5-2

 ひんやりとした夜風に、白いレースのカーテンが揺れた。

 煌々と差す月明かりに、体を起こすエルシアが部屋を見渡せば、そこは見覚えのあるストリフォン公爵邸の客室の中だった。


「目が覚めたようね」


 ベッドの横に椅子を添え座っていたレインは、可憐に微笑みかけてくれる。


「一体……」と額を押さえたエルシアに、彼女はこたえた。


「二時間ほどよく眠っていたわ」


 何があったのかと記憶を辿れば、朝から巻き込まれた数々の災難に眩暈がしてくる。


「カルティオは?」


 エルシアが体を起こせば、レインは「ふっ」と小さく笑みを零す。

 ゆっくりと首を振ったレインの視線を追えば、壁際に置かれた椅子に腰かける彼は腕を組んで眠っていた。

 瞳を閉じても端麗なままに、物静かで鋭く、研ぎ澄まされる冷めたような表情に、エルシアの鼓動はどきりと跳ねる。


「お兄様も眠っている。事情は、全て把握しているわ」


 エルシアの顔へ向きなおってそう頷いたレインに、エルシアもようやく冷静になることができた。

 肩から掛けられていた黒いマントには、まだ温もりがあって、彼の香りが残っている。


「大変だったでしょう」


 同情するようなレインの紅い眼差しに、エルシアもこくりと頷いた。


「でも、すぐに解決するでしょう。お兄様はそのために……昼間から奮闘していたみたいで、この様よ」


 薄ら笑うレインに、エルシアも呆然と眠る彼の横顔を眺める。


「わたしのために」とエルシアが呟けば、レインはくすりともう一度笑う。


「やっぱり、わたしが見込んだ通りに……エルシアに頼んで、よかったわ」


『レインから頼まれたこと』を思えば、彼女が言っていることが、エルシアにもすぐに理解できたけれど。


「詳しい話は直接聞きなさい。もう目を覚ますでしょうから」


 そっと椅子から立ち上がったレインに、エルシアが視線を向ければ、「ん」と、カルティオは目を覚まし、顔を上げた。


「寝て、しまったか……」


 ぼんやりと口を開いたカルティオに、レインはこたえるように大袈裟な動作で頭を下げる。


「おはようございます、お兄様。あとはおふたりで、ごゆっくり」


 にこりと片目で瞬きまでして、レインはそう言って部屋を出て行く。

 取り残されるエルシアが首を振れば、彼はそっと立ち上がって、先ほどまでレインが座っていた椅子に腰を下ろした。


「大丈夫か、エルシア」


 そう名前を呼ばれるたびにどきりとするのは何故だろう。

 エルシアがとっさに羽織っていたマントの裾を握れば、カルティオは冷たい表情をしたままに口を開いた。


「今回も、無事でよかったな」

「どうして、あなたは……いつも、助けてくれるの?」


 繰り返した思考に、自然と言葉は紡がれる。

 エルシアがそうして眼差しを向ければ、彼はエルシアを一瞥してから、どこか遠くを見るように窓の外を見つめていた。


「きみは、あの日、『転んだだけ』だと、言い張っていたらしいな」


 社交界のあの日、足を挫いたエルシアの怪我の真相。

 バロルにも両親にも、何があったかは話していなかったというのに。


「……見ていたの?」


 エルシアが聞けば、一度顔を合わせた彼は、そっと視線を逸らした。


「自分が喧嘩の売った相手のことくらい、知っておくべきだろう」


 何のことを言われたのかは一瞬理解ができなくて、だけれど、エルシアはすぐさま反論する。


「……あれは、喧嘩を売ってきたのはあっちで」

「だとしても、知っておくべきだったな」


 カルティオにそう断言までされて、エルシアはただ、むっと口を閉じた。


「マルカリア・ニース・スレイシャン。スレイシャン王国、第五王女だ」


 その名に、エルシアはハッと息を呑む。


「あんなピヨピヨでも、歴とした王女だ」


 カルティオの言い様にはエルシアも思わず「ぷっ」と、呑んだ息を吹き出した。


「ピヨピヨって」


 あの日、彼女が来ていた黄色いドレスを指して、ひよこのようだったと言っているのだろう。

 エルシアが笑っても、カルティオは表情を変えずに、ただ首を横へ振った。


「どうにも彼女は、治安局長の息子に入れ込んでいるらしくてな。王国でも厄介沙汰として扱われているらしいが、喧嘩をする相手くらいは、選べ」


 どうしてそのようなことを突然話し出したのだろうと、エルシアも考えてはいた。

 ただそう言われれば、謂れのない罪の正体に、エルシアとしても気が付く。


「まさか……」

「あぁ、スレイシャン王国を経由して調べたらすぐにわかった。公爵家としても、きみの家に起こった事態は把握している。当然、ストリフォン家は関与していないことだがな。レトリフォーの治安局にかかった外的圧力は、スレイシャン王国によるものだった」


 エルシアとマルカの口論が発端だったのだろうか。

 それにしても喧嘩を売ってきたには向こうだったのだけれど――と、エルシアには納得できないのだけれど。


「すぐにハロワイルカンパニーの業務停止命令を解除させよう。確かな証拠もなく、きみの父上を罪人になどできるはずがない」


 公爵家が直々に、調査の仕直しをしてくれるのだという。


「どうしてそこまで……」とエルシアが口走れば、カルティオは小さく笑った。


「きみたちが培ってきた行商の輪は公爵家にしたって大切なのさ。それが誇りなのだろ? エルシア・ハロワイル」


 そう言ってしたり顔で笑ったカルティオに、エルシアはどきりと、紺碧の瞳を見開いた。


「やっぱり、あの日のこと、全部見ていたのね」

「俺の生活は、きみたちの手に救われている」


 改まったようにして視線を合わせるカルティオに、エルシアは呆然と思考を繰り返した。

 毎週届けることが決まっている荷物に、彼の主食だというトマトと異国の本や絵物語。

 引きこもりの彼にしてみれば、欠かせないモノなのだろう。


「……だから、わたしのことを助けてくれたの?」

「そうではない」


 エルシアが聞けば、カルティオははっきりとこたえてくれた。


「きみを失うのは惜しいと思った。言っただろう、人は、俺らヴァンパイアと違って、か弱い。小さな毒にさえ躓き、命は危殆に晒される。血だって多量に抜かれてしまえば、死んでしまう」

「だから、あなたは人の血を吸わない」


 今度はエルシアがはっきりとこたえれば、カルティオはただ頷いた。


「人の血は、甘い。ヴァンパイアにしてみれば、毒なんだ」


 何を言うのだろうと、エルシアが首を傾げれば、カルティオは少し悩んだように瞳を伏せる。


「血を吸わない主義などと言ってはいても、俺だって、人の血を吸ったことくらいあった」


 どこか懐かしむよう頬を緩めたカルティオに、エルシアはただ黙って彼の言葉を待った。


「ヴァンパイアは、母親の血を初めて吸うことになる」


 それは、人間の子が母乳を吸うように、ヴァンパイアもまた母の血で育つということだろう。


「母様は、病弱な人だった。父もそれを承知で受け入れてはいたけれど、やはり……ヴァンパイアの吸血に、耐えられなかったのだ」


 彼はそう語るけれど、吸血されたことが直接の死因であったわけではないのだろう。

 だけど、カルティオには後悔の念があった。

 ゆえに彼は、それを『壊してしまう』と、例えたのだろう。


「そうとは限らないんでしょう?」


 エルシアは、レインとミスティスの関係を思い、聞き返した。

 エルシアの考えを読んだようにして、カルティオは瞳をやや細めると小さく首を縦に振る。


「しかし、一度吸ってしまえば……俺は、きみを壊してしまうかもしれない」


 その紅い瞳は、それを恐れたように小さく揺れた。

 何を言い出すのだろうと、エルシアは自然と身構えたのだけれど。


「きみの血を吸ってしまえば、きみを壊したいほどに求めてしまう。それが、怖い。今までは我慢することができたけれど……きみがいなくなったと聞いて、限界だった」


「ちょ、ちょっと待って」と、今にも身を乗り出そうとするカルティオに、エルシアは言葉を挟んだ。


「……ずっと、我慢していたの?」


 エルシアが聞けば、カルティオは冷たい表情を取り戻し、こくりと頷く。

 二度目に会ったときも、書斎に赴いたときも――彼の冷たい表情の裏には、たしかな熱が宿っていた。それは、気のせいではなかったのだろう。


「わたしの血を、吸ったから?」


 あの日『ごめん』と謝ったのは彼の本心で、それは戸惑ったあの表情に表れていた。


「放したくないって……」


『ごめん』と、彼は先ほど助けてくれたときにもそう謝った。

 カルティオは全てを受け止めたように、ただ紅い瞳を向けて頷く。


「きみの血に、溺れたいほどに」

「……それはちょっと、勘弁してもらいたいけれど」


 文字通り、血の気が引くような惨状が思い起こされて、エルシアは彼を遠ざけるように腕を伸ばした。


「それは、まあ……きみを死なせるわけにはいかないから、冗談だ」


 カルティオは真顔で「ふぅ」と、どこか残念そうに息を吐き出す。

 まるで冗談にも聞こえない言葉に、エルシアの頬は引きつってしまった。

 だけど、思い返せば思い返すほどに、彼の言葉は――ただの、愛の告白にしか聞こえない。


「きみを放さないと決めた。きみの誇りを傷つけるものがいるならば、俺が、全力で叩き潰してやろう」


 拳を握ってそうまで言うカルティオに、エルシアはそれもあながち嘘でもないのだろうと、改めて思えてしまった。

 彼らの紅い瞳は、決して嘘を吐かないのだから。


「だ、大丈夫だから。うちの会社が無実だって、わかったなら、それでいいの」


 止めるよう口走ったエルシアに、力んだように立ち上がった彼は、しかし、ふらりとよろけるように椅子へ座りなおした。


「……大丈夫?」


 先ほどから見せる彼の表情には、エルシアも戸惑う気持ちが引かないけれど。

 カルティオは冷たい表情のままに、「あぁ」と、小さく首を横へ振った。


「昼間から、張り切りすぎたらしい」


 カルティオは決して、昼間は人前に姿を現さないはずなのに――。


「カルティオ、血は?」


 エルシアが聞けば、青白くなった顔を上げるカルティオは首を横に振った。


「当然、吸うはずがないだろ」


 見つめ合う蒼い視線と紅い視線に、エルシアの顔は熱くなる。


「俺は、決めたんだ。きみの血しか吸わないと」

「どうして、わたしだったの」


 呆然と聞き返したエルシアに、カルティオは冷たい眼差しを細めて、「はぁ」と息を吐く。


「どうしてどうしてと、きみはうるさいな」

「それが、わたしの癖なのよ」


 恥ずかしくもなって顔を背けたエルシアに、だけどカルティオは、どこか面白そうに小さく笑った。


「そうだな、きみらしい」


 すんなりと受け入れられた言葉に、エルシアの視線はそっと彼の顔を再び向く。


「あの日、きみを失うのは、惜しいと思った。それだけのはずだった。だが……どうしてどうしてと、きみはずかずかと俺の心を荒らすように、俺の『城』にまで踏み入ってきただろう」


 彼にはそんな風に見えていたのかしら、と首を傾げたエルシアだったけれど。


「あの日から視ていた、きみの生き様に惚れたんだよ」


 素直に響いた言葉には、エルシアも紺碧の瞳を見開いた。

 彼は椅子に座ったまま、足を組んで頬杖をつき、細める紅い視線を覗かせる。

 正直なまでに、エルシアの心を見透かす瞳はただ真っすぐと向けられていて、冷たい瞳には、たしかな熱が宿っていた。


 エルシアは、彼に二度、『命』を救われた。

 それを思えばなおのこと、エルシアもまた、彼の瞳の前で嘘を吐くことはできなくて――。


 そっと腕を差し出したエルシアに、カルティオは「ん」と首を傾げた。


「こ、これはお礼よ……あなたこそ、今にも死にそうな顔をしているんだから」


 頬を赤くしたエルシアが照れ隠しに顔を逸らせば、カルティオはそっと優しくエルシアの手に触れる。

 エルシアがちらりと一瞥すれば、カルティオの口元より覗いた白い牙がそっと、エルシアの腕へと立てられた。

 ミントのような香りが爽やかに広がって、エルシアの全身にぞわぞわとする想いが駆け抜ける。


 エルシアが守り抜いた誇りは、たしかに彼の温もりによって救われた。


――この想いは、なんなのだろう、と。


 どうしてだろうと思考して、だけど、次の瞬間にはこたえに気付くのだ。

 全てを諦めたあの瞬間――エルシアは、月下に見たヴァンパイアに恋をしていたのだと知ったから。



                          fin.



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夢見る乙女は溺れるほどに恋を知る~引きこもり公子は偏食ヴァンパイア~ よるか @yoruka_kaku

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