夢見る乙女は溺れるほどに恋を知る~引きこもり公子は偏食ヴァンパイア~

よるか

 

ヴァンパイアは月下に戸惑って

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 ムーンダリア公国には、古くより語られた伝説がある。

 十五の夜を数え、雲ひとつない満月の下、闇夜を支配するヴァンパイアがこの地に降り立った、と。

 口元より覗く牙で人の血を啜り、黒き翼で夜の闇を抱擁する。

 心を見透かす紅い瞳の前では、人は嘘を吐くことができず、満月の下ではいかなる悪事も晒された、と。


 圧政を敷いた旧帝国が征伐された歴史をなぞって、その象徴として公国の建国から数百年、そうしたヴァンパイアの伝説は数々のおとぎ話に語られ、人の世に浸透することになったのだ。

『悪いことをするとヴァンパイアが攫いにやって来る』だなんて、親が子を叱ったりもする。

 だけど、おとぎ話は所詮、子供騙しでしかなくて。

 今や本当に実在していたのかさえ定かでない彼らは、歴史を重んじたがゆえの、ただの伝説でしかないはずだった。


 ヴァンパイアだなんて、信じてはいなかった。

 子供の頃からそう怒られるたびに、うんざりとした記憶だってあるけれど。

 だけど――と、エルシア・ハロワイルは、紺碧色の瞳を煌めかせながら狼狽していた。


 港町を見下ろす丘の上、古城のように聳え建つストリフォン公爵家の大きな屋敷。

 今宵、執り行われている壮大な社交界に、その華やかな舞台をひとり抜け出したエルシアは、赤絨毯敷きの広く長い廊下の先で、それに出会った。

 アイスブルーのカジュアルなミディアム丈のドレスで着飾っても、セットした金色の髪は胸元まで垂れ、既に崩れてしまっている。

 右手の指先に白いハイヒールを一足引っかけたまま、裸足でいたことなんて気にした様子もなく、エルシアは、履き慣れない高いヒールで捻った足首の痛みなど忘れて、視界へ入った端麗な青年に意識が奪われる。


 豪華絢爛なシャンデリアが下がる広い玄関ホールに、二階バルコニーへと続く金縁の大きな窓は、彼がそこにいるだけでまるで壮麗な絵画を飾る額縁のよう彩られる。

 広がる星空のキャンパスに、煌々と照らしつける青白い丸い月がスポットライトのようにさえ映って、黒き羽が舞うような幻想を見せられた。

 耳へかかる色素の薄い銀髪が夜風に靡き、すっと通る鼻筋と固く結ばれた口元に、バルコニーのフェンスへ頬杖をつく横顔は整いすぎているがゆえに不気味なほど。

 陰鬱に細められた切れ長の目に、紅い瞳は物静かながら冷たく煌めいて、ルビーにも似たその輝きにはとても値打ちなどつけられそうもない。

 すらりと伸びた長い手脚に、黒いシャツとワインレッドのスーツを着こなして、そう姿勢悪く立っているというのに、溢れる気品を隠し切れてはいなかった。


 その顔には、エルシアも覚えがある。

 カルティオ・ヴァン・ストリフォン。

 ムーンダリア公国の玄関口となる港町レトリフォー、この一帯を治めるストリフォン公爵家の長男で、次期当主。


 伝説に語られたヴァンパイアと同じ色の瞳を持つ彼の名はあまりにも有名で、ただ、そうして実際に彼と出会えることが稀なのだと、エルシアも知っていた。

 彼はあまり人前に姿を見せることがない引きこもりだと、それもまた有名な話だったから。


「どうして、ここに」


 無意識に吐き出してしまった言葉に、慌てて口元を手で覆ったところで既に遅い。

 開け放たれた窓より吹き込む夜風が、窓際で立ち尽くすエルシアの汗ばんだ白い肌を撫でる。

 じとりと落ちるよう向けられた紅い瞳に光が差して。

 きれいだ――と、どきりと跳ねた鼓動に、嘘を吐くことなどできはしない。


「あなた……今日の主役、でしょう」


 月明かりの中で輝くような彼は、まさにそう呼ぶに相応しいというのに。

 そう驚いたエルシアを、彼は退屈そうに頬杖をついたまま、横目で一瞥した。


「……くだらないよね」


 たったひと言だけ零して、彼は夜空を見上げている。

 エルシアは、返事をすることもできなくて、だけど何故だかその横顔へ惹かれるように、痛む足のことなど忘れ裸足のまま、バルコニーへと一歩を踏み出していた。


 囁くようなそよ風には、屋敷の庭園一面に広がるダリアの香りが乗せられる。

 ヴァンパイアだなんて、信じてはいなかったけれど。

 鼓動が跳ねる。

 体温が上がる。

 息も、上がる。

 ふらふらとしたエルシアの一歩に、彼はもう一度ちらりと視線を向け、そして、その紅い瞳を驚いたよう見開いた。


「きみ……大丈夫?」

「え?」

「放っておくと、死にそうだけど」


 そう彼が吐いたひと言にエルシアが額を押さえれば、じんわりとした熱が指先に広がって、ぐらりと視界が揺れた。


『え?』――と、しかし、もう声は上がらない。


 吐き出そうとした息は苦しいほどに、か細く切れる。

 踏み出す次の一歩に地を捉えた感覚はなく、指先に引っかけていたハイヒールがからりとバルコニーを転がっていく。

 世界がひっくり返るような錯覚に、だけどふわりと、エルシアは不思議な浮遊感に包まれた。

 見上げた夜空に、下から覗く彼の顔がどこか近くも感じられる。

 意識がぽわぽわとしているからか。

 それとも、そうして彼に抱えられているからか。

 熱病を自覚したエルシアに、もう思考する力は残っていなかった。


 真っすぐ落とされた紅い視線が突き刺さるようで、そうやって抱えられるのなんて小さい頃、父にあやされたとき以来だっただろう。だけど、恥ずかしいだなんて考える余裕もなく、上がる息と熱に、身体の節々が痛み出す頃合いだった。

 困ったよう眉間に皺を寄せたその顔が、ぼんやりとした意識の中でも印象深く刻まれる。

 彼は何かを囁いたけれど、エルシアの耳には届かない。


――『ごめん』、だって……?


 閉じゆく瞳でその口の動きを追っていれば、そうして開いた彼の口元からは鋭い八重歯が覗いていた。


――あぁ……それも、夢だったのか。


 近づいてくる紅い瞳に吸い込まれそうにもなって。

 立てられた牙はそっと、エルシアの首元へ、優しくキスをするかのように触れている。

 ミントのような爽やかな香りが落ちゆく意識をくすぐって、痛みなんてものは全く感じなかった。


――どうして、謝るの?


 何をされたのか、何が起こったのかわからないまま、エルシアは眠るよう意識を手放した。


 儚い幻想の中、夢に見たヴァンパイアは、冷たい瞳に、たしかな熱を持っている。

 そうして、エルシアは出会ってしまったのだ。

 決して日中は人前に姿を見せないことから、『本当に伝説のヴァンパイアなのでは』と、まことしやかに囁かれ続けた公爵家の引きこもり公子、カルティオ・ヴァン・ストリフォンに。



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