プロ野球選手 モンティナ·フォン·シュトロハイム
星野林
1966年秋 伝説の始まり
1966年···京都タクシーズは暗黒期を迎えていた。
5年連続最下位、主力選手の高齢化、世代交代の失敗、投壊、貧打と散々な有り様であった。
戦後一度も優勝ができていないという不名誉な記録も持っており、ナ·リーグ(日本海野球連合)とパ・リーグ(太平洋野球機構)それぞれ6球団ずつの12球団があったが、どちらのリーグを見てもリーグ優勝が戦後できていないのは京都タクシーズだけであった。
球団の不振の責任を取る形で5年間に3人の監督、2人のジェネラルマネージャーが退団させられており、前年から導入されたドラフトでは1位指名した選手に入団を拒否されるという弱小球団であった。
「どうにかしないといかん」
ということで球団社長である湯浅社長の号令で5年で優勝できるチーム作りが球団の方針と決まり、この年のドラフトは7人の入団選手のうち6名が高校生と極端なドラフト戦略を敢行、そして育成選手を発掘するためにドラフト外入団の枠を広げた。
勿論球団でも養える選手の人数は限りがあるため年俸が高い選手や高齢の選手を中心に戦力外や金銭トレードを積極的に行い、チームの若返りと再建が行われた。
そんなドラフト外入団の球団テストに球団···いや、日本球史に名を残す外国人が紛れ込んでいた。
彼の名前はモンティナ·フォン·シュトロハイム···ドイツの没落した貴族をルーツに持つという異色過ぎる男であった。
「外国人が入団テストに?」
竹田二軍監督は他のコーチと共にシュトロハイムの経歴の書かれた資料を見た。
西ドイツ南部出身で、高校は野球ができるからとイタリアの高校に通い、バイト代を貯めて日本に出稼ぎに来たらしい。
「面白い経歴だな」
「野球をやるために異国に行く行動力は凄いですが何故日本へ? 普通アメリカのメジャーリーグでしょうが?」
「何でも父親が前の政権に協力的だったから渡米に猛反対されたらしい」
「戦争から約20年経ちますがまだ根深いですね」
「軍人上がりの指揮官がプロ野球にも多いからな。堺貿易の鶴田監督も元軍人だし」
「日本以上に東西で国が分裂したドイツだと更に戦争の傷は根深いだろうに」
そうコーチやマネージャーと話しているとテストが始まった。
テスト内容は打撃と投球、守備、走力、遠投。
投手希望は打者5人に対して投げ、打者は3回違う投手と対戦する。
順番が回るまでは希望する場所の守備に順番で付くというテストだった。
「今回の入団テストは年齢が23歳以下なので皆若いですが、ドラフト外の選手なのでやはり身体能力で選ぶしかなさそうですかね」
「技術は練習でなんとかなるが、センスというのは後天的に身につけられる物じゃないからな」
早速打球が三塁線を抜ける当たりが飛び出した。
それをショートを守っていたシュトロハイムが追いついて素手でボールを掴む(ベアハンドキャッチ)とそのままサイドスローで投げられた球はワンバウンドして一塁手のグローブに吸い込まれるように収まった。
アウトになると思っていなかった打者や他の選手は唖然となる。
「ほほぉ!」
「あれをアウトにできるのか」
竹田二軍監督はシュトロハイムの守備に関心を持った。
「背は外国人にしては小さいな。幾つだ?」
「176センチだそうです」
「小柄だな。俊敏好守なタイプか?」
少し時間が経過し、シュトロハイムが打席に入る。
ピッチャーは甲子園に出ていた選手で最速140キロの球を投げる。(1960年代はプロでも140キロでていれば十分戦力)
外角低めいっぱいであったがシュトロハイムは引き付けてからバットの真芯でボールを捉えると、ボールは球場の場外へと消えていった。
続く第二打席では弾丸ライナーでセンターのスコアボードに直撃し、ホームラン。
第三打席は内角高めの抜けたカーブを捉えてレフトスタンドに叩き込んだ。
全打席ホームランという結果と、凄まじいパワーに竹田はもうメロメロ。
「大当たりや! アイツは絶対に取る!」
「まぁ一応テストは全て受けさせましょう」
とマネージャーが竹田二軍監督を落ち着かせ、打撃と投球結果で不合格者の番号を読んでいく。
300名居た選手は一気に30名まで減り、続いて50メートル走となる。
「さーて、シュトロハイム君はどれくらい速いのかな~」
「竹田監督が野獣の眼光になってる」
「楽しみで仕方ないんだろ。俺だってあんな選手が転がり込んできたらワクワクが止まらないもの」
とコーチ達は次々に言う。
50メートルを6.5秒以内に走れば合格であるが、シュトロハイムは5.6秒で、同時に走った選手を突き放してゴールした。
更に遠投では90メートルが合格ラインであったが、それを悠々と超える125メートル超えを記録し、シュトロハイムはテストに合格。
シュトロハイム以外には3人合格選手が出た。
シュトロハイムが初打席に対戦した投手もその中にいた。
竹田は二軍監督という立場の為、声をかけるわけにはいかないので、二軍マネージャーが合格者の旨を告げて、仮入団の契約書にサインを行った。
そしてそのまま選手食堂で食事となり、合格者は好きな物を食べて良いと言われ、外国人のシュトロハイムが何を食べるか注目が集まったが、意外にもカレーをお願いしていた。
カレーを一口食べたシュトロハイムは涙を流しながら
「美味シイ! 美味シイ!」
と食べる姿を見て他の選手も食べ始めた。
シュトロハイムは一粒の米を残すこと無く、そして
「ゴチソウサマデシタ」
とはっきりと言った。
日本文化に馴染もうとしている姿勢もマネージャーや球団職員から好印象を持って迎えられた。
その後正確な身体測定が行われ、服を脱いだシュトロハイムの体に皆釘付けにされた。
肉が高級だったり輸送技術が未発達で良質な食事が取れていなかった日本人。
シュトロハイムも貧乏であったがバイトとして酪農の牧場に転がり込み、チーズ作りを手伝いながら、チーズを作る際に大量に出る乳清を毎日の様に飲んで空腹を凌いだシュトロハイムの肉体は良質な筋肉でガチガチに固められており、触った球団職員はシュトロハイムの体を岩石と評価した。
身長176センチ、体重95キロ、南部のドイツ人の特徴であるブロンド色の髪に薄い緑色の瞳を持っていた。
ちなみに日本に来てからシュトロハイムは日雇い仕事をして生活費を稼いでいたので、翌日には荷物を纏めて選手寮に入寮する。
この時シュトロハイムの契約では月収3万5000円で1万円は寮費として徴収され、更に道具もバットとグローブを1組支給で残りは自腹で購入するようにマネージャーから言われた。
ユニホームもテスト入団の立場なので1着は新品だが、練習着は先輩からのお下がりであった。
試合に出る時はこの新品を着ろという意味でもある。
しかも寮も貧乏球団の二軍選手寮、四畳の部屋には豆電球と布団が置かれているのみであり、洗濯物も自分でしなければならない。
テスト入団の立場のシュトロハイムも例に漏れずにこの部屋に入れられたが、シュトロハイムはまずは寮の先輩達や球団職員の全員に挨拶をし、名前を覚えようと努力した。
いきなり来た外国人に最初は驚く者も多かったが、人懐っこい性格で直ぐに先輩選手と打ち解けると、率先して先輩の洗濯物を洗ったり、雑用の様な仕事を行った。
この姿勢に他の外国人助っ人とは違うと判断され、排他的な時代にも関わらず馴染むのに時間はかからなかった。
そしてシュトロハイムはコーチ達と一対一で話し合いを行い、チームではどの様な選手が求められているのか、支配下登録に上がるにはどれくらいの結果を残せば良いのか、1軍の現状、チーム状況を事細かく聞き出し、それを元に目標の紙を何も無い部屋に貼った。
『まずは1軍』
伝説の助っ人外国人、モンティナ·フォン·シュトロハイムの60年にも及ぶ日本プロ野球との関わりの始まりであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます