ヴァンパイアは可憐に笑う
3-1
どくんと弾けた鼓動の音で、エルシアの目は自然と覚めた。
視界へ飛び込んでくる見慣れない白い天井に、白いレースのカーテン越しには陽の光が差していて、部屋の中を明るく照らしてくれている。
ふんわりとかけられたベッドのシーツを除け、ゆっくりと身体を起こしたエルシアは、ぼんやりと窓の外を見つめた。
昇る陽を思えば時刻は昼を過ぎているのだろう。
遠方に見える山々と、広大なまでの草原が一面に続いている。
当然ながら見慣れない景色に、そこが自分の部屋でも、自分の家でもないことを自覚した。
エルシアのぼんやりとしていた思考は、そうしていると段々とはっきりとしてくる。
窓から優しく吹き込んだそよ風には、ダリアの香りが乗せられて。
鼻腔をくすぐるその香りに、昨夜の光景が次々とフラッシュバックした。
社交界へ赴き、予期せぬ出会いに、怪我をして。
抜け出したパーティー会場に、痛む足を我慢すれば、そこで、あの公子に出会った。
上がり続ける体温と、切れる息に声も上がらなくて。
そして――あのときも、ストリフォン公爵邸の庭園一面に広がるダリアの香りが漂った。
エルシアがハッとしたように自身の状況を確かめれば、着ていたはずのドレスは脱がされ、見慣れないレディース用のパジャマへ着替えさせられている。
捻った左足には、固定するようにきつく包帯が巻かれていた。
額を押さえても昨夜感じた熱はすっかり冷めていて、まるで夢を見ていたかのように、重苦しかった呼吸も軽くなり落ち着いている。
一体何が――と、エルシアは思考が追いつかないままに目を見開けば、そこでようやく、近くに人の気配があることへ気が付いた。
ベッドがふたつ並ぶ客間といった様相の部屋の中、エルシアが眠っていたベッドの脇に椅子を寄せ、姿勢よく座っている少女が「うふふ」と微笑む。
レースが重ねられるふわりとした黒いドレスに、ツインテールに結われたしなやかな金色の髪が揺れ、ぱちりと瞬く紅い瞳は薄っすらと細められた。
整った顔立ちに白い肌は瑞々しく、年齢は見たところ十四か十五くらい。
しかしその大人びた笑顔には、色気が漂うような妖艶さが垣間見える。
優雅に弧を描く口元からは上品さが伴うのと同時に、白い八重歯が覗いていた。
エルシアが驚いて顔を向ければ、彼女は変わらず笑っている。
そして、その彼女に付き従うように立っていた長身のメイドが頭を下げた。
「おはようございます、エルシア様」
オニキスのような輝きを放つ腰の辺りまで伸びた黒髪に、クラシカルな黒白のエプロンドレスを着こなして。
女性はまとった雰囲気は穏やかなままに顔を上げると、同じくオニキスのような輝きを持つ黒い瞳を細め、やんわりと笑顔を浮かべた。
美人だとひと言で言い表せる彼女が、横に付き従う少女の従者であることも、エルシアはひと目で理解したけれど。
エルシアがとっさに握ったシーツへはくしゃりと皺が寄り、その様子を一瞥した少女は「安心して」と、囁くように優しく口を開いた。
「昨日、ここに運んだのはお兄様だけれど、後のことはうちのメイドがやったから」
その言葉にエルシアが思わず自身の身体を抱き締めれば、メイドは「えぇ」と優しく、エルシアを落ち着かせるように頷いてくれた。
椅子に座った少女は、優雅に手を振るとにこりと首を傾げて、もう一度笑う。
「わたしは、レイン・ヴァン・ストリフォン。カレイディの娘といえば、わかるでしょう?」
そう名乗った少女に、エルシアの背筋には無意識のうちに力が入った。
「こっちは、わたしの側近のミスティス。あなたの着替えも彼女に任せたから、安心してね」
そう気遣ってまでくれるレインに、エルシアはとっさに頭を下げた。
「え、エルシア・ハロワイルです。すみません、何から何まで……」
「いいのよ。あなたは大事な客人だから。それに、いつまで経っても目を覚まさないから心配だったのよ」
顔を上げるエルシアだったが、何が起こったのか、どうしてこうなっているのか、まるで現状を理解できないでいる。
「どうして……」と呟く言葉に、そうしたエルシアの顔を見て悟ったのか、レインは続けて話をしてくれた。
「あなた、危ないところだったのよ。お兄様がああしていなければ……死んでいたかも」
死んでいた――だなんて。
まるで現実味のない話には、やはり理解が追いつかない。
レインは冷静に言い聞かせてくれるように言葉を続けた。
「リエノス熱って、聞いたことはあるでしょう?」
リエノス熱――そう呼ばれる病の名は彼女の言う通り、エルシアも知っている。
主にリエノス王国や、そちらの地方で流行ることのある熱病の一種。
毒虫を介して引き起こされる病で、通常、虫に刺されてから二、三日で発症する。
多くの場合は通常の風邪と似たような症状を引き起こし、自然治癒が見込まれるため重症化することは稀。
しかし、重症化すれば死に至ることもあるとは聞いたことがあった。
「あなた最近、リエノスに出かけたりした?」
そうレインに聞かれて、エルシアは素直に「はい」と頷く。
「昨日……リエノスから帰ってきたばかりで……」
「そうだったのね。リエノス熱を引き起こす毒虫の毒は厄介な毒でね、刺されたことにもほとんど気付かないような、麻酔のようなものなのよ。だから麻酔薬なんかにも毒素を抜いて利用されていたりするのだけどね」
レインは病気や毒のことに妙に詳しいらしく、そう話を続ける。
「リエノスでは、寝ている間に刺されて知らぬ間に発症して死に至る……なんて症例も珍しくないとは、聞くわね」
エルシアはそれを聞いて、昨夜メイドに指摘された首筋にあった虫刺されの跡のことを思い返す。
リエノスへ赴く以上、リエノス熱を引き起こす毒虫にも気を付けていたはずだった。
しかしその毒が、そのように痛みもなく身を蝕むものなのだとは、エルシアも知らなかった。
「でも、どうして、わたしが……」
重症化することは稀のはずで、熱病を発症して、命の危機に迫られたのだろう、と。
エルシアが疑問を口にすれば、レインははっきりと断言した。
「アレルギー症状ね。自分の身体のことは、覚えておいたほうがいいわよ」
レインのはっきりとした物言いには、『死』というものが現実味を帯びて背筋を伝う。
そう聞けば聞くほどに現実味は増してきて、エルシアは思わず息を呑む。
そっと首筋へと触れれば、しかし、昨夜はそこにあったはずのぷくりとした虫刺されの跡がすっかり消えていることに気が付いた。
「あれ?」と首を傾げて、どうして助かったのだろう――と、それは次の疑問へ繋がった。
レインは、そのようなエルシアの疑問にまで返事をしてくれるように、「ふふっ」と小さく笑みを零す。
「あのお兄様が、どうしてあなたを助けたのかとも思ったけれど……面白いわ」
エルシアには、何がそうして彼女の琴線に触れたのかはわからなかったけれど。
レインはエルシアの顔を覗き込むと、どこか感動したように、満足したようにすらして、にこりと笑った。
「ハロワイルカンパニーのひとり娘で、将来を期待される商人のひとり。立派なものだけど、あなたのその素直さは、商人にとっては重荷じゃない?」
それは、エルシアがよく商人の師匠でもある父から指摘されることではあった。
なんでも思ったことがすぐに表情に出るのは、エルシアの長所でもあり、短所でもある。
初めて顔を合わせた、それも自分より年下の子にそう指摘をされれば、エルシアとしてもこたえることはできなくて、自然と表情は固まった。
「どうして助かったのか、どうして虫刺されの跡は消えたのか」
まるで心の距離まで詰めるように、彼女はエルシアの瞳を覗き込んでいて。
「どうして――、わたしにはそれがわかるのか」
にやりと笑うレインの表情に開いた紅い瞳には、恐怖にも似た寒気がエルシアの背を駆けた。
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