1-3

 かちりかちりと進む時計の針の音に、エルシアが疲労感を思い出して数十分。

 すっかり取り残されたドレスへ、横に畳まれて置かれていた黒い布カバーを被せた。

 そう煌びやかなドレスを陽に当て続けるのもよくないだろうと、もったいないと思っただけのことではあったのだけれど。

「はぁ……」と、口元からは再び大きなため息が漏れた。


 エルシアはカーテンを引いて、部屋へ差していた陽光からも逃げるように腕を組んでデスクへ着く。くるりと回る椅子に座ったまま、天井を見上げた。


「……わたしにだって、憧れくらいはあるけれどさ」


 先ほどまで見つめ合っていたドレスのことを思い返して、淡い夢を見る。

 素敵なドレスで着飾って社交界へ出向けば、白馬に乗った王子様と運命的な出会いを果たして、恋に落ちる――だなんて。

 おとぎ話にありがちだったにしても、恥ずかしくなるような妄想が頭の中を駆け抜けた。

 くるくると回る椅子が止まったのと同時に、そのような思考も停止して。


「……ないない」、と。

 ぶんぶんと首を振ったエルシアに、返事をするものなど誰もいない。


「恋だなんて。そんなことを考える余裕だってないし、もったいないんだから」


 そう考えを吹っ切るように、エルシアがデスクへ積まれていた書類を手に取れば、その隙間からはらりと白い封筒が落ちて、デスクの上を滑った。

 留守の間に届いたものを、どうやら部下が書類と一緒にまとめてくれていたらしい。

 デスクの上で止まった手紙にはしっかりと封蝋がされている。

 封蝋に刻まれる家紋には、エルシアも見覚えがあった。


「げ……」と思わず漏れた声に、書類を横へ置き手紙を手に取れば、透かすよう下から覗く。

 透けはしない手触りのいい上質な封筒に、手にした重さから察するに、どうやら中に入っているのはただの便箋のようだけれど。

 くるりと表を向ければ、そこに記された名にはやはり見覚えがあった。


――『素敵なエルシアへ、ディレグ・オウルカム』


 その言葉を見ただけで覚えた嫌悪感に、エルシアは思わず手紙をデスクの上に投げ置く。


「なんで、また……」


 ディレグ・オウルカムはこの辺り一帯を占めるレトリフォー治安局長官の息子で、オウルカム家といえば、かつては騎士の名門としても名を馳せた有名な貴族。

 そのような彼とエルシアは、十六になるまで通っていた学園で、いわゆる同級生だった。

 さらりとした金髪に、歯の浮くようなセリフが似合うキザなやつ、というのがエルシアの覚えている彼への印象だ。


 女性が放っておかないような美貌を持っていて、学園でも常に彼の周りには取り巻きとなる子たちが飛び交う蝶のように集まっていた。

 小さい頃から女性に困ったことがないという噂は、真のことだったのだろう。

 そうして集まる女性への気遣いに長けていて、恋愛においてモテるということは彼みたいな人のことを言うのだろうと、エルシアは他人事ながらに人間観察の対象にしていた。


 ただ、そんな彼は学園の卒業間際、『誰にも振り向かない高嶺の花』という不名誉な称号を冠していたエルシアへと近づいてきた。

『きみみたいな美しい女性が、社交界へ出ないのはどうしてだい?』と、遠回しな彼の誘いには、『そういったことに興味はないから』と、エルシアもはっきりと断りを入れたつもりだった。

 しかしそれからというものの、負けず嫌いだったらしい彼は事あるごとにエルシアへ付き纏うようになったのだ。


 エルシアは後に知ることになったのだが、ディレグたちの取り巻きにいた男子共が、『卒業までに誰があの高嶺の花を落とせるのか』と、賭けの対象にしていたらしい。

 未だにそのゲームの続きでもしているつもりなのか。

 学園を卒業してから二年、互いにある程度の立場もできただろうに、エルシアが一度も手紙の返事を書いたことがないというのに、未だにこうして手紙を寄越す。

 そういった苦い思い出も合わさって、蝶よ花よと育てられ集まる花園のような、煌びやかな社交界の世界からは自然と足が遠ざかるようになった。


 だけど――と、今日のエルシアの胸の中には、母の言葉が引っかかっている。


「……やっぱり、今回は、逃げられないわよね」


 こたえを導き出すように零れた独り言に、ぼーっとした視線は自然と、デスクの上に置かれている写真立てへと向いていた。


 白いワンピースにつばが広がる麦わら帽子を被って、まだ六つほどのエルシアは満面の笑みを浮かべ、アムトジオに肩車をされている。

 しっかりアイロンがかけられた白いワイシャツはいつも身なりに気を遣う父のトレードマークで、筋肉質なたくましい腕は、エルシアを温かく支えてくれていた。

 若白髪が目立つ短く切り揃えられた金色の髪に、エルシアとよく似た目付きの目元には、写真の中の父も隈を作っている。

 だけど、そのような疲れを感じさせないように、にかりと白い歯を覗かせて、笑っていた。


 その笑顔が、エルシアは幼い頃から大好きだった。

 仕事人間であっても、たまの休みには必ず遊んでくれる。

 そういった思い出が、父の眉間に寄る皺よりも深く、エルシアの中には刻まれている。


 父は遊びだけではなく仕事のことも、いろいろなことをエルシアに教えてくれた。

 元より商人の家系だったハロワイルの家業を継ぎ、行商の管理を続けて、男手ひとつで大きくしたその道は今や二百人以上の社員に、多数の顧客を抱える立派な貿易商社にまで成長した。

 そうした父の背中を見て、エルシアもこの道を進むことを決めたのだ。


「……わたしには、やりたいことがあるんだから」


――貿易商社ハロワイルカンパニーを、他国にまで響くような大きな会社にしたい。


 ただ、男社会の商業の世界は、女性がひとりで渡り歩くには過酷な道なのかもしれない。

 父もエルシアの意志を尊重してくれてはいる。

 母は『女性らしくしてほしい』とも言いはするけれど、それでもエルシアの夢を否定したりはしなかった。


 夢に見るだけで、諦めたくはない。

 おとぎ話のように、語るだけではいたくない。


「……だったら、やってやろうじゃない」


 そう決意して、エルシアは黒い布カバーがかかるトルソーへ視線を向けなおす。

 人が集まる場、社交界ともなれば、それこそ貴族が集まるバルの拠り所。

 コネクションを作るにはもってこいで、商人のビジネスにとっては必要なことだろう。

 どこに商売のチャンスが転がっているかは、わからない。


「だったら」と、そう思い返したら、デスクの上へ投げ出した先ほどの手紙が目についた。

 この手紙ひとつにしたって、そうなのかもしれない――と。


 エルシアは読む気もなくそのまま捨てるつもりだった手紙を手にすると、封を破って折り畳まれていた便箋を開く。

 読み始めた一行目のセリフから嫌な顔が思い返され、破り捨てたくなりもしたけれど、流し込むように我慢しながら、記された言葉を読み切った。


 ただ、正直に感想を言えば、やはり読む必要なんてものはなかっただろう。

 読み進めるたびに眉間の皺は深くなり、エルシアの口元からは自然とため息が零れ落ちる。

 飾り立てた言葉には、取り繕ったような嘘が綴られるだけ。

 どうにか気を引こうと考えたのだろうけれど、そのどれにもエルシアの心は惹かれなどしない。


「こんなの、ヴァンパイアじゃなくたってわかるわ」


 紅い瞳で人の嘘を見抜くという、おとぎ話の中のヴァンパイア。

 そんな子供騙しのような力の存在に、エルシアの口元からは「ふっ」と、笑みが零れた。


 ばかばかしい、と。

 女性らしくしろって、こういう相手にも取り繕って返事をしないといけないのかしら、と。

 面倒にもなって、手紙はデスクの横、ゴミ箱の中へと収められることになった。


 エルシアはその勢いのままに立ち上がると、部屋の中に置かれていたトルソーへと近づいて、再び黒い布カバーを取り払う。

 煌びやかなドレスに、首元へ提げられた蒼い宝石は、まるでそうした決意にこたえるように輝いて――。


「行きましょう」と、エルシアはトルソーにかかっていた首飾りを手にし、父に返事をするため部屋を後にした。


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