3-3

 窓から吹き込むそよ風に、レースのカーテンがさららと揺れて、部屋は静けさに包まれる。

 結局それ以上、エルシアはレインの言葉にこたえることができなかった。

 そうしたエルシアの顔を見てまた楽しそうに笑ったレインに、ミスティスはハロワイル邸に連絡を入れてくれるとのことで、ふたりは部屋を出て行った。


「ここまでよくしてもらっちゃって……いいのかな」


 エルシアはそっと、ベッドの上に畳まれて置かれた薄桃色のワンピースを手に取る。

 レインたちはエルシアのために着替えまで用意してくれていた。

 助けてもらっただけに留まらず、こうも待遇がいいと、安心よりも先に不安がくるのは仕方がないだろう。

 捻った足もしっかりと手当てがされていて、昨夜に比べれば痛みもだいぶ引いている。

 パジャマを脱いだエルシアはベッドの縁に腰かけて、ゆっくりと左足をかばいながら立ち上がってみた。

 真っすぐ立てはしなくても、足を引きずりながらであれば歩けそうだ。

 エルシアはそうして、用意してもらった着替えに袖を通した。

 ふんわりとした膝下丈のワンピースに白いカーディガン、それと合わせた脱ぎ履きしやすいサンダル。

 足を怪我したことを考えてわざわざ用意してくれたものなのだろうか、と考えながら再びベッドに腰かけ、「はぁ」と息を吐いた。


 昨夜エルシアが着ていたドレスは、部屋にあるハンガーラックへかけられている。

 その横のテーブルの上には、首飾りと白いハイヒールがきちんと揃えて並べられていた。

 昨夜何があったのかは、レインが説明してくれた通りなのだろう。

 エルシアは脱いだパジャマを畳みながら、改めて先ほどの邂逅のことを振り返った。


 レイン・ヴァン・ストリフォン。

 公爵家にヴァンパイアの血が流れているのは、噂ではなく真実だった。

 その紅い瞳を前にしてしまえば、疑うことなどできはしない。


 エルシアも交渉の場で様々な人の目を見てきたけれど、彼女ほど瞳でモノを語る者を見たことはなかった。

 人の目には、想いが映る。

 彼女が楽しそうに笑ったその瞳の奥に見えた、彼女が話してくれた言葉とエルシアのことを心配してくれていた気持ちは本心だったと伝わってきた。

 紅い瞳の前で人が嘘を吐けないように、その瞳は嘘を吐かなかった。


「やっぱり、夢じゃなかったんだ」


 ひとりになって改めてそう振り返れば同時に、昨夜見た同じ色の瞳をする彼の、戸惑ったような表情が思い返された。

 エルシアが呆然と窓の外へと目を向ければ、コンッと静かに一回、部屋のドアが叩かれる。


「は、はい! 着替えました。大丈夫です」


 思わず上擦った返事に、慌てて顔を上げるエルシアだったけれど。

 静かに開かれたドア口には、昨夜とは打って変わって普段着といった様相で、黒いシャツに同じく黒い色のスラックスを履きこなす彼が立っていた。


 さらりと揺れる色素の薄い銀色の髪。

 ぱちりと開く切れ長の目に覗く紅い瞳。

 整った顔立ちは、陽の光の下でもやはり端麗なままに不気味なほどで。

 表情が希薄で読みづらい淡泊な印象からは、冷たく研ぎ澄まされた刃物のような鋭さまで感じてしまう。


 エルシアが息を呑めば、彼は涼しい顔をしたまま、「ん」と頷いた。


「目が覚めたと、聞いたから」


 心配してくれていたのだろうことは、なんとなくエルシアにも掴めたところだが、彼が何を考えているのか、その表情からは窺いづらい。


「あ、あの」


 先ほどのレインの言葉が頭の片隅には引っかかっていて、どうして彼はわたしを助けてくれたのだろう――と、疑問は喉元へ引っかかる。

 エルシアは思わず立ち上がろうとしたけれど、しかし、思ったように足に力が入らなくて、バランスを崩し、尻もちをつくように再びベッドへ座り込んでしまった。

「いてて……」と、恥ずかしくもなり顔を上げるエルシアに、カルティオはどこか手を出そうとして引っ込める。

 眉ひとつとしても動かさないままに、だけど、少し何かを躊躇ったような、そのような表情をエルシアは見逃さなかった。


「座ったままで、いい」


 そう静かに口を開いたカルティオに、エルシアは返事をすることはできなくて、こくりと首を縦に振る。

 エルシアが座ったままそうして彼の顔を見上げると、カルティオは涼しい顔をして言葉を発した。


「無事でよかった」


 ぼーっと見上げたエルシアの眼差しに、昨夜と同じようシンッと、彼の紅い瞳が落ちるように覗いている。

 急に現れた彼に、その顔を前にしてしまえば、やはり昨夜のことが思い返された。

 顔がじんわりと熱を持ってゆく感覚に、エルシアは思わず頬を押さえ、慌てて頭を下げる。


「ありがとうございました。助けてくれたって、レイン様から状況は教えてもらって……」


 エルシアが顔を上げれば、彼は顔色ひとつ変えないまま、先ほどまでと同じようにエルシアのことを見下ろしている。

 一瞬、なんと言葉を続けようかと悩むエルシアだったが、自然と続きの言葉は湧いて出た。


「わたしは、エルシア・ハロワイル」


 交渉の場において、自身から身分を明かすことは大切だ。

 別に彼と取引をしようとも思ったわけでもなかったけれど、エルシアは返事を待つように表情を引き締めて、その顔を見上げる。

 ただ、彼はやはり表情を変えないままに、「あぁ」と、小さく頷いた。


「俺は……カルティオ」


 そう名乗り返してくれた彼の声色には、揺れるような感情の起伏があった。

「ん?」とエルシアが首を傾げれば、カルティオは涼しい顔をしたまま、そうしたエルシアのことを見つめ返していて。


――怯えている?


 どうも覚えた違和感に、エルシアはそっと言葉を返した。


「助けて……くれたんですよね?」


 カルティオはどこか警戒したように身構えて、こくりと小さく頷く。


――怯えているというよりは、迷っている?


 目の色も、眉も口元も微動だにしないけれど、どうにも感じたカルティオの想いに、エルシアのほうが戸惑ってしまう。

 彼はそれ以上返事をするつもりもないようで、窓から吹き込んだそよ風が会話の途切れた気まずさを際立てるように、部屋は再び静まり返った。


 交わした視線に、陽の光を弾く紺碧の瞳と、物静かな紅い瞳は何も語らない。

 彼は、伝説に語られるヴァンパイア。

 決して昼間は、人前に姿を見せないはずなのに。


「起きていても、平気なんですか?」


 エルシアが意を決し静寂を破れば、カルティオは少し悩んだようにしてから小さく頷いた。


「……きみの血を、吸ったから、な」


 そっと視線を逸らしたカルティオに、エルシアは口を噤んで考えた。

 先ほどレインから聞いた話の通りに、それが、ヴァンパイアが人として生きるためには必要なことなのだろう。

 ただ、そうして改めて言葉にされると余計に昨夜のことが思い返された。


「そう、よね」と、エルシアは返事をしながら、バランスに気を付けて左足をかばい、両足に力を込める。

 今度は転ばずに立ち上がることができて、エルシアが顔を上げれば、カルティオはそうしたエルシアの動きを紅い視線で追っていた。

 近づいた視線の高さに、にこりと笑って見せるエルシアに、カルティオはやはり表情を少しも変えることはなく。

 エルシアは、繰り返した昨夜の光景と思考に、次の言葉を探した。


 レインの話した通りであるならば、カルティオは今まで決して人の血を吸わなかった。

 だからこその引きこもり公子で、ゆえに、昼間は人前に姿を見せなかった。


――『どうして、お兄様は、あなたの血を、飲んだのでしょうね?』


 レインの言葉には、引っかかることが多くある。

 そして、エルシアが彼に覚えた違和感も、また。


「どうして、あのとき……助けてくれたとき、謝ったの?」


 戸惑ったような表情には、『ごめん』と囁いた口元と、覗いた牙が儚い幻想の中で滲んでいる。

 その声は届かなかったけれど、だけど、たしかな想いとしてあの瞬間に、エルシアへと伝わっていたことはあった。


 エルシアがはっきりとそう聞けば、彼は少し困ったように、あのときと同じよう眉間へ皺を寄せる。

 再び吹き込んだそよ風が、ふたりの間にある距離を撫でるように通り過ぎて。

 はらりと揺れたカーテン越しに、差し込んだ陽の光は雲へ重なり、翳りが見えた。


 細められた紅い瞳は、真っすぐとエルシアへと向けられている。

 エルシアもまた真っすぐと、その瞳へこたえるように眼差しを向けて、返事を待った。

 彼は瞬きをすると、元の冷めた表情を取り戻したように、小さく頷いてから口を開く。


「きみを……壊してしまうと思ったから」


 カルティオが紡いだ言葉を、エルシアは呑み込むことができなかった。


『壊してしまう』――とは。


 だけど、そう呟いた彼はどこか気まずそうに視線を逸らし、何かを悟ったように背中を向ける。


「迎えが、来た」


 ちらりと横顔を向けたカルティオは、それだけ言い残すと歩いて行ってしまい、部屋を出て行った。


 結局、彼が何を考えていたのか、どうして助けてくれたのか。

 その真意を聞くことはできなくて、その背を呼び止めることも、今のエルシアにはできなかった。

『無事でよかった』と、心配してくれた彼の気持ちは本心だったのだろう。

 だけど、儚い幻想の中、渦巻くもやもやとした違和感には、彼の紅い瞳もこたえてはくれなくて。


 エルシアの中にはカルティオが見せた、戸惑ったような表情だけが残っていた。



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