1967年春 アメリカキャンプ 一軍昇格
春季キャンプ前の一軍二軍揃った幹部ミーティングに湯浅社長直々にお願いし、チーム再建に5年の長期契約を結んだ今期京都タクシーズを指揮するのは吉田正義であった。
吉田正義はパ・リーグの東京ナインズの監督をしていた人物であり、球界の盟主として二連覇しているナインズの前任監督であった。
育成能力は定評があったが、4年前に選手やコーチからクーデターを起こされて退団したという人望には疑問が持たれる人物でもある。
京都タクシーズの運営は彼に全権を与えたのだ。(GMと監督を共に行う全権監督のこと)
「2年は捨てるぞ。勝負は3年目だ」
ミーティング開始早々吉田正義はそう言い放った。
「金がねーんだ。他所様から引っ張ってくることはできねぇ。なら育てるしかねーだろうな···食事に金をかけるぞ」
「食事ですか?」
「まずは体あってのスポーツ選手だ。体を大きくして力をつける。その為には質の良い食事を選手に食べさせる必要がある。そこから手を付ける」
今まで金満球団でやってきた吉田は京都タクシーズの貧乏ぶりを嘆いたが、気持ちを切り替えて金のかけるべきところとそうでない所をしっかり割り切った。
そして前年に高額選手の首を切り、多くの選手を金銭トレードで流出させたが、お陰で資金に少しばかり余裕が出来ていた。
「その金を使ってアメリカで野球を学ばせる!」
春季キャンプをアメリカで行うことを断行させる。
というのもナインズ時代、選手をアメリカでキャンプをさせることで選手の意識改革に成功した前例があり、テスト生含めて全員アメリカに連れていき、大量解雇、大量トレードによる大出血で強制的に若返りをすることになったタクシーズの若手から使える選手を見極めるという思惑もあった。
吉田は春季キャンプの場所を西海岸のカルフォルニアにあるメジャーリーグの球団と合同で行う事に決め、パスポートを取らせたりしてアメリカの地に飛んだのだった。
シュトロハイムは親に反対されてアメリカに行けなかったのに日本に来たら速攻でアメリカに来れた事に困惑しつつ、練習を始めた。
『お、若いのどこ出身だ?』
『西ドイツだ』
アメリカに到着した俺は日本人の中に白人が混じっていた為、メジャーリーガーに声をかけられた。
『メジャーリーグに挑戦しねーのかよ』
『したかったが、日本に行ってみたい気持ちと親が元軍人でな、アメリカに行くなら絶縁だと』
『それでもメジャーに来なかったお前は負け犬だ。わざわざ後進国で野球をやるなんてな! なぁ皆』
ハハハと笑いが起こる。
『まぁメジャーリーガー様が日本人やお前にメジャーリーグの偉大さを教えてやるよ!』
と言われ、シュトロハイムは静かに怒りを溜めていた。
日本人選手は早速練習に参加したが、野球先進国であるアメリカのプレーに圧倒されて、いかに自分達のレベルが低いのか痛感していた。
「東京ナインズのメンバーも同じ顔をしていたぜ。お前らもこの春季キャンプで学べ。学んで強くなれ」
と吉田監督が選手に声をかけるが、メジャーリーガーの投手から快音を響かせる選手が1人いた。
モンティナ·フォン·シュトロハイムである。
バッターボックスに立ったシュトロハイムは怒りをパワーに変えて柵越えを連発。
『おいおいメジャーリーガーの球はこんなもんかよ』
と挑発したら一軍の投手が出てきて、1打席勝負になった。
最速155キロのストレートを外角低めに投げ込まれ、次に大きく曲がるスライダーは外に外れてボール。
次に投げられた内角低めのストレートを体を開きながら引っ張ってポールギリギリのファールにすると続いて投げられた真ん中から低めに落ちるフォークボールを掬い上げてバックスタンドに叩き込んだ。
『誰が負け犬だ!』
そう言ってシュトロハイムは打席から出たのだった。
「あれは誰だ」
打撃練習を見ていた吉田が竹田二軍監督に聞く。
「テスト生で入団したモンティナ·フォン·シュトロハイムです」
「守備は」
「ショートをしています」
吉田は守備練習に移行し、シュトロハイムの守備を見たが、メジャーリーガーと遜色ない守備能力を見て
「軸は決まった。シュトロハイムを呼べ」
とシュトロハイムが吉田に呼ばれ
「一軍で使う。打順に希望はあるか?」
『では2番でお願いします』
と言うと吉田はニヤリと笑った。
吉田はこの世界の日本で始めて2番打者に強打者を置くという戦術を試した人物であり、その考えに合致していた。
その後京都タクシーズは春季キャンプ中、3Aのチームと10試合対戦し、6敗と予想よりも健闘し、シュトロハイムは打率8割12本塁打6盗塁を記録し、大爆発し、一軍レギュラーの座を射止めたのだった。
一軍に昇格したのはシュトロハイムだけでなく宮永もだった。
宮永はキャンプの試合に2試合中継ぎでロングリリーフをやらされたが、1失点以内に抑えて4勝のうちの2勝は宮永が抑えたお陰であった。
二人はキャンプ後に支配下登録が行なわれ、シュトロハイムは背番号68を身に着けた。
シュト/ロ/ハ/イムの真ん中が6と8という語呂合わせである。
支配下とはいえシュトロハイムは助っ人外国人枠であり、支配下登録できる選手は2名までと凄まじく厳しい枠に滑り込んだのであった。
結果を残せなければ直ぐに戦力外になることや日本人選手枠になるためには10年支配下に居続ける必要がある。(FA前の10年選手制度を拡大解釈したため、裏道として日本に帰化するという手もある)
ただそんな事を恐れずにシュトロハイムはオープン戦で出場すると打撃、守備で躍動。
センターに抜けそうな球をダイビングで捕球すると、そのまま膝を付きながら球を投げて打者をアウトにしたり、大ジャンプで背丈の倍近くの高さのライナー(直線で伸びる打球)を捕球し守備面で貢献した。
打撃は初打席から三打席連続アーチ(ホームラン)というインパクト抜群のデビューを果たすと、オープン戦だけで10本のホームランを放ち、球界に衝撃を与えた。
ナ·リーグとパ・リーグの人気の差が徐々に現れ始めていたが、まだ決定的な差は無かった。
しかし東京ナインズと大阪タイガーズの二球団の人気は凄まじく、それに地域で熱狂的なファンが居る薩摩ドラゴンズと愛知カーズ、資金面でもパ・リーグが親会社が新聞、車、貿易と大きく金が動く会社が行っていたのでナ・リーグを圧倒していた。
しかし、オープン戦の活躍でシュトロハイムは注目を集めることになり、弱りに弱った京都の初優勝に向けた起爆剤とされた。
シュトロハイムは一軍に上がったため一軍の寮に移動となったが、暖房がある事に感動した。
冬の間、二軍の寮は壁が薄く、断熱材も入っていなかったのでとにかく寒く、夜は布団や毛布を多く包まって眠る日々を送ったため、温かい寝床だけで感動である。
そもそもシュトロハイム自身、母国でも前政権に協力的な軍人の家族として貧しい生活をしており、復興する周りの生活から家族が取り残され、恩恵を享受できなかったり、激しい差別を受けて生活をし、本国ではマイナーなスポーツ選手になりたいと言った時には両親共に反対され、それでも諦めないで続け、ようやく認められた(呆れられたとも言う)過去があり、今世で始めて認められた事に喜びを爆発させていた。
そして迎えた開幕戦。
シュトロハイムは首脳陣からの信頼を勝ち取り、ショート(遊撃手)2番打者として試合に出場。
初打席は右中間の間を抜けるライナーでワンバウンドで外野フェンスに到達。
ボールを拾っている間にシュトロハイムは俊足を活かして二塁を周り、三塁に到達し、一軍初打席は三塁打となったのだった。
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