夢見る乙女は溺れるほどに恋を知る

5-1

 エルシアがストリフォン公爵邸へ配達に向かった翌日。

 浅い眠りは、怒号交じりの騒がしい人の声と、家の中を動き回るような足音の数々に揺さぶられた。

 眠気眼をこするエルシアに、閉め切られたカーテンの隙間からは薄っすらと朝日が覗いている。


「こんな、朝早くから、何?」


 エルシアがぼんやりとした思考に体を起こせば、荒々しく叩かれたノックひとつに、返事をする間もなく自室の扉は開けられた。


「お嬢様、お着替えをなさってください」


 額からは汗を流し、血相を変えるバロルの焦った声に、エルシアの意識も覚醒する。

 何事かと尋ねる前に彼は部屋を出て行って、エルシアは慌ててベッドを飛び出し、顔を洗った。

 クローゼットを開いて適当に着替えを選べば、身嗜みを整えて部屋を飛び出す。


 廊下に出てまず驚いたのは、見下ろした吹き抜けとなる玄関ホールに、群青色の制服を着る治安局員たちが慌ただしく動き回っていたこと。

 エルシアの瞳には混乱の色が浮かぶ。

 廊下の柵に掴まったまま固まるエルシアに、慌てた様子でバロルが駆け寄ってきた。


「一体、どういうこと」


 エルシアが聞けば、バロルは手短にこたえてくれる。


「今朝方、治安局によってカンパニーの業務停止命令が下りました」

「どうして、そんな」


 エルシアが掴みかかるよう彼のシャツを握れば、いつも皺のない白いワイシャツには既に汗が滲んでいた。

 首を振るバロルに、エルシアは「はぁ」とひと息、落ち着きを取り戻し、手を離す。


「……密輸があった、と。旦那様に容疑がかかっています」

「そんなっ」


 あのお父様に限って、そんなことはありえない――と。

 エルシアは髪を振り乱して首を振るけれど、バロルはエルシアの肩を掴んで、宥めるように声をかけてくれた。


「いいですか、お嬢様、よくお聞きになってください」


 エルシアを落ち着かせてくれるように、バロルは腰を落とし、視線を合わせて話を続ける。


「わかっています。あの旦那様に限ってそんなことなど、ミスにしたってありえません。何者かの思惑を感じずにはいられません」


 ハロワイルカンパニーを陥れるために、誰かが治安局を焚き付けたということだろう。


「旦那様は治安局へ出頭されました。奥様はメイドたちに任せて、わたしの古い伝手の下に避難しております。時機に、お嬢様も治安局へ赴くことにはなりますが、在り得もしない過ちを認めてはいけません」


 深く真の通る眼差しに、エルシアも力強く首を縦に振った。


「……わかっているわ」


 意志を宿して頷いたエルシアに、バロルも肩から手を離して立ち上がる。


 エルシアが深呼吸を吐く暇もなく、治安局の男たちはハロワイル邸をずかずかと進むようにして、エルシアたちへと近づいてきた。

 その中でも勲章を胸に、威厳を示すかのような口髭を撫でた男が、エルシアに改めてといったように、威圧的な態度で事情を説明した。

 突然に下されたカンパニーの業務停止命令に、密輸容疑。

 社員のひとりとして、重要な立場にいるエルシアもまた例外ではなく、『任意の取り調べを受けてもらう必要があるのだ』と説明された。

 そこで拒否すれば、己や会社を不利な立場に置くだけであることはエルシアも承知している。

 だから――と、覚悟を決めるしかなくて、エルシアもまた、治安局に勾留されることとなった。



 ◇◆◇



――あれから、どれほどの時間が経ったのだろう。


 無限にも感じる取り調べの時間に、時計もなく窓もない無機質な部屋の中には、パイプ椅子と安っぽい机が一セット並ぶだけ。

 拘束されるようなこともなかったが、呆然と椅子に着いたエルシアに許されたのは、取り調べに当たる刑務官へこたえることのみ。

 群青色の制服に軍帽を締めて、鋭い眼差しの男は、エルシアにあれやこれやと尋問を続けた。

 エルシアは正直にこたえ続けたが、密輸容疑の点になれば認めるわけにもいかず、「父に限ってそのようなことはありえない」と、否認を続ける。

 そのたびに刑務官はため息を吐き、繰り返される質問には時間ばかりが過ぎて、エルシアの顔色も、次第に疲れの色が濃くなった。

 与えられるものも飲み水のみで、渇き続ける喉を過剰に潤せば、トイレも近くなる。

 その際は唯一席を立つことも許されるが、女性刑務官が付きっきりで、エルシアに一切の自由はなかった。


「本当に、何も知らないんだな? 父親の、密輸に関して」


 威圧的なまでに低く響いた男の声に、エルシアは霞んで焦点も合わない目を携え、顔を上げる。

 もう何度目にもなるやり取りに、エルシアはただぼーっとしたままに、「ありえないことです……」と、弱々しく首を横へ振った。

 何度も握り締めた服の裾には皺が寄り、乱れた髪を正す元気もなく、艶もなくなる金色の髪は胸元で力なく垂れている。

 もう精神的にも限界だったけれど、エルシアが在り得もしない罪を認めてしまえば、何もかもが終わってしまうことなど想像するに容易い。

 バロルの言葉を思い返し、エルシアはグッと、机の下で拳を握った。


「はぁ」と、刑務官が息を吐くのも、もう何十回目か。

 しかし、コンコンコンッと慌ただしく叩かれるドアの音に、エルシアも、向き合った刑務官も、驚いたように顔を上げた。


 静かに部屋へ入ってきた治安局員が何やら刑務官の耳元で囁けば、エルシアはそのまま、訳も説明されずに釈放されることになった。



 ◇◆◇



 何も聞かされないままにエルシアが治安局を追い出されれば、外はすっかり夜の帳が下りていた。

 治安局を出る際に見た時刻は夜の二十三時を超えていて、出頭してからゆうに十五時間は経過していたらしい。

 一体どうして突然釈放されたのかはわからない。

 ただ、治安局を後にして、エルシアの足は自然と家へ向かっていた。


 全身に襲いくる気だるさに真っすぐと歩くこともできなくて、そうしてようやくたどり着いた我が家からは、すっかり日常が消えている。

 灯りの消えるハロワイルカンパニーにも、夜も遅いというのに見張りのためか、治安局員たちが占拠していた。

 その光景を見てしまえば、帰るべき場所も、守るべきモノも、そうして何もかもが奪われてしまったかのように感じてしまって、嫌なほどに絶望を思い知らされる。


「どうして」と呟いた言葉は、夜風に消えて――。


 遠目に見上げた自慢の会社の看板に、エルシアはそっと背を向け、行く当てもなく、さまようにように足はふらふらと、港町の路地を進んだ。


 表通りに並ぶ店の灯りは既に消えていて、町からも人の姿は消えている。

 まるで自分だけがただひとり、世界に取り残されたようにさえ錯覚してしまう。

 寂れた空気に吹いた夜風はただ冷たく、エルシアの横を通り過ぎた。


 父が守ってきた会社も、そうして夢見た大切な場所が、在り得もしない罪の十字架に沈んで、ただただ奪われた。

 夢も希望も、誇りも紡いできた想いさえも、何もかもが一瞬で失われた。

 見上げた空に浮かぶ月は、雲に翳り顔も出さない。

 光を失う紺碧の瞳からは涙すら流れなくて、ぼんやりと足を止めれば、全身から何もかもが抜け落ちていくような脱力感に苛まれる。


 だから、エルシアは後をつけて来ている人影になど気付かなかった。

 ふいに感じた気配に振り返ろうと首を振れば、そうして近寄っていた男がふたり、顔を赤くし、下卑た笑みを浮かべている。

 感じた身の危険にとっさに逃げようとしたけれど、男たちはエルシアの腕を強引に掴んだ。

 いつもであれば、振り払うことなど造作もなかっただろう。

 だけど身体に力など入らなくて、エルシアの抵抗も虚しく、路地裏へと引っ張られた。

「いやっ」と、弱々しく吐いた言葉は、男たちの劣情を余計に刺激するだけで。

 いつもならば、守ってくれるバロルがそばにいたのに――と。

 大切な家族さえいなくなってしまったような、その悲しさは、胸に込み上げる熱へと変わって、涙となり紺碧の瞳から溢れ出た。


 身に感じた恐怖、見失ってしまった夢は、心に深い傷を刻み付ける。

 今まで守り持っていた自信や矜持も、自身の居場所を失った時点で、砕けてしまったのかもしれない。


 エルシアが何もかもを諦めて、ぎゅっと、瞳を閉じれば――。

 だけど、ふわりと、鼻腔の奥をダリアの香りがくすぐった。


 響く打撃音に、人が倒れるような気配。

 尻もちをついてしまったエルシアが恐る恐ると瞳を開けば、先ほどまでエルシアに迫っていた男たちが地に伏し倒れている。

 呆然と見上げた夜空には、先ほどまで雲に隠れていた月も顔を出していた。

 差した月明かりに煌々と照らされて、路地の入口、エルシアの前には、黒いマントを羽織る彼が腕を組んで立っている。


「……どうして、ここに」


 夜風に揺れる色素の薄い銀色の髪。

 陰鬱ながら細められた、鋭き紅い瞳。

 整った顔立ちは、そうして見てもやはり不気味なほどで。


「初めて会ったときも、そんなことを言ったな、きみは」


 差し出された手は、迷いを振り切ったようにエルシアへと向けられた。

 エルシアは自然と手を伸ばして、彼はそっとその手を取って、立ち上がらせてくれる。


「迎えに来たんだ、エルシア」


 そう名前を呼ばれたことが、現実から乖離した中ではなおさらに、夢のように思えてしまう。


「治安局まで出向けば、きみがいなくなったと言われた」


 さっと引かれた手に、エルシアは彼の腕の中へ自然と抱かれる。


「きみがいなくなったと、そう聞いたら……俺は、そちらのほうが恐ろしくなった」


 耳元で囁かれる熱を感じた言葉に、エルシアの意識はだんだんと、溶けるように微睡に落ちた。


「どうして」と小さく囁いた言葉に、彼はあの日と変わらず、真っすぐと紅い瞳を落としていて――。


「ごめん。だけど、きみを放したくはないと気付いた」


 カルティオのはっきりとしたこたえに、エルシアは眠るよう意識を手放した。



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