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 レトリフォーは近隣諸国を含めても大きな港を有する町として有名で、ムーンダリア公国の玄関口ともなれば数多の船が往来する港として、いつの時期も活気に満ち溢れる。

 波止場には大型の客船から貨物船に、蒼く透明度の高い海は水産の源ともなって、漁師たちの小型船も数多く停泊していた。


 その波止場近く、一等地に堂々とした看板を掲げるのが、エルシアも務める父の会社、貿易商社ハロワイルカンパニーだ。

 石造りの四階建てに、隣接する巨大な倉庫は港に面して、本社の横にはエルシアたちが暮らすハロワイル邸が併設されている。

 一階は人の出入りも激しい商店として夕暮れまで大盛況、毎日賑わっていた。


 廊下に出ると階下の騒がしい声が響いてくるようで、決心したエルシアは自身の仕事部屋を後にすると、ひとつ階段を上がって四階、社長室である父の部屋を訪ねた。


 重厚な暗い樫製のドアをノックすれば、中からは「どうぞ」と、落ち着いた雰囲気のある低い声が響く。

 返事をもらってひと呼吸置いて、静かにドアを開けて部屋へ入ったエルシアは、その重厚な空気に呑み込まれた。


 大きな窓を背に、黒いシックなプレジデントデスクは部屋の入り口を睨み付けるように向いている。

 壁にかけられているのは、名匠が描いたどこか異国の湖の絵画。

 天井まで届く本棚と戸棚が部屋を二辺、囲うように並べられていて、そこに並ぶのは父の趣味である骨董品の数々。

 曲がりくねった壺や、空から降ってきたのだという謎の鉱物など、エルシアにはよくわからないものたちが、いつも丁寧に磨かれて並べられている。

 そのような中心で、今も仕事に明け暮れていたのだろう。

 デスクに向かっていたアムトジオは、顔を上げるなり微笑んだ。


「おかえり、エルシア」


 金色に白髪交じりの頭髪は清潔感あるベリーショートに切り揃えられていて、エルシアとよく似た切れ長の目は鋭くもありながら、覗く青色の瞳は海のような深い大らかさを持っている。

 しっかりと髭を剃った口元に、整った顔立ちはシャープなまでに厳しくもあったが、それは商人として、数々の修羅場を乗り越えてきたがゆえの男の顔だったのだろう。

 筋肉質な身体付きに、着ている白いワイシャツの胸ポケットからは、懐中時計の金の鎖が垂れている。

 あまり着飾らない人ではあるけれど、エルシアが去年の誕生日に贈った銀色のイヤーカフスが、耳元できらりと光った。


「ただいま戻りました。お父様」


 淑女の嗜みらしくワンピースの裾を掴んで左足を引き、頭を下げたエルシアに、アムトジオは手にした書類をデスクの上に置く。


「無事で、何よりだ」


 顔を上げたエルシアがにこりと笑顔を作れば、父もそれを心底喜んでくれている。

 ただ、そうしていても消えない父の眉間に寄る皺の数は、年々増しているようにエルシアも感じてしまった。

 何かまた大きな商談に当たるために、書類と睨み合いをしていたのだろう。

 デスクの上へ広がっている買付証明書や契約書の類に、エルシアがちらりと視線を向ければ、アムトジオはそれらを束ねるように片付け始めた。


「どうだった、リエノス王国の空気は、楽しめたか」


 書類をデスクの脇に重ねながら、アムトジオは話を続ける。


「えぇ、おかげさまで。わたしにとってもいい経験でした」


 契約を交わすためには、自分の足を使えというのが父の教えだ。

 何もエルシア自身が現地へ直接向かわずとも、社員を使えば済む話ではあるけれど、それでもその場で見聞きし、肌で感じる空気には大切なモノがある。

 今回の旅も実際にそうだった。


「……そうか」

「例の件、新たな行商の道筋として、我が社がお手伝いできそうでしたよ」


 すぐに仕事の話になるのは、エルシアとアムトジオの悪い癖でもある。

 アムトジオはそれを聞いて「ふぅ、そうか」と、安堵の息を大きく吐いた。


 リエノス王国は温暖な気候が特徴的な地域で、そこでしか採れない果実は、ムーンダリア公国の市場にあまり流通していないもの。

 それに早くより目をつけていたアムトジオの仕事を引き継いで、エルシアは直接リエノスの市場へ下見のため、旅に出ていたというわけだ。


「それは、よかった。まあ、現地での交渉は……大変だっただろう?」


 そうしたアムトジオの気遣いに、エルシアは「ううん」と笑顔を作ったまま、首を横へ振った。


 現実は父の心配とは真逆のものだったから。

 現地の商人たちと言葉を交わす中、女性のエルシアがハロワイルカンパニーの代表として出向けば驚かれはしたけれど、契約はうまく進んだ。

 それどころか交渉の場でエルシアが強気に出れば、それが向こうにすれば面白かったらしく、エルシアのやりたいように仕事が進められたのもまた事実。


「こちらの市場とあちらの市場、利益の分配も、お父様が目をつけてくれていた通りに進められそうですわ。後は、公国と王国、双方の了承が必要になるでしょうけれど」


 国境を越える商品のやり取りが大きくもなると、国同士の話し合いが必要となる。

 その辺りはまだエルシアには及ばない部分で、アムトジオの繋がりを頼るしかない。


「あぁ、そちらは俺のほうでうまく進めておくよ」

「助かりますわ、お父様」


 すんなりと交渉が進んだことを、父も喜んでくれてはいるのだろう。


「わたしも、あの市場はハロワイルカンパニーの名を売るために、大きな足掛かりになると思うのです」


 ただ、エルシアがそう話を続けると、アムトジオはどこか浮かない顔をしたまま、デスクの上に両腕をついて、エルシアの顔を見つめていた。


「……あぁ、そうだろうな」

「どうしたのです? お父様」


 首を傾げて聞き返すエルシアに、アムトジオはどこか気まずそうに視線を逸らした。


「いや、まあ……そうだな。エルシアは、この仕事が楽しいか?」


 何を改めて聞くのかと思えば、そんなことか、と。

 エルシアは、「はい、当然です」と、頷いて見せる。

 顔を上げる父は、それでもやはり不安そうに潜める瞳をエルシアに向けていた。


「無理をさせてないと、いいんだがな」


 ぼそりと零したひと言を、エルシアは聞き逃さない。

 何を言っているのだろう、と思ったのだけれど。


「疲れただろう?」


 きょとんと首を傾げたエルシアに、アムトジオは言葉を続けた。


「おまえくらいの年頃の女の子は……もっと身なりにも気遣って、人並みの幸せを夢見るものだろうに」


 乱れた髪に目元へ作った隈から、今回の旅の疲労を見抜かれていたのだろう。

 何かに影響を受けたのだろうか、とエルシアは父のその顔を窺って考える。

 ただそのこたえにもすぐに、「あぁ」と、納得がいった。


 エルシアが留守の間に、父と母はあのドレスを用意してくれたのだろう。

 その理由もまた、父の付き添いで社交界へ出向くためということではあったけれど。

 女性が誰もが憧れるようなドレスを前にして、父もそこに、エルシアを照らし合わせて考えてしまったのだろう。

 エルシアのことを理解してくれているからこその不安で、父の瞳に映るその色は、エルシアのこたえを悟っているかのようなものだった。

 首飾りを握り締めて部屋を訪ねてきたエルシアの姿を見て、きっとエルシアが今回もそれを断ると考えたらしい。

 ただ、今日は覚悟が決まっている。

 そのような父にこたえるためにも、エルシアは真っすぐと立ちなおした。


「今宵は、逃げないと決めたのです、お父様」


 長旅の疲れさえ取り払うように、髪を手櫛でさらりと整えて。

 きょとんとしてしまった目元に力を込めるよう、すっとその顔を見据えて。

 手にしていた首飾りを広げ留め金を外せば、それを自身の首に通して留めて見せた。


「それもまた、商人には必要なこと、でしょう?」


 エルシアがにやりと作って見せたしたり顔に、アムトジオは驚いたよう目を見開いた。


「こんな疲れなんて、どうってことありません。それがお父様の商談の力になるのなら、わたしはハロワイルカンパニーの一商人として、付き添うまでです」


 エルシアがそうまで言い切れば、アムトジオは息を呑んだような間を置く。

 ただ、「そうか」と、エルシアのこたえを受け止めたようにして頷いてくれた。


「俺は……おまえに未来を押し付けたんじゃないかと、たびたび心配していたんだ」


 それはエルシアがまだ小さい頃から、仕事のことをなんでも話していた父の悪い癖だったのだろう。

 幼きエルシアに『今度の契約がどうだ』とか『あの商品は今年上がるぞ』などと、仕事の話を再三と聞かせ続けた父に、母もまた『まだ小さい子にそんなことまで話して――』と呆れたように笑っていたことは、エルシアの思い出にだって残っている。


 ただ、父がそう思っていたのとは違うのだ、と。

「そんなことはないのです」と、エルシアは首を振った。


 きっとそれは、夢を押し付けたように責任を感じて、どこかずっと父の胸の中に引っかかっていたことだったのだろう。


「わたしは、やりたいことをやっている。それをお父様もお母様も、女だからと否定するわけでもなく、許してくれた。それで、いいじゃありませんか?」


 堂々とこたえたエルシアに、アムトジオは感嘆としたように頷いた。


「わたしは、この仕事が楽しいと胸を張って言えます。そして、そんな娘の力が会社のために必要だと言うのなら、わたしは喜んで身を投じるつもりです。そう、お応えしにきたのです」


 それが、自身の夢見た未来でもあるように。

 胸元に手を当てて輝く宝石に触れれば、きらりと輝く瞳でこたえるように、エルシアは力強く頷いた。

 アムトジオはそのようなエルシアの勢いに、「お、おう」と椅子に座ったまま、身構えるように背筋を伸ばす。


「ぜひ、わたしを一緒に連れて行ってください」


 エルシアの覚悟は、疾うにアムトジオにも伝わっていただろうに。

 だけど、その言葉で引っかかっていた何かが解けたのか。

 父は、娘の成長に驚いたようにして、ただただ頷いた。


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