2-4

「ちょっと、ディレグ様になんて口の利き方なの?」


 淡黄色のドレスに、赤茶色のアップに結われた髪。

 ぱちりと開く赤茶色の瞳は鋭く細められ、強気な眼差しには、怒りの感情が浮かんでいる。


「あなた、ただの商人のとこの出自でしょう」


 エルシアには見覚えもない顔だったが、どうやら彼女は、エルシアのことを知っているらしい。


「やめておいてください、マルカ様」


 呆れたように口を挟むディレグに、しかし、マルカと呼ばれた彼女の勢いは止まらなかった。


「生意気、ディレグ様はあなたみたいな、平民でも相手にしてくれているのよ?」


 血統主義の思想に、その髪色。

 今やそういった思想は、公国では薄れてきているというのに。

 彼女がムーンダリア公国の人間ではないことにエルシアもすぐに気付くけれど、しかし、こらえきれないもやもやとした気持ちから思わず反論をしてしまった。


「別に、相手にしてくれと頼んだ覚えもないわ」


 普段のエルシアであれば、冷静にその場を流せたかもしれない。

 商人たるもの冷静に場を見極めよ、とは父の教えでもあったけれど、今日のエルシアは緊張と長旅の疲れに、それに余計なことまで加わって、もう我慢するのも限界だった。


「ただの商人のくせに、生意気」

「あなたがどれだけ偉いのか知らないけれど、わたしたちの仕事をバカにする権利がある?」

「たかが商人でしょう」


 そう父の誇りまで馬鹿にされたような言葉が、エルシアには許せなかった。


「このパーティー会場の料理にしたって、そう。あなたが付き従っているディレグが着ている、スレイシャン王国製のスーツにしたって、そう。商人たちが広げた行商の輪が作ったモノなの。人々の生活の中に、わたしたちが培ってきた誇りが溢れている。それも知らないで、『たかが』だなんて、よく言えるわね」


 思わず口走って少し後悔はしたけれど、エルシアは身構えながら返事を待つ。

 しかし、彼女は何もこたえなかった。

 その瞳には薄っすらと涙を浮かべて、奥歯をぎりりと噛み締めている。

 ただならない気配に、エルシアは反射的に半歩下がって――。

 そしてあろうことか、彼女は伸ばした右手でエルシアのことを突き飛ばそうとしたのだ。


 反論できないがゆえの、衝動的な行動だったのだろう。

 だから避けることくらい、造作もなかったのだけれど。

 勢いのまま下げた左足に、しかしこの日は、履き慣れない高いヒールの靴を履いていたことを、エルシアは失念していた。


「いっ」と、なんとか悲鳴を押し殺すことができたけれど。

 ぐきりと、力強くついた左足首は、エルシアの全身にも響き渡るような鈍い痛みを放った。


 バランスを崩すエルシアは、慌てて近くのテーブルを掴もうと腕を伸ばして、だけど、滑るテーブルクロスに、その上へ乗っていた食器類が壮大な音を立てて崩れ落ちる。

 近くにいた女性が悲鳴を上げれば、ホールに響いていた円舞曲さえかき乱し、エルシアは鈍い足の痛みにこらえきれず、顔をしかめて尻餅をついてしまった。


 表情を青ざめたように引きつらせたマルカに、慌てて立ち上がるディレグも呆然としてはいたけれど、エルシアは騒然と、好奇の目の中心に晒される。


 慌てて立ち上がろうと膝をつくけれど、鈍い痛みを放ち続ける左足首に、噛み締めた奥歯には冷や汗が背筋を伝う。

 エルシアが睨みつけるように顔を向ければ、マルカは逃げ出すように後退りして、ディレグもまた彼女に付き添うように背を向け、気まずそうに顔を逸らした。


 周囲には片付けのために執事やメイドたちが集まり始めていて、心配して手を差し出してくれた執事には、エルシアも「大丈夫」とこたえながら、笑顔を取り繕って見せる。

 ただ、ジクジクと止まない足の痛みにはどこか悔しさを覚えて、無意識のうちに拳を握り締めた。


 そうしていると、騒ぎを聞きつけ慌てて駆けつけてきてくれたのだろうバロルの姿が見えて――彼に肩を借りるエルシアは立ち上がると、そのままパーティー会場を後にした。


 一時騒然とした社交界も、そうしてエルシアが去れば、元の空気を取り戻す。

 再開される演奏には、先ほどまでと変わらない花と料理の香りが漂って――。

 しかし、その一部始終をホールの二階、柱の影から見ている者がいたことには、誰ひとりとして気が付かなかった。



 ◇◆◇



 ホールを後にしたエルシアは、バロルに支えられながら廊下に並んでいたベンチのひとつに腰かける。

 騒がしさから一転、静かな廊下には他に人の姿は見えず、エルシアが「はぁー」と吐いたため息には、バロルも心配そうに屈んでその顔を覗いていた。


「大丈夫ですか、お嬢様」


 ジンジンと響くような痛みを上げる左足に、エルシアは脱いだハイヒールを一足、横へ置きながら顔を上げる。


「どうしようもなく、痛いけど……折れてはいなさそう」


 そう苦笑いを浮かべれば、バロルは「はぁ」と、深いため息を吐き出した。


「何が、あったのです」


 そうこたえる真剣な眼差しには殺気が混じるような恐怖まで備わっていて、エルシアは「あはは」と、引き笑いをしながらも真っすぐとこたえた。


「別に、わたしが、ひとりで転んだだけ」


 これ以上騒ぎにはしたくはないというのが、エルシアの本心だった。

 バロルはジッと、エルシアの心を見透かすように真っすぐと視線を向け続けていて、そのような心配を振り払うためにも、エルシアはにこりと笑顔を作って見せる。


「大丈夫よ、バロルがそう心配するような、大したことはないから」

「……それならば、いいのですが」


 エルシアの言うことならば、とバロルは押し黙ったようだったけれど、どうも本心としては納得してくれてはいないらしい。

 まあそれもそうかと、騒ぎが大きくなってしまったことに頷くエルシアだったが、立ち上がったバロルの顔を見上げて、話を変えるように言葉を続けた。


「それよりも、ずっと気になっていたんだけど。会場に入る前に言い淀んだあれは、なんだったの?」


 エルシアがそう話題を振れば、バロルは呆れたように「そんなことを、気にしていたのですか……」と、肩を落とした。

「うん」と素直に頷くエルシアに、バロルは「はぁ」と、息を吐いてこたえてくれる。


「ストリフォン公爵の公子様が、どうも行方不明だと」


「え?」と、事件性も感じたそのひと言に、エルシアの口からは思わず大きな声が漏れ出た。

 シーッと口元へ人差し指を当てるバロルに、エルシアももう一度「うん」と頷く。


「まあ、いつものことだと、執事たちの話でもそういうような雰囲気でした。どうやら公子は、社交界を避けているようで」


 実際にパーティー会場を目にしたエルシアには、その公子の気持ちもわかるところがある。

「そっか」と頷いたエルシアに、バロルは「えぇ」と、頭を下げてから言葉を続けた。


「旦那様に、お嬢様の足のことをお伝えしてきます。商談が長引くかもしれないと伺っておりますので、お嬢様をお先に邸宅へお送りする、と」


 いち早く帰りたい気分であったことを悟ってくれたのだろう。

 それは助かる申し出だと、エルシアは「ありがとう」と手を挙げる。

 そうして、バロルは頭を下げて、広く長い廊下の先へと歩いて行った。


 ひとりになって、エルシアの口元からは「はぁー」と再び、深いため息が零れ落ちた。

 せっかく用意してくれたドレスだったのに、父と母の想い台無しにしてしまったようなことを思えば胸も痛くなる。

 エルシアの胸元で光った宝石はキラキラと蒼い輝きを反射して、どうにもやるせない気持ちに虚しくこたえるようだった。


「別に、あんなつもりは、なかったんだけどな……」


 会場で相手にしたディレグとその取り巻きにいた彼女のことを考えて、エルシアはそっと首を横へ振った。


「でも、喧嘩を吹っかけてきたのはあっちだし」


 それを買ってしまった代償が、この胸の痛みと足の痛みだと思えば、どうにも冷静にこたえられなかった自分のせいで、自業自得だとまで思えてしまう。


「はぁー、やっぱり、向いてないのかな」


 こういう場に赴くことを避けてきたからこそなのかもしれない、とまで考えてしまって。

 エルシアは組んだ足に頬杖をついて、「はぁ」と、目を伏せた。

 ぶらりと振った左足は、まだじくりと鈍い痛みを放っていて、しかし、同時に疲労を思い出し、全身がだるく、眠たくもなってきた。


 数分そうして悶々とひとり唸っていれば、近づいてきた足音に、エルシアは顔を上げる。


「お嬢様、馬車を用意してくるのでもうしばらくお待ちください」


 恭しく頭を下げるバロルに、「えぇ」とだけ返事をして、再び去って行く彼の背中を目で追った。


「ここで待っていろって、言ったって……」と、エルシアはそっと立ち上がる。


 どうせ馬車までは歩いて行かなければいけないのだ。

 右足に重心を寄せて立ってみるけれど、ずきりとした痛みが突如、左足を襲った。

「いっ」と思わず声を噛み殺して、ただ、そうして待っていることはできそうもない。

 社交界から逃げ出してしまったような悔しさに、何故か負けたような気にすらなってしまうから。

「ふっ」と、やせ我慢をしたかのように、口元からは自然と笑みが零れた。


 右手の指先にさっきまで履いていた白いハイヒールを一足引っかけて、エルシアは壁伝いに歩きはじめる。


 ジンジンと響く足の痛みを我慢して進めば、体温が上がっていることに気付きはせず。

 自身の体を蝕む熱病のことなど、いざ知らず。


 エルシアは、そうして歩いた廊下の先で、彼に出会うことになったのだ――。



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