1966年冬 オフシーズン

「あはは、でよー」


「そんな可愛い子がいたのか!」


 まだプロ野球選手としての意識が低かった時代、練習が終われば夜の街に消え、朝に帰ってくる選手も少なからずいた。


「ん? グラウンドの端に誰か居るぞ」


「本当だ···おーい、朝早くからご苦労なこったー」


 彼らは春から入団してくる新人選手に負けないようにと思った若手の誰かかと思ったが、そこにいたのはシュトロハイムだった。


「先輩方オハヨウゴザイマス」


「うわ! シュトロハイムか! こんな朝早くからどうした!」


「練習ヲシテマシタ」


「こんな早くからか?」


「非才ナ私ハ質ノ良イ練習ヲ沢山シナイトイケマセン!」


「どんな練習をしていたんだ?」


 この段階でシュトロハイムが行っていたのは準備体操や体幹トレーニング等であり、まだアップの域を出ていなかった。


 それでも体幹トレーニングが浸透していない昭和の時代、シュトロハイムの体幹トレーニングは奇妙な動きと捉えられた。


「ん? 縄跳びもしていたのか?」


「ハイ、膝ヲ使ワナイデ足首ヲ意識シテ跳ビマス」


 アップと言えば腹筋や屈伸を中心とした体操と走り込みが中心であり、それが普通と見なされていた。


「目的ヲ持ッテ練習ヲシナイトイケマセン。今日ハコレヲ必ズデキルヨウニスル。ソノ繰リ返シデス」


 と言ってシュトロハイムは練習を始めていた。








 寮での食事は朝食はご飯と味噌汁だけ、昼と夜もこれに野菜のおかずが一品付くのみであり、貧乏球団の悲壮な経営状況が感じ取れた。


 勿論お金を追加で支払うことで品数を増やすこともできる。


 シュトロハイムはこれでは筋肉の維持どころか栄養失調になると判断し、食事の工夫を始めた。


 まだ仮入団期間なので練習を休むと言っても許してもらえ、走りながら京都の町の商店街を散策し、限りある資金で食材を入手していった。


 冷蔵庫が普及し始めていたが、給料的にまだ買えなかったので週に1度の休みに買いだめをしなければならない。


 これから冬になるので冷蔵庫が無くても食材はある程度持つと判断して買いだめを行った。


 買った食材はおから、キムチ、納豆、そして卵にとろろ芋に醤油、野菜類を少々、パスタの麺も購入した。


 そこまでの出費ではないが、量が量で、キムチは樽ごと購入し、それを選手寮に運び込むので選手も監督も驚いていた。


 翌朝、食堂では金属の弁当箱をシュトロハイムが持ってきた。


 味噌汁とご飯を受け取り、弁当箱を開けると中にはキムチ、納豆、卵、とろろ芋、おからが混ぜられて入っており、それをご飯に乗っけて食べ始めた。


「オイシイデス!」


 現代のスタミナ丼である。


 これに豚肉が入っていたら完璧であるが、そこはおからで我慢。


 朝からしっかり食べたシュトロハイムは殺人体操と呼ばれるアップをこなしてキャッチボールを始め、守備練習や打撃練習を行っていった。





 ただ数日もすると秋季練習が終わり、春までのオフシーズンに入る。


 多くの選手は帰省をするが、テスト生にそんな悠長な時間は無い。


 結果が残せなければ1年でも見切りを付けられるのがテスト生であり、12名の選手が二軍の寮に残って練習を続けていた。


 二軍コーチと二軍監督や二軍マネージャー達も人なのでこの時期は休みを取るために来なかったり、早めに上がったりする。


 全体練習は午前中までで午後からは自由裁量に任される時も多く、素振りをしたりキャッチボールをするといった事が多かった。


 シュトロハイムはコーチが居なくなった後、ノックを受けたい人を募り、ノックを打つ係や逆にノックをしてもらった。


 シュトロハイムは守備練習を見ながらその選手の守備範囲を把握し、守備範囲ギリギリにノックを打ったり、真正面で捕球する練習を繰り返した。


 とある選手はコーチの誰よりもシュトロハイムのノックが上手かったと語るほどである。


 そしてシュトロハイムはバッピ(バッティングピッチャー)くらいならできた為に、投手が休憩の時に投球することもこのオフシーズンの間はあった。


 というのもこの頃まだバッティングマシーンが普及しておらず、若い投手が投げる球を打つのがバッティング練習であるが、どうしても故障しないために投げられる投球数だったりボール拾いをしなければならないことや年功序列で、新人選手は5から10球打ったらその日は打席に立てないこともザラであった。


 なので人が少ないこの時期こそテスト生や二軍の若手は打撃練習ができる時期である為、こぞって打席に立とうとした。


 なので投手が不足するのでシュトロハイムが投げることになったのだが、カーブ、スライダー、フォークとストレートを綺麗に投げ分けるし、コントロールも良く、平均145キロ前後の球速で投げてくるので、何で投手をやらねーんだよと参加している選手は皆思った。


 で、シュトロハイムと同期でこの練習に参加していた投手の宮永悟はコントロールが不安定ながら140キロのストレートで甲子園に出場した選手であり、ドラフトで呼ばれなかったがプロでもやれると思い、地元から一番近かった京都タクシーズに入団したのだが、シュトロハイムに伸び切った鼻を叩き折られてしまい自信を喪失していた。


 自暴自棄になった宮永はシュトロハイムに


「お前が一番打てない球を教えろ!」


 と聞くとツーシームと答えられた。


 まだストレートの握りが縫い目に合わせて指をかけるという程度の認識であった日本球界。


 ツーシームと聞いてもピンと来るはずもなく、詳しく説明を聞くと汚いストレートとこの時期言われていた球に近かった。


 シュトロハイムは


『手元で僅かに変化するボールは打ちにくい、ストレートの球速は各種の筋肉を鍛え、体重移動のしっかりとしたフォームにすれば自ずと球速は上がる。平均球速が上がれば力まなくてもある程度の速度で投げられるようになり、それがスタミナを残すことにも繋がる』


 と答えた。


 球速を上げるやり方としてシャドーピッチングは勿論、ゴムチューブを使ったチューブトレーニング、狭い場所でもできるサーキットトレーニング、あとは走り込みと遠投もオススメした。


 また宮永は下半身に対して上半身が貧弱だからウェイトトレーニングを行った方が良いとアドバイスを行った。


 まだバーベルやダンベル等は金持ち球団の一部が導入し始めた頃であり、貧乏球団の京都タクシーズにその様な金は無かった為、筋トレ機材も用意できてないので、一升瓶に砂を詰め、鉄パイプに糸で吊り下げてバーベルモドキを作成して練習を行った。


 宮永とシュトロハイムが面白い練習をしていると他の選手も興味を持ち、他に何か面白いトレーニングは無いかと聞かれ、ミニハードルを使った腿上げトレーニングをシュトロハイムは紹介した。


 瞬発力と走力を鍛える練習であり、プラスチックハードルはこの時代無いのでゴムタイヤを切り分けて立たせることで解決した。


「面白いなこれ」


 と確かに腿上げの練習ではあるが、ハードルを置くことでどれくらいの高さまで上げれば良いかわかるし、前に進むことで地面を蹴る力も身に着けることができるトレーニングである。


 こうしたトレーニングを続けていたが、オフシーズンに一番成長したのは宮永悟であった。


 球速は短期間に9キロ上がり、最高球速は149キロ、元々持ち合わせていたカーブとチェンジアップにシュトロハイムから教えられたツーシームとフォークボールを覚え、更に四分割であればストライクゾーンに投げ分けられるコントロールを身に着けることができた。


 これは下半身と上半身の筋肉が付いたこと、シュトロハイムと毎晩部屋でシャドーピッチングを続けフォーム改造に成功したこと、仲良くなりシュトロハイムと同じ食事を金を出し合って食べるようになったことと複数の要因により使える戦力へと覚醒するのだった。

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