夢見る乙女はまだ知らない

1-1

 かっこー、と間抜けな声を上げる鳩時計が昼過ぎを告げていた。

 時刻は、エルシアがカルティオに出会うことになる、その日の昼間のこと。


 飾り気のないプレジデントデスクが鎮座する部屋の中、壁際に並ぶ棚には数々の書類や書物が詰め込まれていて、デスクの上にまで真新しい書類の束が積まれている。

 敷かれたグレーの絨毯に、艶のあるフローリングには埃ひとつ積もっておらず、きちんと使用人たちによる掃除の手が行き届いていた。

 開け放たれたサワーグリーンのカーテンに、バルコニーの先に広がる蒼い海を望めば、大きな窓からは眩しいほどの陽の光が差し込んでいる。


「んー」と、エルシアが背筋を伸ばすと、久しぶりに吸い込むインクの香りが混じる慣れ親しんだ部屋の匂いに、「ふぅ」と吐息がひとつ、宙を舞った。

 留守の間に溜まっている仕事が、そうして視界に入るような物量として、そこにあるのだ。

 エルシア・ハロワイルは、ただでさえ疲弊していた。


 頭に被る、つばが花のように丸く広がった白いキャペリンを部屋の隅、コートハンガーへと引っかけて、その横に並べられている全身鏡を覗き込む。

 ぱちりと開く父譲りの切れ長の目に、母譲りの紺碧の瞳。

 その目元には、多少の化粧でごまかしはしたものの大きな隈を作っている。

 長旅の影響か、自慢の金色の髪からもすっかり艶がなくなっていた。

 動きやすさを重視した、紺色のアクセントが入る膝下丈の白いワンピース。

 それと合わせたスマートな編み上げの黒革のロングブーツは、足元から気を引き締めてくれる力強さをイメージしたつもりでも、これでは少し台無しかもしれない。

 一人前の商人にとって見栄えが大事とは、父譲りの言葉ではあったけれど。

「はぁ」と吐いたため息に、だけど「にへへ」と、薄ら笑いも浮かんではくるものだ。


 この部屋を、十六歳になった誕生日にもらってから二年。

 貿易商をしている父、アムトジオ・ハロワイルにも認められて、社員総数二百人を超える貿易商社ハロワイルカンパニーを支える一端の商人として、仕事を任されるようにもなってきた。

 忙しい毎日に疲れは溜まっているけれど、自身で行商の手を広げていく楽しみをエルシアはもう知ってしまっている。


 ムーンダリア公国より南、海を渡ってリエノス王国へ商品の下見に出て、半月ほどの旅から今しがた帰ってきたばかり。

 長い船旅の疲れも上回って、市場で見てきた花や果実、異国の香りに興奮が冷め止まないのだ。


 机の上に置かれたままになっていた赤縁眼鏡をかけて、書類の山、一番上の束を手に取った。

 ぱらりぱらりとめくっていけば、そこには数字と商品の名前が並んでいて、それはエルシアが留守の間に部下へ任せた取引の買付証明書だ。

 交渉はその場任せにしたものの、商品の種類や数、価格に誤りがなさそうなのを確認して、机の上に置いてある羽ペンにインクを染み込ませ、サインを書く。

 そうやってひとつひとつ片付けていく仕事にもどこか満足感があって、疲れも忘れて自然と口角は吊り上がった。

 サインを記して羽ペンを置けばちょうどタイミングよく、トントントンと部屋のドアが叩かれる。


「いるわ」


 エルシアが書面に視線を落としながら返事をすると、静かに扉が開いた。

 ドアのノックの仕方の癖、部屋へ入ってくる気配から、誰が訪ねてきたか、エルシアにはわかっている。

 静かに顔を上げれば、彼は丁寧な所作で左手を腹部に当て、頭を下げた。


 暑い日も寒い日も着込んだ燕尾服と皺のない白いワイシャツに、しっかり締めた黒いネクタイ。白色に染まる毛髪はいつ見てもオールバックにセットされている。

 身だしなみに気を遣うのは執事としての嗜みだろう。ハロワイル家に仕え、エルシアに付き従う秘書に護衛も兼ねる側近、バロル・リワークスは、にこりと微笑んで顔を上げた。

 皺の入った目元はいつも優しそうに細められているけれど、彼がかつては厳しくも過酷な環境を生き抜いた軍人だったことは、頬に残る切り傷の跡が教えてくれる。

 女性ひとりで数々の仕事に当たっていれば危険はたびたび付き纏うもので、六十を超えたというのに衰えを感じさせない機敏さも備えて、エルシアは常々彼に守られていた。


「お嬢様、お荷物は邸宅の私室のほうへ」

「……えぇ、ありがとう」


 エルシアは返事をして、ぼーっとその立ち姿を眺めてしまった。

 バロルも今しがた長旅から帰ってきたばかりだというのに、その顔に疲れは見えない。


「お嬢様、着替えもせずに、そうしてまた、立ったまま仕事を……」


 どこか呆れたように笑みを浮かべたバロルに痛いところを突かれて、「うっ」と、エルシアは返事を詰まらせた。


「一度邸宅にお戻りになられればいいものを……せめて、お着替えなさってからにしていただきたいものです」


 重ねられる小言には、主人であるエルシアも「はいはい」と、手を振ってこたえるしかない。

 デスクを回って、くるりと回した革張りの椅子に腰を下ろせば、エルシアの口元からは「ふぅ」ともうひと息、吐息が零れ落ちた。


「先ほど旦那様へ帰宅に際して挨拶を済ませておきました。ただ、旦那様からお嬢様へお話があると伺っております。今回の旅路、ご報告はいかようにしましょう?」


 すぐに着替える気がないと悟ったのか、話を変えるよう恭しく目を伏せたバロルに、エルシアは「うーん……」と、デスクへ頬杖をついてからこたえる。


「後で、わたしが直接するわ」

「かしこまりました」


 顔を上げたバロルに、エルシアがにこりと目を細めて返事をすれば、トントントンと、今度はやや荒い調子で部屋にノック音が響く。

 ふたりが部屋の入口へと視線を向けたところで、エルシアが返事をする前に、ドアは勝手に開けられた。


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