3-2
「わたしたちは、人の中を流れる血の異常に敏感なの。そしてこの瞳は、それを見破ってしまうから」
返事のできないエルシアに、レインがにこりと笑う口元からは白い牙が覗いている。
「まだ、夢を見ているような気分でしょうけれど、実際に見せたほうが早いかも」
そう言葉を続けたレインは、「ミスティス」と、横に付き従っていたメイドの名を呼んだ。
ミスティスはそれまでただ黙っていたけれど、呼ばれればレインの横へ跪き、頭の上に腕を回して長い黒い髪をたくし上げている。
晒された傷ひとつない白いうなじには、不思議とエルシアも視線が引きつけられた。
そして、そのうなじを覗くように顔を近づけたレインは、ちらりとエルシアへ紅い視線を向けると口を開き、かぷりと牙を立てて噛みつくのだった。
「ぁっ」と、ミスティスの口元から零れた吐息に、エルシアの頬も自然と赤くなる。
まるで見てはいけない瞬間を目撃してしまったかのように。
しかし、そうして彼女のうなじに牙を立てるレインと、血を吸われているミスティスの浮かべた恍惚とした表情には、同性から見てもうっとりとしてしまうような、神秘的な美しさがあった。
静かに引き抜かれた牙に、ミスティスの白いうなじには、血の滲むような牙の跡がくっきりと残っている。
ただ、エルシアがそう呆然と眺めた間にも、その傷跡はすっかり消えてしまった。
「……やっぱり、夢じゃ、なかった」
伝説に語られる通りの、人の血を啜る牙。
目の前で行われた吸血行為に、彼女たちが伝説に語られるヴァンパイアの血を引くのだと信じざるを得ない。
「ヴァンパイアの吸血にも一種の毒が混じっていてね。それは、人の自然治癒能力を高めるのと同時に、他のあらゆる毒素を分解する作用を持っているの」
レインはそう語ってエルシアの疑問にこたえてくれた。
「じゃあわたしは……彼に、助けられた」
カルティオはあの邂逅の瞬間、エルシアの身体を蝕んだ毒を見抜いていたのだろう。
昨夜の出会いを思い返しながら撫でた自身の首筋に、そこへあった虫刺されの跡が消えている理由を知ることはできたけれど。
同時にはっきりと、そこへ触れた彼の牙の感触を思い出して、エルシアの顔は熱くなった。
「ぷふっ」
静かに立ち上がったミスティスに、口元をハンカチで拭ったレインは、こらえきれなかったといったように、口を押えながら声を上げる。
首筋を押さえたまま首を傾げたエルシアに、レインはにこりと笑ってこたえてくれた。
「あなた、やっぱり面白い。案外すんなりと受け入れるのね」
ヴァンパイアの存在だなんて、信じてはいなかった。
だけど、現実にこう見せられて、実際に血を吸われたともなれば、受け入れるしかない。
「安心しなさい。ヴァンパイアに血を吸われたからといって、あなたまでヴァンパイアになるとか、そういうことは一切ないから」
おとぎ話に語られる逸話の中には、人々の間でヴァンパイアの吸血衝動が狂気となって感染するというような、ホラー話まである。
別にエルシアはその話を思い出したわけでもなかったけれど、レインはずっと楽しそうに笑っていた。
「あのお兄様が、一体どんな人間の血を吸ったのかとも思って、起きるのを待っていたのだけど……ふふふふ、これは、面白くなりそう」
「……一体、どういうこと?」
エルシアが聞き返せば、レインは何も隠そうとはせずにこたえる。
「あなたもお兄様の噂くらい、聞いたことはあるでしょう?」
出会うことも稀、昼間は人前に姿を見せない引きこもり公子。
『ヴァンパイアかもしれない』だなんて囁かれていたけれど、それは真のことだった。
「わたしたちは、夜の支配者だなんて語られた通りに、夜行性だったのよ」
「だった?」
「えぇ、元々はね。人の血を吸うことで、ヴァンパイアは人の世に溶け込むことができた」
伝説には語られないことなのだろう。
おとぎ話にすらならずに、エルシアが聞くこともなかった事実を、そうしてレインは語り始めた。
「本来、ヴァンパイアという種族は、陽の光を浴びると急激に身体能力が落ちて、歩くことすらままならなくなる。だけど、人の血を吸ったヴァンパイアからはそんな欠点もなくなって、人に近づくことができたの」
吸血というヴァンパイアにとっての食事が、人に近づき適正していくための進化であったかのように。
エルシアにはそう聞こえた。
「初めに地に堕とされたヴァンパイアはね――ってもう、その辺の由来だなんてことは数百年も前の話で、わたしたちには直接関係がないことだけれど……ほら、伝説に語られるような翼だって、ないでしょ?」
くるりと座りながら背中を見せようとするレインに、エルシアはこくりと頷く。
「わたしたちは人の世に適応するために、人の血を吸うことを選んだ。夜行性だったってのは言葉通りよ。人の血を吸っていれば、人と変わらずに生活ができるから」
レインの言葉を裏に返せば、人の血を吸わずにいれば、ヴァンパイアはヴァンパイアとしての生活しかできないということだろう。
「かしこいあなたなら察しがついたでしょう? お兄様は、とっても偏食なの」
「偏食?」とエルシアが聞き返せば、レインは「えぇ、困ったほどにね」と笑って頷いた。
子供が好き嫌いをして野菜を食べないだなんて話はよく聞くことだろう。
しかし、それは子供にしたら別に好んで食べるものがあるだけのことで、ヴァンパイアに置き換えて考えてみたところで、どうもレインが語った話とは噛み合わない気がした。
「そう。だから、家族みんな、困っていたの」
レインはそう考えたエルシアの心を読んだようにして、にこりと笑う。
「わたしたちがあの手この手を考えても、決してお兄様は、人の血を吸おうとだなんてしなかった」
じとりと落ちるレインの紅い瞳は、呆然と話を聞いていたエルシアを射抜くように細められている。
エルシアが無意識に覚えた緊張のままに首筋へと触れれば、レインは再びにこりと笑った。
「ましてや人助けのためにだなんて……あのお兄様が考えたとは思えない。だったら、どうして、お兄様は、あなたの血を、飲んだのでしょうね?」
そう笑うレインの紅い瞳に、エルシアは人ならざる恐怖を覚えてしまって――。
伝説に語られるヴァンパイアは、伝説のままに存在する。
ならば、その紅い瞳の前で、嘘を吐くことは許されなかったのだろう。
「……そんなこと、わたしには、わからない」
正直な気持ちを吐露したエルシアに、「えぇ」と、レインはやはり楽しそうに笑ったのだった。
「そうでしょうね、今はまだ。だから、楽しみなのよ」
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