の履歴書にプラスになればよいのだ。黒田は、学生たちの動機は承知している。それゆえ、集会に集めた人数が多いほど、また、関わった候補者が当選したという結果があった方が、履歴に箔が付くということを意識させることを忘れなかった。
7時にセットしておいた携帯のアラーム音で、アツシは目を覚ました。
昨晩は興奮していて、なかなか寝付けなかった。黒田との会話を思い出し、自分が政治家になったら何ができるだろう、などと妄想が膨らんだ。眠りについたのは朝の4時ごろになってからのことだ。3時間ほどの睡眠だが、目覚めは悪くない。
黒田の事務所からはまだ連絡は入っていないが、金城さんの情報によると、黒田は8時30分から街頭演説を行う予定になっている。 場所は、高層団地が集まる住宅地。
アツシはこの街頭演説を見に行くつもりでいた。8時に家を出れば十分に間に合う。出発前に、黒田の個人講演会に招待する友人の連絡先リストを作っておこうと思っていた。
西東京市在住の友人の名前を携帯の中から抜き出してゆく。3人ほどの名前を書きだしたところでアツシの指は止まった。
「特定の候補者の応援なんかして良いのだろうか?」
そう、これは大学の課題として行っているのである。選挙に加担するような真似をしては公平でなくなってしまう。
しかし・・・アツシの頭の中はドリフトを始めた。課題のための課題に何の意味がある? 課題を通して何か新しい事を学ぶことが出来るなら、それこそが課題をやる本当の意味なのではないか? それ以上に、この課題を通じて、将来の生きる道に対するビジョンを得ることができたとしたら、そんなに素晴らしいことはない。 それを妨げるような評価のシステムは間違っている。そんな教育に何の意味があるというのだ?
アツシは万年床になっている布団の上に横になった。
頭の中で妄想の回転数が上がるにつれ、心の中で点灯していた炎が収束を始めた。
今まで政治の話などしたことのない友人を、突然、市議会議員候補の講演会に誘ったりしたら、危ないヤツだと思われないだろうか? そもそも、みんな学期末の試験勉強で忙しい時期だ。無下に断られるのが関の山だろう。
昨晩、黒田と話していた時の熱はすっかり冷めてしまった。
布団の上に仰向けに寝転んだまま携帯をつかんだ。7時45分。
「昨日、話しできたか?」
タツヤにメッセージを送ってみた。
既読にならない。
「いいんじゃねーの、細かいことは考えなくて」
頭の中のタツヤの声。
金城さんはどう思うだろう?
艶やかな黒髪。陶器のような白い肌。蝋を塗ったような赤い唇。彼女のビジュアルはいくらでも頭に浮かんでくるが、彼女の声は聞こえてこない。
「とりあえず、演説を聞きに行ってみるか・・・」
全く生産性の無い時間を過ごしてしまった嫌悪感はアツシの動きを鈍くする。体を引きずるように布団から起き上がって着替えを始めた。
朝の冷たい空気は、重たくなっていたアツシの心を少し軽くしてくれた。自転車の速度で流れる風が、頭の中にこもっていたどんよりとした空気を洗い出してくれる。防寒下着に防寒ソックス。ニット帽にダウンジャケット。最近の衣類の機能面の進化は著しい。鼻の奥に突き刺さる冷たい空気に涙がこぼれそうになるが、それ以外はあまり寒さを感じない。手袋だけは、もう少し進化が望まれる。
予定時間の数分前に、目的地に着いた。金城さんのメモに記された場所は、住宅地にある幼稚園近くの交差点だった。アツシは自転車にまたがったまま、遠巻きに演説の場所を確認した。そこにあった風景は、アツシが想像していた街頭演説のイメージとは違った。
のぼりや選挙カーの類は見当たらない。歩道の端に黒のダウンジャケット姿の黒田と、白いダウンに赤いニット帽を被った若い女性が立っているだけである。拡声器やマイク、たすきの類も身に着けていない。園児を送りにやってくる保護者が横断歩道を渡ってくると、2人は車を遮るように横断歩道へ歩み出て会釈をしている。
選挙演説というよりは、通園見守り活動を行う地域ボランティアのおじさんのようである。
子供を送り届けて帰ろうとする保護者たちが横断歩道の所まで戻ってくると、会釈をして名刺を渡すような素振りで小さな紙を配っている。例のお札サイズの選挙ビラである。
その活動は30分ほど続いた。登園が一段落すると、黒田と赤いニットの女性は、幼稚園の方へと歩き出した。門の前では子供を送り届けた母親が3人、雑談をしている。そのグループに歩み寄って、やはり名刺を渡すような素振りでビラを手渡すと、30秒ほど言葉を交わし、深くお辞儀をして、もとの横断歩道の近くへと戻っていった。その後も数分の間、通りかかる歩行者に会釈をしたり、ビラを渡したりしていたが、演説などはすることもなく、迎えに来た黒のワンボックスに乗り込んで去っていった。
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