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 ドアの隙間からひょこりと顔を覗かせたのは、エルシアの瞳の色と同じ、紺碧の視線を輝かせるエルシアの母、エヴァーシア・ハロワイルだった。


「エルちゃん、帰ってきてたのね」


 エヴァ―シアが心底嬉しそうに浮かべた笑顔は、エルシアが鏡を覗き込んだのではと錯覚するほどに自身とそっくりなもの。

 腰の辺りまで伸びた金色の髪が緩やかなウェーブを描き、エヴァーシアはエルシアの返事も待たずに、いそいそと部屋へ入ってきた。


 足首まで丈のある薄緑色のワンピースドレスを揺らし、ゆったりとした白いカーディガンを羽織る姿には、年相応の落ち着きが垣間見える。

 特別若作りをしているわけでもないのに、きれいな白い肌は瑞々しく張りがあり、未だにエルシアと並んで立っていると姉妹に間違われることもあるほどだ。

 しかし、よく似た顔立ちではあるものの、ふたりの目付きはまるっきり違う。

 母のおっとりとした垂れ目には、溢れんばかりの優しさが詰まっていた。


「どうしたのです、お母様」


「あらあらー」と、まったりとした笑顔を向け続けるエヴァーシアに、エルシアはなんとも言えない奇妙な空気を感じてしまう。

 母がこうしてわざわざ仕事部屋を訪ねてくることは珍しくて、どうもその顔を見ていれば、『久々に娘の顔を見たかっただけでもない用事』があるように思えた。

 バロルが頭を下げながら一歩引き下がるのを一瞥して、エルシアは言葉を続ける。


「何か、ありましたか」

「あらあらー、そんな風に言わなくても、いいじゃあない」


 顔の横で手を打ち合わせるエヴァーシアに、エルシアは「はぁ」と、返事代わりに息を吐く。


 はんなりとした雰囲気に、母の甘い香りはエルシアのペースをいつも突き崩す。

 別に、エルシアは母のことが嫌いなわけでもない。

 むしろ大好きなのだけれど、どうにもエヴァーシアが持っている独特なぽわぽわとした空気には心がほだされて、自身が持っている自信や矜持なんてものを全て溶かされそうになってしまうのだ。


 昔から母の性格は変わらない。

 いつもマイペースに、たくさんの愛情を注いでくれる。

 仕事人間だった父とはまた違う子の愛し方に、エルシアもいつだって真っすぐとこたえてきたつもりだ。

 ただ、商人として父の仕事に関わるようになって、多くの人を見るようになってからはなおのこと、まるでおとぎ話に出てくる妖精のような純粋さをかけ持つ母が、危なっかしくも見えてくるようになっただけなのだ。


 危なっかしくて、放っておけない。

 きっと父もそんな母が持つ魅力にやられてしまったのだろう――だなんて、まだ恋もあまり知らないエルシアは思っていた。

 そのようなことを考えているとは思ってもいないだろう。

 エヴァーシアは「ふふふ」と、どこかひとり楽しそうに笑っている。

 いい加減に話をしないその様子を見て、手持無沙汰になったエルシアがデスクの上にある書類を一枚手に取れば、エヴァーシアが口を開いた。


「お着替えくらいしなさいな」


 先ほどそれもバロルに言われたばかりだ、とエルシアが彼の顔を窺えば、バロルもそのようなふたりのやり取りを穏やかな雰囲気のまま見つめていて、小さく頷いた。

 エルシアは「はぁ」と吐いた息に、手にした書類を机の上に投げ置いて、顔を上げる。


「何か、お話があるのでしょう」


 エルシアが腕を組んでこたえれば、エヴァーシアは「えぇ」と、やはり嬉しそうに微笑んだ。


「よろしくお願いねー」


 間延びする響いた声に、エヴァーシアは再び手をパンパンッと二回叩く。

 そのままちらりとドアへと目を向ける母の視線を追って、エルシアも何事かと息を呑んだ。

 ノックの後、大きく開けられたドアからは、白と黒地のエプロンドレスをぴしりと着こんだ妙齢のメイドが三名、何やら黒い布がかかる荷物を抱えてやってきた。


 ハロワイル家に仕える三姉妹のメイドは、母に付き従っていつも家事や身の回りの世話をしてくれる仕事人で、エルシアにしたら幼い頃から一緒にいる姉のような存在の使用人たち。

 身長が一番高く器用な長女に、テキパキと力仕事までこなす、いつも結っている赤茶色のポニーテールがトレードマークの次女。

 末っ子の三女はエルシアより二つほど年上でありながら、あどけなさがまだ抜けない幼い顔立ちをしている。


 頭を下げたメイドたちに、普段はそう人が多く訪れるわけでもない仕事部屋だ。

 エルシアが何事かと身構えて立ち上がると、メイドたちはそのまま、抱えていたものを部屋の中へ置いた。

 黒い布カバーの下からは木製の脚が見えていて、どうやらそれがトルソーらしいことはエルシアにも理解できたけれど。


「長旅で、太ったり痩せたりはしていないかしら」


 驚いて目をまん丸くしているエルシアに向かって、エヴァーシアは言葉を続ける。

 そうしてエルシアが返事もできずにいれば、トルソーの脇に並んだメイドたちは黒い布カバーをするりと引いた。


「これは」と、細めた目を開くバロルに、「わぁ……」と、エルシアの口からも思わず声が漏れ出る。


 トルソーにかかっていたのは、ふわりと広がるスカートが印象的に、きれいな花の刺繍が織り込まれ、透き通るようなアイスブルーの生地を重ね合わせるカジュアルなミディアム丈のドレスだった。

 トルソーの首元には、蒼い輝きを放つ瞳のような宝石が埋め込まれた銀細工の首飾りまで提げられていて、部屋に差し込む陽の光をきらきらと反射する。

 エルシアの目測で時価数千万バルは下らない逸品に、きれいなドレスに興奮する乙女心と同時に、商魂までもが刺激された。


「一体、これは……」


 ぱちぱちと瞬きを繰り返すエルシアに、エヴァーシアは「ふふふ」と、嬉しそうに返事をする。


「これを、エルちゃんに用意したのよー」


 用意したと言うからには、何か裏があるのだろう。

 エルシアが呆然と視線を向ければ、やはり母は楽しそうに笑っている。

 その笑みには何か嫌な予感がしたのと同時に、案の定そういうことか、とエルシアは納得もした。


「今夜、アムトがね。エルちゃんにも社交界に同席してもらいたいんだって」

「……お父様と?」

「えぇ。なんでも、今日は特別な日なのですって」


 エヴァ―シアのふわふわとした回答にはなんの具体性も得られずに、エルシアはただ「はぁ」と、ため息で返事をする。


 煌びやかなドレスに、瞳を奪われはした。

 だが――と、素直に返事をすることはできなかった。

 そうしている間にもメイドたちは頭を下げて部屋を去ってしまって、取り残されたドレスを突き返すことなどできる空気ではない。


「わたしが、そういう場が苦手なことも、わかっているだろうに……」


 父親のアムトジオにしたって、今までエルシアにそういったことを無理強いはしなかった。


――それがまた急に、それも、半月の旅から帰ってきたばかりの娘に、どうして。


「でも、いずれは必要なことだと、彼も言っていたわよー」


 呆然と考えたエルシアに、エヴァーシアの的確なひと言が突き刺さった。

 お母様のこういうところが昔から怖いところでもある――と、デスクに手をついたまま黙り込んだエルシアに、エヴァ―シアはどこか満足したようで。

「返事は、後でしてあげてねー」と軽く手を振って、エルシアの返事も聞かずに部屋を出て行ってしまう。


 取り残されたエルシアは、どさりと椅子に倒れ込むように腰を落として、けれどやはりドレスから視線を逸らすことはできなかった。


「旦那様にも考えがあるのですよ」


 小さい頃からエルシアに寄り添ってくれているバロルは、どこかその気持ちを察したように返事をしてくれはしたけれど。

 ちらりとその顔を見上げたエルシアに、彼はどこか喜んだようニコニコと目を細めて頷いた。


「わたくしめは、片付けが残っておりますので。お嬢様が思った通りに、旦那様に返事をしてあげればいいのだと思いますよ」


 いつも通りの丁寧な所作で頭を下げたバロルも部屋を出て行った。


 エルシアは旅の疲れなど忘れて、取り残されたドレスと見つめ合う。

 きらりと輝く首元の宝石は、別に返事などしてくれないけれど。

「どうしよう」と天井を見上げ、この日一番深いため息がひとつ、口元からは零れた。


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