1968年 ドラフト史上最高の当たり年

 さてシリーズが終わり、優勝は北海道モンスターズで、日本シリーズでは東京ナインズと激突。


 怪物打線が日本シリーズでは沈黙し、エースである池田が投げた試合は勝ったが、東京ナインズが総合力で上回りV4を達成。


 シュトロハイム達は日本シリーズ最中も秋季キャンプに早めに入り、練習を続けていた。


 で、今年は昨年出来なかったが日米親善試合が行われるらしく、前世の令和では侍ジャパンと呼ばれていた日本代表対メジャーチームと対戦するというオフシーズンの風物詩である。


 オフシーズンにも関わらず18戦もするのだから招集された選手は大変である。


 なおナ・リーグでは京都タクシーズだけが招集選手0人である。


 というのもどうしても前年度から向上したとはいえシュトロハイム単独のチームであることには変わらない。


 シュトロハイム自身は日本代表で出れる権利を持たなかったので出場することは叶わなかった。


 まぁその分練習に時間を費やせたので良いだろう。


 ただ日本野球機構ではシュトロハイムについて大きな問題が発生していた。


 シュトロハイム規定打席未到達事件である。


 従来の規定打席の計算は打席数ではなく打数なので四球、死球、犠打、エラー等は打席数から引かれた数字が打数として計算され、それを元に規定打席が算出されていたため、シュトロハイムの打率.544、出塁率.728は既存の規定であれば参考記録なのだが、シュトロハイムは130試合全試合出場で規定打席未到達を認めれば、偉大な記録にケチを付けることになり、球界の盟主である東京ナインズの代表も大玉選手がシュトロハイム同様に敬遠や四球が多いので同様な事が起こり得ると規約の変更が行われ、規定打席は打席数(打席で何かしらのアクションを行った場合1打席なるという計算方法 紛らわしいが野球のルールなので仕方がない)を基準とするという取り決めが行われた。


 なのでシュトロハイムは今年も野手四冠(最優秀遊撃手を合わせると五冠)を二連続で獲得。


 ただ同時に日本人記録と分けるべきではないかという話も上がることになった。


 どうしてもパワーは外国人の方が分がある為、打撃成績は外国人の方が良化しやすいという錯覚をオーナー達は覚えてしまい、最終的には流れるが、シュトロハイムによって既存のルールが変わるという一幕であった。


 これはシュトロハイムが関係した事件だったものの影響は少なく、問題が起こったのは球団の方である。


 京都タクシーズという名前から経営母体はタクシー業と思われると思うが、本質は車両を使った輸送業···車の普及と性能の向上で大型トラックを使った輸送量が増え、経営も上向くと思われていたが、シーズン終了後2ヶ月間で3度の大きな人身事故が発生し、その1つが列車との衝突事故で、列車が横転し、大量の死傷者が出てしまったのだ。


 本業が傾く程の補填費を必要とし、とてもでないがプロ野球チームを経営できる体力は無いと親会社は判断し、球団の身売りを行うことをドラフト会議前のナ・リーグオーナー親睦会で暴露。


 親睦会は一転し、ナ・リーグのリーグ再編問題に発展。


 親会社の上層部が箝口令を敷いた為に選手だけでなく吉田監督以外のコーチ陣にも知らされておらず、シュトロハイムも本来知ることは無いハズであったが、シュトロハイムにナ・リーグの球団である北海道モンスターズの代表の代理人が接触した事で球団が身売りを考えていることを知るのであった。


 シュトロハイムは体調不良を理由に今年の合同自主トレは不参加を他の選手に伝える。(代わりに秋季キャンプからチーム打撃の改善の切り札として吉田が招集した本西打撃コーチが不振及び若手を中心とした強化合宿を開催)


 本西コーチには自宅に上がり、球団が身売りを考えていること、前年から作ったコネを使い球団存続に動きたいと話すと


「吉田の野郎は知ってて話してねぇな! わかった。チームは任せろ。シュトロハイム、一選手にできることは限られていると思うが足掻いてみろ。こっちはこっちでやるべきこと(クーデター)の準備を進めておく」


『わかりました。やるべきこと(チーム力の向上)ですね! 私も京都タクシーズ···いや、京都の皆さんに愛着があるので、京都の為に、仲間の為にがんばります!』


 勿論シュトロハイムも親会社の裏事情を話すみたいな事はしない。


 ただ球団を存続させるために選手の範囲で頑張るのみである。







 ドラフト会議···この年は大学生が目玉とされていた。


 六大学野球で優勝した大学で躍動した3名の打者が特に注目されていた。


 強肩強打の捕手、俊足巧打のセンター、完成度はピカ一と呼ばれたサード···彼らは大学のスターであり、人気も実力も兼ね備えていた。


 そんな選手を取りたくても取れないチームが居た。


 京都タクシーズである。


 親会社から資金提供が厳しいため、ドラフト1位にも例年通りの契約金は支払えないと通達が行われており、そんな有望な大学生選手を獲得することができなかった。


 ただチームは上向きかつシュトロハイムが来年こそは優勝をと言ったことで育成中心のドラフトをすることもできない。


 なので限りある資金を最大限活かすために京都タクシーズは社会人選手中心かつ少数精鋭にするドラフト方針を決めた。


 ピックアップされた選手の中でチームに足りてないのは走れるセンター、打てるファースト、球数を稼げる投手を2人程、予備枠を合わせて5人の指名で指名を終了する判断を下した。


 1巡目、京都タクシーズは社会人からサブマリン(アンダースロー)の水野を指名。


 アンダースローながら最速145キロのストレートとシンカーとカーブを武器にしていた。


 なによりコントロールは社会人一と言われており、年度が違えば最注目の選手でもおかしくなかった。


 2巡目は卓越したバットコントロールでスカウトが絶賛した社会人の井伊であった。


 パワーもあるが、ミート力はシュトロハイムからも天才と言われるくらいに長けており、守備難を持ち合わせていたが、ファーストを固定できるならアリと判断されての指名であった。


 3人目は堀田であり、ドラフト唯一の高校生で、身長が当時だと大巨人とされた195センチもある素材型投手で、投げ下ろされた球は2階から投げられると言われるくらい打ちづらく、更に落下するフォークを組み合わせると高校生で打てる者は少なかった。


 4人目も社会人でセンターを任されていた松平であり、強肩で足が速い守備型センターとして期待された。


 5人目は松平の予備として指名された社会人の酒井で、彼も足の速い外野手であった。


 独自路線を歩んだ京都タクシーズのドラフトであるが、指名した全員が1軍で己の役割を全うし、しかもこの中から3人が名球会入りするという大当たりドラフトとなった。


 この時指名された面々の名前が徳川幕府に関連する名前であった事とシュトロハイムが将軍打線と呼ばれていた為、新聞では本拠地の船岡山を御所に見立て船岡山幕府が開かれたと願掛けを行ったのだった。


 ちなみにこの年のドラフトは名球会入りが後々7人出るし、ほぼ全球団でレギュラー定着選手が1名出たためドラフト史上最高の当たり年と言われることになる。


 ただ京都タクシーズのドラフト当時の評価は低く、水野と井伊は良いとされたが、5人目の酒井の評価が著しく低かったこと、他にも有望選手が多く残っているのに5巡で選択を終了したことに批判が集まった。


 ただ京都タクシーズの予算は5人目の酒井の段階で超過してしまっており、酒井には契約金が例年の半分以下という酷い有り様であった。


 幸い入団拒否は出なかったものの、京都タクシーズの契約金が異常に低いことは新聞にすっぱ抜かれてしまい、京都タクシーズの経営状態が悪いという印象をパ・リーグの球団も抱くのであった。


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