1970年 恐怖の投手陣
1970年ペナントの開幕。
まずベストオーダーは
1番セカンド 赤羽
2番センター 酒井
3番ショート シュトロハイム
4番レフト 大星
5番ファースト 井伊
6番キャッチャー 安田
7番ライト 松平
8番サード 糸口
9番ピッチャー
という打順と守備位置となる。
シュトロハイムはこの年3番に置かれ、出塁率の高い中距離打者の大星を4番、他の球団では4番が打てる井伊を5番に置くことで打線の穴を無くし、井伊は捕手の安田か三好が返す。
そして足の速い松平が7番ながらチャンスメイクをする。
サードを守っていた染岡が代打要員兼守備要員に回され、糸口という選手が入った形になる。
糸口は選球眼が良いので出塁率が打率より1割ほど高くなることが多く、小技も使えるのでスクイズや進塁打を狙える選手で、守備も悪くはない。
投手以外はほぼ穴のない打線が完成した。
投手の方は1970年から数年前より真皿選手の悲劇を教訓に全球団で先発ローテーションが固められ、数年前のような50登板40完投みたいなのは流石に無くなったが、良い投手を先発に、実力が劣る投手を中継ぎにするという形が普通であった。
しかし、シュトロハイムはキャンプ前から整備した様に投手分業制を掲げ、先発を5名固定、1枠は新人育成枠として使えそうな投手を見極めるための枠とし、中継ぎ陣や抑えも昨年のHSSこと堀田、惣流院、鈴原は昨年と同じ起用を、左のワンポイントリリーフの多田、大差時のロングリリーフの延宝、便利屋の東宮、火消しの笹木と役割を持った職人型投手を整備した。
これにより投手の負担の軽減などを狙ったが、勿論この試みは初年度だから失敗することもあった。
だが、この投手の層の充実は夏場以降を乗り切るために必須としたし、シュトロハイムが上層部と掛け合い、査定方法を変え、セーブがメジャーでは継投した投手の指標とされていたが、これに加えてホールドポイントという約15年先取りした指標を作り、中継ぎ投手が1ホールドやセーブ毎に5万円の追加査定をするようにお願いをし、やる気を上げていた。
また本西監督もベンチで場を盛り上げたり、ファンサービスを積極的に行った選手は監督賞としてボーナスを与えることを約束したことで選手のやる気は天元突破。
「黒い霧なんて関けぇねぇ! 俺たちはプロ野球選手だ!! 野球で金を稼いで夢を与えるお仕事だ!!」
と堀田が叫んだこの言葉は新聞に切り取られてファンの心を鷲掴みにする。
こうして始まったペナントだが、まぁ他球団が弱体化したのもあり、20試合19勝1引き分け、平均9得点と虐殺。
恐怖の120勝ペースで突き進む京都ゲームズに他球団は恐怖を覚え、京都府民は昨年以上の強さの京都ゲームズに京都黄金期到来だと歓喜の声が巻き起こる。
黒い霧最中のナ・リーグで唯一集客数が2割減少で留まっており、2割の減少理由も狭い代用球場で行っているからというもの。
引き分けを挟んでの連勝は38まで伸ばし、5月になってようやく1敗。
貯金37と優勝確定コースの為、京都以外での試合は観客がほぼ居ないガラガラ状態であった。
2位は岐阜ナイツで大差がついていたがギリギリ勝率を5割に乗せており、他の4球団は莫大な借金を押し付けられ、1強1普4弱が完成。
4弱の中で3位争いが激化していたが、少なくなったナ・リーグファンは京都ゲームズがどんなシーズン記録を打ち立てるかで話題は持ち切り。
投手を除いたチーム打率が3割を超え、赤羽、酒井、松平が盗塁を量産し、チーム内で盗塁王争いが勃発。
シュトロハイムが相変わらず三冠を取りそうであるが、ホームランが5月時点で40本に乗せてシーズン110本塁打ペースである。
勝負されるようになったことで若干打率は落ちているが、それでも5割を超えており、打点は大台の300打点が見え隠れしていた。
というかシュトロハイムは3塁打をこの年は量産し、ホームランとほぼ同等の35本の三塁打を放っていた。
3塁にシュトロハイムが居るので大星の打点も上がり、大星が居るので井伊の打点も上がる好循環が出来上がっていた。
そして5月21日から5月23日までの新潟ビートルズとの3連戦、事件が起こる。
通称123点事件であり、21日45得点、22日38得点、23日40得点と高校野球の県予選で稀にあるような試合が3試合連続で起こってしまい、大量得点時に盗塁はしないという暗黙のルールもチーム内で盗塁王争いが起こっていたので破り、キレた新潟ビートルズの投手が報復死球をシュトロハイムに投げたらそれをホームランにされて心が壊れるという場面も発生。
他の選手で報復死球を行い、乱闘騒ぎになり、両陣営の監督が退場する事態になったが、報復死球関係なしに観客が喜ぶからと虐殺を敢行。
そうした結果こんな凄まじい点差になってしまったのだった。
ちなみにこの3日間で京都ゲームズの本塁打は42本、38盗塁、しかも22日はローテ1番手に定着した負けないエースの園城寺が15奪三振含む115球で完全試合を達成。
21日の試合で両リーグ1試合最多得点記録を大幅に塗り替えたり、1試合最多本塁打記録(18本塁打)など記録ずくめであった。
ただこのことを新潟ビートルズは恨む様になり、新潟ビートルズが京都ゲームズに対して勝利を望む様になっていく。
打線はやや参考記録扱いになりそうな勢いだが、投手は先発1番手に定着したのは園城寺、2番手宮永、3番手水野、4番手シュナイダー、5番手西園寺、時々他選手が投げるという感じであり、5本柱が強すぎた。
あり、5本柱が強すぎた。
50試合終わった時点で、まず園城寺は高速シンカーとパワーカーブを武器にしていたが、ストレートの球質が上がった事(伸びる球かつ重い球 球に回転が凄まじく乗っている)で、奪三振を量産。
高速シンカーのキレも良く、打者をキリキリ舞いにしていた。
防御率は1.21、9勝0敗。
宮永もウェイトトレーニングの成果で大台の150キロを超えるストレートと壊れない肉体を手に入れ、ツーシームやスプリット、チェンジアップ、カーブを操り、緩急と縦や斜めの変化球で相手を翻弄。
防御率1.69、7勝0敗。
3番手の水野も高速シンカーとカーブ、更にアンダースローから147キロのストレートが下から伸びてくるので打てない。
球速以上に速く感じる球は打者に恐怖を感じさせるには十分であった。
防御率2.11、7勝1敗。
4番手シュナイダーは死神スライダーとサイドスローで155キロと化け物の肘を持ちフル回転。
防御率はこのメンバーで一番低く0.99であり、8勝1敗。
ただスタミナ温存の為に勝利権利を持ったら5回か6回に必ず降板するので継投陣が多く投入される日である。
5番手西園寺は打たせて取るピッチングに磨きをかけ、カットボールの他にツーシームと2段階に落ち方を調整できるフォークを身に着けて凡打の山を築いた。
典型的なゴロピッチャーであり、シュトロハイムと赤羽、酒井の守備範囲の広さに大きく依存していた。
防御率は2.58、7勝2敗。
ただ他の育成枠の6番手投手は色々使われているが2勝した選手はおらず、ロングリリーフの延宝が3勝を上げていた。
ほぼ負けておらず、強力な将軍打線が毎試合ぶちかましてくれるので安心感が半端なく、西園寺以外は目立った炎上も無く、安定した先発陣に、中継ぎ労働課も良い仕事を続け、先発陣の完投は少ないが、中継ぎが分業制で仕事をきっちりこなしてく。
まぁ打線が強力過ぎてホールドもセーブも付かない場面が多く、記録には残らないけどしっかり働いてくれていた。
先発陣の完成、中継ぎと抑えも防御率が1点前半と理想的な投手陣が整備されたことで一方的な試合展開が多く、故に虐殺と称され、ナ・リーグの集客に大幅な影響が出るまでになってしまっていた。
ただ東京ナインズも数年前に同じ事をパ・リーグでもしており、京都ゲームズの黄金期が来たと捉えるファンの方が多かったが···
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