ヴァンパイアは舞台を見下ろして
2-1
社交界へ出向くことを決めたエルシアは、社長室を訪ねたその足でハロワイル邸へ帰宅した。
赤い屋根に立派に構えられた二階建ての屋敷は、家族三人に、使用人が五人暮らすには狭すぎず、広すぎず。
いつも母とメイドたちが手入れをしている花壇に咲いたダリアを横目に駆け抜けて、玄関口の大きな二枚扉を開け放つ。
二本の階段が左右に構えられる吹き抜けの玄関ホールは、エルシアの久々の帰宅にもいつも通りに出迎えてくれる。
掃除をしていたメイドが「お嬢様、おかえりなさいませ」と頭を下げれば、エルシアは「ただいま」とだけ挨拶を返し、そのまま階段を上がって自室へ直行した。
ふかふかの絨毯に、天蓋付きのベッドと簡素なティーテーブルセット。
白いベッドシーツは皺なく張り詰めていて、淡いピンク色のカーテンは、換気のため開けられた窓の風に揺れている。
壁際に並べられた本棚には、童話から哲学書に、仕事関連の書物が詰め込まれていて、小さい頃から読み耽ったそれらが、今のエルシアを象ったとさえ言えた。
エルシアは後ろ手に扉を閉めて、「ふぅ」とひと息吐く。
そうすれば部屋の脇に、バロルが運び込んでくれていた革張りのトランクケースが目に入って、旅の思い出にも浸りたくもなった。
だけれど、「ううん」と首を振って思いなおし、部屋に備え付けられているバスルームへ向かって、蛇口を捻り、湯の温度を整える。
一度部屋に戻って、首から下げた首飾りは外して、きちんとドレッサーの上に置いた。
鏡に映った瞳は静かに細められて、それもなんだか面白くなってきた――と、自然とエルシアの口角は吊り上がる。
そのままひと思いに服を脱ぎ捨てベッドの上に投げ出せば、バスルームへ飛び込んで、温かくなり始めるシャワーを頭から浴びた。
疲れに化粧まで流れ落とし、気を改めるように引き締めて。
エルシアはそうして、決戦に挑む騎士のよう、今夜の戦いに備えるための準備を始めた。
ゆったりとバスに浸って、丁寧に髪を乾かせば、それから夕暮れも過ぎた頃。
エルシアはエヴァーシアとメイド三姉妹たちに先導されて、ドレッサールームの鏡の前に座らされていた。
ドレスに合わせた淡いブルーの下着にビスチェを引き締めて、メイドのひとりが髪を丁寧に梳いてくれれば、ふたりのメイドが左右からエルシアの整った顔を覗き込むよう、あれやこれやと化粧を施していく。
「気合い入れなくちゃ」
「お嬢様の晴れ舞台」
「きれいに、着飾って」
まるで高価な宝石を磨く商人たちかのように、メイドたちにまで気合が入っている。
そのような空気の中ではどうにも居たたまれなくなるエルシアだったが、それでもただ我慢しながらジッと、そうしてきれいに整えられていく鏡の中の自分自身と向き合った。
エヴァーシアはそうしたエルシアの後ろで、やはり楽しそうに笑っていて。
「ふふふ、エルちゃんの美貌は、このドレスにだって負けないんだから」
エルシアの視線は鏡越しに、母の横に置かれたトルソーにかけられるあのドレスへと向く。
すると、鏡越しに見えていた長女メイドが、「あら?」と首を傾げた。
「お嬢様、ここに虫刺されの後がありますわ」
髪をまとめてくれていた手を止めて、エルシアの首元を指す。
「え?」と首を傾げそうにもなったエルシアは、化粧をしてくれていた次女メイドに「動かないで」と顎を掴まれてしまう。
首も動かせないままにエルシアが覗いた鏡越し、長女メイドが指すうなじの部分は、たしかに赤みがかり腫れているようだった。
「あれ? 痛くも痒くもないから……いつ、刺されたんだろう」
そう言ったエルシアに、メイドたちもそれぞれ手を止めてうなじを覗き込んだ。
「お嬢様の柔肌が……」と、どこか惜しそうに小声を零した末っ子のメイドに、長女メイドが何か思いついたようにポンッと手を叩いた。
「わたし、虫刺されによく聞く塗り薬を持ち歩いているのです。塗っておきましょうか?」
庭仕事が多いからだろう。そう言ってエプロンのポケットより軟膏を取り出すので、エルシアは「えぇ、お願い」と素直に頼むことにした。
特に痛みも痒みもないのだから放っておけばいいのだけど――と、少し引っかかることはありながら、思ったけれど。
首元にひんやりとした感触が広がって、エルシアが気遣いに感謝している間にも、メイドたちはそれぞれの作業を再開した。
ぷくりと赤く腫れた虫刺されの跡にも化粧下地を施し目立たないようにしてくれて、そうして、エルシアのメイクアップは完了する。
目元に入るアイシャドウはいつも自分でつけるものより濃く感じたが、社交界のような煌びやかな場ではこれくらいのほうがいいのだと、三姉妹に熱弁された。
丁寧に整えてもらった髪にも艶が戻っていて、エルシアはエヴァーシアとメイドたちに促されるまま、ドレスに袖を通す。
そうすれば、昼間の帰宅直後からは見違えるほどに磨かれたエルシアが、鏡の中には立っていた。
アイスブルーのミディアムドレスに、首元から提げた蒼い輝きを放つ首飾り。
しかし、疲れがすっかり吹き飛んだエルシアの瞳の輝きも、宝石には負けていない。
履き慣れない白いハイヒールのせいもあって、浮足立つような想いではあったけれど、「わぁ」とエルシア自身、魔法をかけられて変身したかのような気持ちに声が漏れ出た。
思わず顔を赤くしたエルシアに、三人のメイドたちはうっとりと手を叩いていて、一部始終を後ろから見守っていた母もどこか満足そうに笑った。
「どこに出しても、恥ずかしくない!」
おっとりと頬に手を当てた母に、エルシアがただ照れ隠しに「はぁ」と、ため息で返事をすれば、部屋のドアがノックされた。
図ったようなタイミングで迎えにやってきたのは、いつも通りに燕尾服を着こなすバロルで、どうやら出発の準備は既に整っているらしい。
エルシアはそのまま、母とメイドたちに見送られながら、家の前に用意されていた馬車に乗り込んで、社交界が執り行われるストリフォン公爵邸を目指すこととなった。
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